五話(二)
少年が見たのは、黒に浮かび上がる白。闇に淡く輝く人形であった。
緊張と驚きに痛む胸を押さえて、ロムアルドは一歩だけ近づいた。横たわる人形が纏う白衣には、豪奢な刺繍と宝石が。肌は汚れを知らぬ清らかさだ。無造作に投げ出されている髪は、銀糸の如き美しさ。まるで生きているかのように、赤い赤い唇。
知らず溜め息が出た。ロムアルドは素直に彼女の美しさを褒め称えた。年齢は自分よりもやや上であろうか。そう考えかけて、止めた。これは人形なのだから、年齢などありはしないのだ。彼女はずっと未来永劫この外見のまま、歳を取らない。いつか老いぼれて死ぬ定めの少年とは違う。羨望の感情が、彼の胸の奥から溢れた。
それになによりも、と彼は思う。人形である彼女は、くだらない劇など演じなくて良いのだ。舞台に上がる必要性もない。羨ましすぎて、目眩がしそうだ。ロムアルドは更に彼女に近づいた。それは光を愛するあまりに、蝋燭の炎に焦がれて死ぬ蛾に似ていた。
彼は膝をつき、目線を低くした。しばらくはただ眺めていた彼だが、それだけでは足りなくなった。その滑らかな頬に手を伸ばしかけて、そして戸惑う。こんなに美しい人形に、自分などが触れて良いものだろうか。答えを出せぬまま、彼は彼女の閉じられた瞳を強く見つめた。濃い睫毛に飾られた瞼。この蓋が開けば良いのに。そして彼女の瞳でこちらを見、その赤い唇で何かを話しかけてくれれば良いのに。
彼は心から願っていた。彼が知っているのは雇い主夫婦、いや今ではもう彼の両親だ、の罵りだけ。そんな醜い言葉ではなく、美しい内容を聞かせて欲しかった。それが虚構でも嘘でも悪魔の囁きでも、構いはしなかった。
けれども、人形は人形のまま。彼女は微動だにしない。ロムアルドは失望した。けれどもそれも仕方がないのだと、納得もした。目の前に横たわる人形は、あまりにも美しく完璧だ。それは彼女が、彼などとは全く違う存在なのだと雄弁に語っていた。彼女にも彼と同じく両親はいないだろうが、それで彼女が軽蔑されることはないのだ。己のちっぽけな命を繋ぐために、人殺しの雇い主に頭を下げて働く必要もない。寒さに震える日も無ければ、飢えに木に齧り付く夜もない。……殺された少年と入れ替えられることも、ない。
彼女は完璧であった。完全であった。他者などに影響されることもなく、外の環境の変化に呻くこともない。全ては変わらずに、永遠だ。彼女は彼女だけで完結した世界に住んでいるのだ。雑多で醜い人間だらけの世界で生きていかなければならない自分とは、違う。欠けることもなければ、満ちることもない。汚されることもなければ、汚すこともない。闇に横たわる、唯一無二の白衣の人形だ。
ロムアルドは知らぬ間に、己の手を強く握りしめていた。だが彼はそれに気が付かない。ただ奇妙な嗤いだけが、唇から零れて闇を震わせていく。
「貴方が殺したの?」
突然聞こえた優美な声が、彼の歪んだ笑い声を止めた。人形が、彼を見ていた。濃い睫毛を貼り付けた瞼は開かれていた。灰色の瞳が、闇の中の僅かな光を集めて輝く。
ロムアルドは動けなかった。息をすることすら、忘れた。灰色の瞳に心臓を鷲づかみにされているかのような錯覚に囚われていた。彼女の灰色の視線が、どこまでも深く、彼を射る。けれども、それは恐怖ではなかった。自分のようなくだらない命が彼女の意志下にあるのだと想像するのは、ロムアルドには心地よかったのだ。
人形が上半身を起こした。長い白銀の髪が大きく揺れた。袖に施された豪奢な刺繍が、闇に淡く輝く。そして、同じ言葉を繰り返した。
「貴方が殺したの?」
今度は更に、その白く清らかな指がロムアルドの後ろを示した。そこには倒れた麻袋。ロムアルドはようやく彼女の質問の意図を理解した。
けれども彼は答えに窮した。あの屍体に火描き棒を振り下ろしたのは自分ではない。だがもし、自分があの家になど居なければ、彼は殺されなかったかもしれないのだ。例えペストで死ぬことになるとしても、実の父親から手を下されることはなかったのかもしれない。職人にとって、いや誰にとってだって、息子は宝だ。貴重な労働力であり、老後の資金源だ。居なくては困る。だからきっと、彼は代わりとなる自分が居たが故に殺されたのだ。ならばその責任の一端は、自分にもある。
