一話
何故だか押し黙ってしまったアーデルハイトに、ツァハリーアスは掛ける言葉を見つけられないでいた。彼の僅かに後ろを歩く少女の上に、白々とした月光が落ちる。月が引きずり出した少女の影が、暗い地面に溶けた。
本当に、とツァハリーアスは思う。彼女は人形のようだ。魂のない、ただの物。
自動人形。ツァハリーアスはそんな己の想像を嗤った。それは今夜の満月と、美しすぎる彼女が彼に見せる幻想でしかない。
彼女は人間だ。彼が歩いているのは夢の中などではなく、現実世界なのだから。
「ねぇ」
ツァハリーアスは浮遊しそうになる己をつなぎ止めるために、声を発した。
少女が顔を僅かに上げた。続けて何を言うかなど考えてもいなかった彼に、焦りが生まれる。
現実感を奪う灰色の少女の瞳に対抗するかのように、ツァハリーアスは必死に言葉を見つけた。
「き、君はこの街を知っている?」
そうだ、とツァハリーアスは思う。帰る場所なんてない。そう彼女は言った。
だがそんなわけはないのだ。この身なりの良い彼女が、全くの天涯孤独な身の上なはずもない。彼女に庇護を与え、世話をしている家族なり親族なりがいるのだ。
少女の足ではそう遠くにまで行けるわけもないだろう。彼女のような綺麗な身なりをした人間は、都市にしか存在しない。
そして「街」と呼べるような比較的発展している集落はここだけだ。ならば彼女はこの街の住民、少なくとも関係があるのが道理だ。
だがツァハリーアスの考えを裏切り、アーデルハイトは「いいえ」と短く、けれどもはっきりと答えた。彼の顔に疑わしそうな表情が走ったのを見て取ったのか、「本当よ」と静かに付け加える。
それでも、そんなはずは、とツァハリーアスが反論しようとした刹那、角の向こうからいくつもの明かりが現れた。月の静かな光を打ち破る、揺れる炎。
「伯爵様!」
聞き慣れた声は、彼の使用人たちだった。
驚く彼の周りに、幾人もの使用人たちが走り寄ってくる。ご無事だったのですね。良かった。そう口々に言う人間たちの中に、先刻逃げ出したセラピオンがいた。
「わたくしも安心いたしました」
セラピオンは悪びれることもなく、言った。彼の手の中の十字架が、鈍い銀色を反射する。
「あのオオカミの声が幾重にも木霊する中ではぐれてしまいましたから、もしかしたら最悪の事態になったのではないかと心配していたのですよ。
使用人の皆と一緒に手分けして探そうと思っておりました」
はぐれた。よくも言えたものだ。ツァハリーアスは思わず笑った。ここまで正々堂々と嘘を言われるとは思わなかった。
反論してやろうと彼が口を開くよりも先に、セラピオンが「やっ」と悲鳴にも似た声を上げた。
彼の指差す先にはアーデルハイトが。ツァハリーアスと使用人たちから数歩離れて立つ彼女を、セラピオンがカンテラで照らした。
炎を受けた少女の髪が、金色に照った。頬は青白く、唇には特に血の気がない。こちらを見上げる瞳は、ガラス玉を思わせる空虚さだ。
ツァハリーアスは驚いた。先ほどまで銀色であったはずの髪が、鮮やかな濃い金色に変わっている。
それ以上に衝撃的なのは、彼女が纏っていた幻想的な美しさが消失したことであった。精巧に作られた人形のようにも思えた少女は、いまや死人の如き不気味な存在へと変貌していた。整いすぎた顔が、かえって恐ろしい。
「吸血鬼」
静まりかえった空間に、音を放ったのはセラピオン。彼の指がアーデルハイトに突きつけられる。
「吸血鬼め」
アーデルハイトは困ったように、ツァハリーアスを見上げた。小さな肩、弱々しい存在。
「セラピオン氏」
ツァハリーアスはふつふつとわき上がってくる感情を抑えながら、問うた。
「その発言には根拠があるのかい? 見ず知らずのこんな、子供とも呼べる年頃の女の子を吸血鬼呼ばわりとは、酷いね」
「酷い? その言葉をあなた様にそのままお返しいたしますよ。この小娘を連れてきたのは伯爵、あなたでしょうからな」
にらみ合う二人を、使用人たちは好奇心を隠しきれずに見つめた。
「僕は彼女を保護しただけだ。あのオオカミの徘徊する場所に、一人で置いておけるわけもないだろう」
「それがこいつらの策略なのです! 弱々しい存在を装って、相手の懐に潜り込むのです。どうしてこの娘は、自殺者の墓なぞに居たのでしょうか。吸血鬼を見分けると言われる黒馬は、墓を恐れていたではありませんか。この娘はまともではない」
「吸血鬼、ね」
ツァハリーアスは黒髪を掻いた。
「そんなのは幻想だ。血を吸って生きる化け物だなんて、そんなのものは存在しない。想像の中だけの存在だ。ただの昔話だ」
「恐れながら伯爵様。古から伝えられる昔話には、真実が潜むものでございます。全くの虚言ならば、長い年月を生き抜けずに消失してしまいましょう。
最近の啓蒙主義だか何だか存じませんが、この世の全てのことを人間が理解することが出来るなどと考える思想はおこがましいことでございます。伯爵様もその手の一人なのでしょうが」
