一話(二)
カラスの尋常ではない声に、ツァハリーアスが庭に飛び出した。直線で構成されたフランス風の庭は、一度下に降りると見通しが効かない。明かりを持たずに飛び出してきた彼には、人工的に整えられた植物たちが生む闇が重い。それでも断続的に上がるカラスの悲痛な鳴き声を手がかりに、彼は必死に己の庭を走った。
いくつもの植え込みを越えて、やっと辿り着いた場所で彼が見たのは、闇に淡く輝く白衣の女であった。その手には、足掻くカラス。必死に抗うカラスが、狂ったように翼を振り立てれば、何枚もの羽根が飛び散った。その一部は白い。カラスの黒い首にまわされた女の細い指に、力が籠もった。白い皮膚が変色する。
「止めろ!」
ツァハリーアスの上げた大声に、女が弾かれたように顔を上げた。否、女ではない。まだあどけなさの残る少女だ。光源などどこにも存在しはしないのに、彼女の纏う白衣が、その髪が、発光しているようにツァハリーアスには思えた。そんなわけはないのに。
アーデルハイトの灰色の瞳が、彼を見た。途端に彼の背中を走るのは恐怖。いつかと同じだ、と彼は思い出す。こんな小さな娘に恐れを抱く理由など、ありはしないのに。彼女の手の中で、カラスが呻いた。
「どうして」。少女の声は冷たい。「どうして、止めるの?」
その声は、あの日、彼女に初めて出会った夜と同じだ。彼女は今と全く同じ声音で告げたのだ。きっと貴方は後悔する、と。
カラスが残った力を振り絞って、少女に抵抗した。それがツァハリーアスの呪縛を解いた。彼が彼女からカラスを奪い取る。アーデルハイトの爪が、彼の皮膚を裂いた。土に彼の血と、カラスが落ちる。落下したカラスは、それでも地面の上で必死にのたうっていた。立ち上がろうと、飛ぼうと、必死に羽を動かす。白が刻印された異形の翼が、大きく土を削る。その姿は実に無様で、そして神々しかった。この化け物はまだ生きているのだ。生を欲している。
「どうして、だって? それは、このカラスが生きたがっているからだよ」
彼が答えても、少女の声は変化しなかった。
「生きていたって仕方がないじゃない。仲間に入れて貰えないのに。独りぼっちで生き続けるだなんて、そんなのは地獄だわ。だから私が楽にしてあげるの」
「それは君が決めることじゃない」
ツァハリーアスの強い口調に、アーデルハイトが彼を見た。灰色の瞳、白い肌、銀の髪、赤い唇。少女は異質だ。闇すら彼女を受け入れない。少女は周囲から孤立していた。独りぼっちなのは、とツァハリーアスは理解した。カラスではなく、彼女なのだ。
「アーデルハイト」。その名は、彼が与えたものだった。彼女自身は果たしてこの名を気に入ってくれているのだろうか。「一人きりでは、生きている価値がない。それが君の考えなのかい」
少女が俯いた。長い髪が彼女の瞳を隠す。血のように赤い唇だけが動いた。
「そうよ。一人は辛いもの」
「そうだね」。ツァハリーアスは屈むと、彼女の顔を下から覗き込んだ。「でも僕は、君を一人になんてしないよ」
彼が少女の白すぎる手を握ってやれば、彼の血が彼女の皮膚に落ちた。そのまま吸収されるかのように、消える。
「貴方は何も分かっていないのよ」
少女の声は、僅かに震えていた。
「貴方、前にも言ったわよね。良い人間でありたい、良い領主になりたい、って」
「言ったよ。それが僕の生きる意味なんだ」
「なら」。少女の瞳が彼を射った。人間の心を揺さぶる、危険な灰色だ。「貴方は私を殺すべきだったのよ。今でもまだ間に合うわ。ほら、殺して?」
どうして、その問いはツァハリーアスの口から発せられることはなかった。それよりも早く、少女には伝わったのだろう。彼女の笑みが深まる。赤い唇が綺麗な弧を描いた。ツァハリーアスの体の奥を、冷たい何かが走る。心臓が強く収縮する。体中の毛が逆立つ。それでも彼は、彼女から視線を外せない。
「どうして? 理由がまだ分からないのね」。少女の唇が言葉を紡ぐ。その度に、小さな舌と白い歯が僅かに覗く。「本当に貴方は何も分かっていないのよ。だから見せてあげる。理由を。証拠を」
時間もちょうど良いしね。そう言った少女が目を遠くに向けた。その先には、明るくなりつつある地平線が。途端に少女は魔力を失った。白銀の髪は濃い金色に、灰色の瞳はただの青いガラス玉に。白く清らかな肌は、青白い不健康な皮膚に。日光を忌避する吸血鬼の前に、太陽が姿を現した。