黙したままの彼をどう受け取ったのか、人形の質問は変わった。
「ここに捨てに来たの?」
今度の問いにはすぐに答えられた。
「違う」
彼のはっきりとした答えに驚いたように、人形の瞳が大きく開いた。
「僕は」、ロムアルドは言葉を続けた。少しでも彼女との会話を長引かせたかったのだ。「彼を捨てに来たんじゃない。本当は、彼を埋めてあげたかったんだ。でもそれは僕には出来なかったから。だからせめてオオカミや犬に襲われない場所に、と思って」
「あら、そうなの」
人形の声は、素っ気ない。だが、微かに微笑んだような気がした。それは彼の勘違い、もしくは彼の願望が見せる幻かもしれなかったが。
「気が付いているのかしら。貴方の手、血塗れよ。無理して運んで来たから、皮が剥けちゃったのね。そこまでするだなんて、相手は貴方にとって、とても大切な人なのでしょう」
大切? ロムアルドは首を傾げる。手を見れば、確かに彼女の言う通り、血塗れであった。擦過傷だらけだ。あの麻布のごわついた表面が、手の皮膚を擦ったのだろう。彼女に触れなくて良かった、と彼はほっとした。白く綺麗な彼女を、自分の血なんかで汚してしまうところだった。でも。
「大切なんかじゃないと思う」
ロムアルドの発言に、少女が瞬きをした。実に美しいな、と彼は感じた。汚い自分が同じ空間にいることすら、罪のように思える。
「それならどうしてここまで苦労して運んで来たの? 手、痛かったでしょうに」
「それは」、ロムアルドは考えた。それはきっと。「彼が僕だから。そこで死んでいるのは、僕自身だから」
意味が分からないと怒鳴られるかと思った。だが彼の目の前の人形は、ただ静かに「そう」と呟いただけ。
「ならばここで眠らせてあげなさいな。貴方自身をここに。この洞窟は安全よ。オオカミもまだ知らない。だから貴方はここで静かに眠れるでしょう」
「でも」、と思わずロムアルドは反論した。それは願ってもいない有り難い申し出ではあったが、しかしこの洞窟は彼女の物ではないのだろうか。自分のような醜い人間が、彼女のような美しい存在と一緒にいるだなんて、許されない。
「ああ、私のこと?」
聡い人形は、彼の内心を理解したようであった。
「心配してくれなくとも、お気に入りの場所は他にもあるの。だから、そのどれかに移るわ。貴方の眠りの邪魔はしない。ここは今から貴方たちの物よ」
人形が立ち上がった。ドレスが小さな音を立てる。
「早くお帰りなさいな。朝はもうすぐそこよ」
人形に促されるまま、ロムアルドは洞窟から出た。彼自身の屍体を置いて。灯りもない暗闇のはずなのに、彼女がいるだけで闇は力を失った。暗闇は彼女に触れられないのだ、とロムアルドは感じた。彼女は誰にも触れられず、触れられない。一人ぼっちなのだ。それは人間とは違う、完成された存在。遠くからオオカミの声が聞こえた。それはまるで彼女に服従を誓うかのよう。けれども、彼女には忠誠など必要もない。
「街への近道はあちらよ」
そう囁く彼女に促された彼は、一歩二歩と歩き始めた。忘れていた疲労が彼に襲いかかる。痛む体を意志の力で押さえ込んで、ロムアルドは振り返った。彼が見たのは、人形の白い背中。一度も振り返らずに、森の奥へと進んでいく。それは女王の如き威信と、誰をも近づけぬ拒絶に満ちた後ろ姿であった。美しく広がる白いドレスが、淡い光を放つ。幾重にも木霊するオオカミの鳴き声。高く、低く。短く、長く。彼女の先には、黒い森。白と黒の鮮やかな一瞬。
自分とは違うのだ。ロムアルドは強く感じた。自分はあの夫婦の元に帰らなくてはならない。そして彼らの子として、死ぬまで舞台上で演じ続ける。それが彼にとっての人生の正体であった。けれども彼女は違う。自由だ。一人だ。喜劇とも悲劇とも、そもそも舞台自体に縁が無い。だって彼女は生きてはいないのだから。
徐々に小さくなる白い背中をいつまでも見送りながら、彼は彼女と己との間に横たわる残酷な断絶を、確かに感じていた。