「昔からと言っても」、ツァハリーアスは首を振る。「吸血鬼なんてお伽噺がこのドイツに入ってきたのは、ここ最近のことだろう。それも東の異教の地からだ。君は牧師という立場でありながら、異教徒の話を信じるつもりかい?」
ツァハリーアスの辛辣な言葉にも、セラピオンは引く気配を見せなかった。
にらみ合う両者の間に入ったのは、問題となっている本人アーデルハイトであった。静かな声が彼らの間に落ちる。
「私のことで揉めないで欲しいわ」
全員の視線が彼女に向けられる。皆から離れて立つ少女には、カンテラの光は届かない。
ただ月光だけが落ちる彼女の髪は銀色。先ほどは濃い金色に見えたのに、とツァハリーアスは疑問を抱くが、彼以外の人間は気が付かないのか何の反応も見せない。
「私のせいで揉めるなら、出て行くわ。私が何なのか、私自身説明できないもの。そこの牧師様かしら、は私のこと『まともではない』と言ったけれど、それはきっと正しいのよ」
少女は静かにセラピオンを見た。
彼は何故かたじろいだが、それは一瞬のことで、すぐに勝ち誇ったように胸を張った。使用人たちも見知らぬ少女に、胡散臭い視線を向ける。
どうして、とツァハリーアスは思う。どうしてこんな小さな娘に、こうも酷薄な態度が取れるのだろう。この少女はこんなにも頼りなく、孤独な身の上であるのに。
「でも」
彼女を擁護するために口を開き掛けたツァハリーアスを制するように声を上げたのは、彼の古くからの女中だった。
「伯爵様」、非難の色を隠す気配もない。「またこの街に不幸をもたらすおつもりではありませんでしょうね?」
ツァハリーアスは反射的に発言者を睨め付けた。
彼女の言葉が糾弾するのは、十五年前のペスト禍での彼の両親の対応のことだ。あの惨事は十年以上の年月を経た今でも、この街に色濃く残る。その被害も、その怨嗟も。
「まぁまぁ、伯爵様」
得意げにツァハリーアスを宥めるのはセラピオン。その余裕が彼の神経を逆なでていることに、気が付いているのかいないのか。
「全身白ずくめの格好をしている時点で、その娘がまともな人間のはずもありませんしな。白衣の女は重要な死を告げる者。それは人間ではなく、彼岸の存在です。この世の者ではない、救われぬ魂なのです」
「救われぬ魂ね」
ツァハリーアスはセラピオンの言葉尻を捉えて反論に転じた。
「ついさっきは彼女のことを『吸血鬼』だと言ったのに、今度は『救われぬ魂』か。いったいどちらが正解なんだい?」
セラピオンの手から奪ったカンテラで、ツァハリーアスはアーデルハイトを照らした。眩しげに目を細める少女の、白いドレスがきらきらと光を反射させた。
「魂ならば実体もなく触れられないはずだけれど」、と彼は少女に手を伸ばす。たじろぐ彼女の、今は金色の髪にそっと触れた。「こうやって触れられる」
それとも、と彼は微笑を浮かべて言った。「白衣は吸血鬼の決まり事でもあるのかな? 僕には彼女はただの人間にしか見えないけれど、君達には化け物に見えるのかい?」
主人であるツァハリーアスから問いかけられた使用人たちは、互いに顔を見合わせた。
誰一人答える者はいない。セラピオンの言葉が場の支配力を失ったことを確信した彼は、己の優位を確定させるために言葉を重ねる。
「それに僕には彼女が身元のしっかりした人に思えるよ。その証拠に、彼女の白衣にはとても凝った刺繍と装飾が施されている。
救われぬ魂とやらが身に付けるには、豪華すぎるように思うな」
「ならば」、セラピオンはツァハリーアスに噛みつく。「何故この娘は己の身元を言えないのでしょうか? 真っ当な人間ならば、どうして自殺者の墓などに一人蹲っていたのでしょう」
真っ向から対立する二人の間で、使用人たちは答えを求めて件の少女を見た。
他者の視線に晒された経験などない彼女は口ごもる。
「私には」、少女は俯く。豊かな波打つ髪が彼女の表情を隠した。「私が誰なのか、分からないわ」
「心配しなくても良いさ。ちゃんと僕が君の身元を調べてみせる」
ツァハリーアスの手が、少女の顔にかかった髪を掻き上げた。
冗談のように青い、けれども空虚な瞳が彼を見る。それはまるで「後悔するわよ」と警告しているかのようだ。
ツァハリーアスは彼女の瞳から視線を外すと、使用人とセラピオンの前で宣言した。
「こちらの小さな令嬢は、アーデルハイト。アーデルハイト・キャセリックだ。彼女の身元が分かるまで、僕が預かる。お客さんとしてね。
僕がそう決めた。まさか君たち、僕の決定に異議を唱えるつもりじゃないだろうね」
使用人たちの間に小さな動揺が走る。けれども主人である彼に、面と向かって反対出来るはずもない。セラピオンもまた、苦虫をかみ殺したかのような表情で首を振った。
「早く身元が分かると良いですな、そのアーデルハイトとやらの娘の」