二話
突如、首に痛みを感じたツァハリーアスは、腕の中の少女を引きはがした。ばたばたと彼女の口から鮮血が落ちる。それが自分の血だと理解する為には、僅かに時間が必要であった。
その間に、少女が負った酷い火傷はみるみると治っていく。血だ。彼は戦慄する。血が彼女の傷口を癒やしているのだ。それは確かに血を糧とする吸血鬼であった。人間とは異なる、化け物。
だが、それでも彼の目には彼女は小さく映った。今までよりもずっと小さく、哀れな、無力な存在に見えた。
「ごめんなさい」
俯いた少女の呟きが地面に落ちる。
「ごめんなさいだなんて、そんな簡単な言葉で許されるはずもないけれど、でも、ごめんなさい」
「アーデルハイト」。そうツァハリーアスは話しかけた。押さえた首筋からはまだ血が流れている。意外と深いのかもしれない。けれども、そんなことは全く気にはならなかった。「謝るときはね、ちゃんと相手の目を見て言わなくちゃ」
彼の言葉に、アーデルハイトが恐る恐るといった風情で顔を上げた。しばらく迷うように視線を彷徨わせた末に、ようやっと彼を見た。それはガラス玉の如き空っぽな瞳。けれどそれが持つ色は、今日の朝と同じ空色。
「ごめんなさい」、彼女は素直に繰り返した。そして問う。「私のこと、嫌いになったでしょう?」
こんな小さな少女を、一体誰が拒絶出来るだろうか。ツァハリーアスは微笑んだ。「いや、ちっとも」。その僅かな動きですら、首からの出血量を増やした。「痛かったし、びっくりしたけれど、でも、それだけだよ」
彼は手を伸ばして、少女の頬を撫でた。青白いけれど、なめらかな肌には痘痕一つない。先ほどの醜悪な傷跡すら、どこにも見つけられない。それは芸術品の如き美しさだ。
「綺麗に治って、良かったね」
「怒らないの?」
そう問いかける彼女の方が怒っているみたいだ、とツァハリーアスは思う。こんな風に動揺する彼女を見るのは初めてだ。
「私は、貴方を噛んだのよ。そして私は吸血鬼だわ。吸血鬼に血を吸われた人間は」
「ああ」
ようやっと彼女の言いたいことが、ツァハリーアスにも分かった。けれど、不思議と彼の心は穏やかだ。
「吸血鬼は感染で増えるんだったね。それで僕は吸血鬼になったのかな? 今のところ、何の変化もないよ。太陽も怖くないしね」
はぁ、と少女が盛大な溜め息を吐いた。
「真剣に悩んでた私が馬鹿みたい。馬鹿ついでに」、少女がツァハリーアスの首に顔を近づけた。傷口を押さえる彼の手を引きはがす。「動かないでね」
また噛まれるのか、と覚悟したツァハリーアスを襲ったのは、白い歯ではなく、赤い舌であった。傷口を丹念に舐めていく、生暖かい感覚。
「ほら治ったわ」。アーデルハイトが耳元で囁いた。「吸血鬼の唾液には、傷口を癒やす力があるの。でも何故だか自分の傷は治せないのだけれど」
少女はそのまま、彼の肩に額を寄せた。とても生きているとは思えない、屍体の如き冷たさが彼に伝わる。けれどもツァハリーアスは、それをもう不快だとは感じなかった。
「吸血鬼に血を吸われた人間は、吸血鬼になる。そうお医者様は仰ったけれど、それが本当なのか私は知らないの。でもこの分だと」、くすくすと少女が笑った。「どうも駄目みたいね」
彼女は体を揺らして笑い続けた。つられてツァハリーアスも笑う。
「それは残念だね」
「本当に」
少女が彼の胸を押した。離れる。そして立ち上がった。建物の大きな影が、彼女の表情を彼から隠した。
「でももう良いの。とても楽しかったから。それに吸血鬼なんて化け物は、きっと私一人だけで充分なのよ」
楽しかったから。過去形の文章。それが気になったツァハリーアスが彼女に口を開き掛けた刹那、悲鳴が静寂な朝を切り裂いた。男の叫び声だ。すぐ側の、通用口から男が一人転がり出て来た。勢い余って地面に倒れる。息も絶え絶えに口にした言葉は「大変だ」の一言。
地面にへばり付いたまま、ツァハリーアスを見上げたのは、彼が雇っている仕立屋のロムアルドであった。彼の金髪が、太陽の下で柔らかく輝いた。




