二話(一)
夕日が地平線に沈んだ直後、大きな満月が反対側から顔を出した。街を囲む壁を抜け、堀を渡った先に拡がるのは、人気のない平野。
その奥に蹲る森から聞こえるのはオオカミの鳴き声。この地では滅多に聞くことも無い獰猛な響きに、馬が神経質そうに耳を立てた。
ツァハリーアスは己の黒馬を宥めてやりながら、平野に目をやった。地平線から昇ったばかりの満月は、早々と雲に覆われつつある。その変動する光に照らされる地は、どこまでも荒れている。誰もいない、何のためでもない土地。僅か十五年前までは、ここにも畑が広がっていたのに。
「自殺した娘の墓に現れる吸血鬼は、白衣姿だそうです」
低いセラピオンの声が地面に落ちる。
「白衣の女は」、彼は己に宛がわれた白馬の鬣を撫でながら続ける。「重要な死を知らせる存在です」
月光が雲に遮断された。カンテラに照らされた白馬がオレンジ色に照る。対して、ツァハリーアスの黒馬と、目の前の土地が暗闇に沈んだ。
件の娘はこの捨てられた地に埋められているのだ。名誉ある死者は街中の教会に葬られるのに対して、自殺者である娘は侮蔑と共に荒れ地に。この地は古くは森であり、街の人口が増えるにあたって切り開かれたが、しかし十五年前のペスト禍で人口が激減するに伴って放棄されたのだ。それは回復することなく、現在に至っている。
「白衣の女の噂は、十五年前のペスト禍の際にも見られましたな。白い女を見た者は死ぬ、と」
それもまた、とツァハリーアスは思う。一体誰が言い始めた噂なのだろう。白い女を見た者が全て死ぬのであれば、それを伝えることも出来ないだろうに。
馬が脚を止めた。オオカミの吠え声が激しくなる。ツァハリーアスが掲げたカンテラが照らす先には、大きな十字架。自殺した娘の墓だ。そしてそこに蹲る、白い何か。
馬が激しくいなないた。ツァハリーアスが黒馬をあやす間に、セラピオンの白馬は逃げ出す。違う。逃げ出したのは馬ではなく、セラピオン本人だ。証拠に彼がしっかりと手綱を握っているのが見えた。
ツァハリーアスは思わず舌打ちをする。神の加護を説く牧師ともあろう人間が、吸血鬼なんてお伽噺を本気で信じているとは。
仲間の後を追おうとする黒馬を諫めて、ツァハリーアスは馬の歩を進めさせた。墓に一歩近づく毎に、馬の怯えが深まる。彼の手から落ちたカンテラは音もなく地面に落ち、暗闇に溶けた。だが、墓に蹲る白い何かは変わらずに闇から独立を保つ。黒に飲み込まれぬ白。それはツァハリーアスに恐怖を与えた。
もはや言うことを聞かぬ馬から降りたツァハリーアスは、それでも前に進んだ。吸血鬼は幻想だ。そんなものは存在しない。それが彼の信じる現実であった。
それを証明するために、彼は進む。震える足を叱咤して、ようやっと墓に辿り着いた。馬の荒い息が彼の耳に届く。そそり立つのは人間の背丈以上の大きさを誇る十字架。墓の住人のために祈る、家族の思いを雄弁に伝える構造物だ。
白い何かはそこにもたれ掛かっていた。月が雲を払った。冴え冴えとした月光が容赦なく降り注ぐ。白い光の下に居たのは、女。否、女とも呼べぬ子どもだ。墓の主よりも格段に若い。満月の光に髪が見事な銀色に輝いている。微動だにしないその姿は、まるで屍体のよう。
恐怖に耐えきれなくなった黒馬が、ツァハリーアスから手綱を奪った。粗い綱が激しく手を擦り、彼の皮膚を裂く。
赤い液体が少女に掛かった。
