二話(二)
馬を失ったツァハリーアスと少女は、そう長くもない道のりを徒歩で辿った。何の照明も持たぬ彼らを、月光だけが照らす。白い少女のドレスが月光に映えた。
僅か先を歩く少女の後ろを追いながら、ツァハリーアスはその時代錯誤なドレスを凝視していた。
肘から先に大きく拡がった袖は幅広く折り返され、光沢のあるインナーを覗かせている。袖口に施された豪奢な刺繍が、細かな輝きを銀色に照り返す。
ウエストから地面へと自然に垂れるオーバードレスは、袖口以上に月光を強く反射させる。彼は目を細めた。その反射の正体は格子柄の刺繍と、それに縫い付けられた真珠だ。
彼は舌を巻いた。これはこれは絶品だ。これほどの面積を刺繍で覆うのは、並大抵の仕事ではない。その上に真珠だなんて。
彼はこれほどまでに手の込んだ衣裳を目の当たりにしたことはなかった。昨今の流行りの、無駄に膨らませたドレスとは明らかに異なる仕立てではあるが、この少女はやはり上流階級に属する娘なのだ。
オオカミの声が聞こえる。尾を引くその鳴き声は酷く不吉だ。
少女が突然立ち止まった。すぐ後ろを歩いていたツァハリーアスは、避けきれずに少女にぶつかる。ふらつく少女を支えてやれば、少女が至近距離から彼を見上げた。
つくづく美しい娘だと思う。このご時世では、誰もが皮膚に少なからず瑕疵を持つものなのに、この少女の皮膚にはニキビ一つ見えない。
「お墓、大丈夫かしら」
オオカミよ、とツァハリーアスが理解出来ないことを見越したように、少女が言い足した。
「あぁ」とツァハリーアスは答える。彼女はあの墓がオオカミに荒らされることを怖れているのだ。
「大丈夫だと思うよ。あの立派な十字架を見ただろう? あれだけ大きな十字架を建てられるくらいに、地面を強く突き固めてあるんだよ。だからオオカミごときには掘り返されないと思うよ」
「そう」
ほっとしたように少女が小さく笑んだ。彼女は、とツァハリーアスは感じる。決して悪い人間ではないのだ。
「君、名前は?」
少女が怪訝そうに彼を見返した。その瞳はガラス玉のように空っぽだ。
その空虚さはツァハリーアスに嫌な予感を抱かせたが、彼は全てを無視した。彼女は人間だ。人間の形をしているのだから、人間以外のはずがない。
「名前だよ、名前」
「ない、って言ったでしょう」
「本当に?」
「しつこいわね。本当よ。誰も私を呼んだりしないから、名前がなくても何の問題もないのよ」
「それは嘘だね。ううん、少なくとも今から嘘になった」
ツァハリーアスは小さな娘に、にっこりと笑んでやった。少女の怪訝が深まる。
「だって、僕が困る。僕はこれから君の名前を呼びたいんだから」
「そんなの」
「だから」、と彼は少女の反論を封じた。「僕が君に名前を贈ろうと思うんだ。良いかな?」
ふぅ、と少女があからさまに溜息を吐いた。それをツァハリーアスは是との答えだと受け取った。
「うーん、そうだね。うん、アーデルハイトにしよう。アーデルハイト。高貴な、って意味があるんだ。君にぴったりだろう?」
満月の下で白く輝く美しい少女。その周囲をなぎ払う孤高さは、高貴と呼んで呼べないものでもないと彼には感じられた。
「好きにしたら良いじゃない」。少女には濃い呆れの色。「どうせ貴方しか呼ばないのだし」
「じゃあ決まりだ」、そう言いながらツァハリーアスは彼女の肩を叩いた。「アーデルハイト、これから宜しく。僕はツァハリーアス。ヒッポリート伯爵ツァハリーアスだよ」
「あら貴方、伯爵様なの」
「どうせ、意外だって言いたいんだろう? よく言われるんだよね」
肩を竦めながら、彼はようやく見えて来た市壁を指した。門に揺らめくのは灯り。
「あれが僕の治める一番大きな街だよ。ようこそ、アーデルハイト。僕の街に」
月を背景にそびえ立つのは、灰色の薄汚れた壁だった。アーデルハイトと名付けられたばかりの少女は、一歩二歩と後ずさる。
違う、と彼女は思う。違う。ここは自分などが存在していい場所ではない。
「元は」。少女の心の内など分からぬツァハリーアスは、アーデルハイトに語りかけた。「たった一軒の狩猟館から始まったんだよ。それが今は二十万の人口を擁するようになった」
「……そう」。少女は視線を足下に落とした。彼女が見るのは、自然そのままの石。人の手で作られた壁に、練り込まれずに済んだもの。「たくさんの人が住んでいるのね」
素っ気ない彼女の返事をも気にせずに、「うん」と声を低くして彼は続ける。「けれど、十五年前にペストが流行するまでは、もっと多くの人が住んでいたんだよ」
少女の肩に置かれたツァハリーアスの手に力が籠った。彼の体温がアーデルハイトの皮膚に染みる。森の湿気と冷気を含んだ地面とは違う、生き物特有の柔らかな温かさ。
それは彼女に、酷い懐かしさと恋しさを思い出させた。だがそれが何故なのか、彼女には分からない。
ほら、とツァハリーアスがアーデルハイトを促す。街と荒れ地を分ける堀には、橋が。ツァハリーアスの後を無言で追う少女は俯いて、流れる水面を眺めた。
貴方は後悔する。そう言ったのはアーデルハイトだった。けれど、と彼女は予感を抱いた。けれど、もしかしたら、後悔するのは彼ではなく自分の方なのかもしれない。それは根拠などない、ただの予感。
だがその分だけ、彼女の心に強く訴えかけた。それでも少女は今更、ツァハリーアスの柔らかな手を振り払う気には、どうしてもなれなかった。