まるでそれがきっかけとなったかのように、少女が動いた。震える目蓋。白い顔に掛かったはずの彼の血液は、もはやどこにもない。目の錯覚だろうかとツァハリーアスは思うが、けれども少女が血を吸収し、その力で目を覚ましたように思えて、気味が悪い。目覚めたばかりの少女の灰色の瞳が、彼を見据えた。その瞳は僅か一瞥で、ツァハリーアスの動きを封じた。彼の背中に走るのは、恐怖。
怖い、とツァハリーアスは素直に思った。あの牧師のように、今すぐ逃げ出してしまいたい。だが、と彼は思い直す。確かに灰色の瞳の白衣の少女が纏っているのは、圧倒的に異質な雰囲気だ。けれども、彼女は人間であるはずだ。人間の形をしているからには。吸血鬼など、たかがお伽噺でしかないのだから。
信念だけを力に、ツァハリーアスは恐怖を押し殺した。目の前の少女を見つめる。年の頃は十二くらいだろうか。
子供の名残と、大人の欠片を併せ持つ年頃だ。月光に輝く髪は銀色。肌は陶器のような無機質な白。
人の手によって作られた人形のようにも見えるが、同時に人間などには作り得ないほどの隔絶を感じさせる。周囲の闇から淡く浮かび上がる純白。孤独の象徴。
立ち上がった襟が彼女の首もとをすっぽりと覆い隠している。それはツァハリーアスが絵画でしか見たことのない時代錯誤な代物だ。
「ねぇ」
深い静寂を破ったのは、少女の方だった。
「どうしてこのお墓はこんなところにあるの?」
ツァハリーアスは安堵した。
人形の如き少女は、人形ではなく人間であった。彼は己が立つ地が幻想の中などではなく、現実だと確かめた。
だがその行為は、彼が例え僅かであろうとも、吸血鬼のお伽噺を信じていたことを意味しており、それは彼の自尊心を傷つけた。
ツァハリーアスの思いなど知らぬ少女は、答えが返ってこないことに不満を覚えたのだろう、「私の声は聞こえていないのかしら?」とでも言いたげに眉を寄せた。
途端に、彼女が纏っていた異質な雰囲気が消え失せる。滑稽だ、とツァハリーアスは思う。己自身が酷く。
「それはね」、長時間押し黙っていたせいか、彼の喉はひりついていた。「その墓の主が自殺者だからだよ。自殺は『正しい死』ではない。だから教会ではなく、この地に葬られたんだ」
けれど自殺した娘は愛されていたのだろうな、とも彼は感じていた。そうでなければ、こんな立派な十字架は建てられない。
「ふぅん」。ツァハリーアスの答えに、少女は不満げな声を発した。「こんな寂しい場所に一人だなんて。でも貴方の言う通りなら、他に自殺者が出ればこのお墓は独りぼっちではなくなるのね」
それはまるで、次なる自殺者を望むかのような発言だ。「君は」とツァハリーアスは問う。「君は誰なんだ?」
「さぁ」
答える少女の声は軽やかだ。だがその底は冷たく、彼の脳の奥深くまで染み込む。
「私は私が誰なのかなんて、知らない」
「そんなわけ、ないだろう。他の人は君のことを何て呼ぶんだい?」
「誰も私のことを呼んだりしないわ。私はずっと、一人なんだもの」
こんな小さな娘が一人で生きられるはずはないのだ。いや、人間なら誰だって一人だけでは生きてはいけない。
彼の内心を読んだかのように、少女が答える。
「でも本当よ」
僅かな風に、豊かな銀色の髪が揺れた。白く輝くそれは、実に見事だ。絶対にこの少女は誰かに世話をされている、とツァハリーアスは確信した。
もしかしたら言わないのではなく、言えないのかもしれない。何かの犯罪に巻き込まれ、口外するなと脅されているのやも。彼女は恐らくは、不幸な存在なのだ。
「まぁ、いいや」と哀れな少女に、ツァハリーアスは微笑んだ。少しでも彼女の信頼を得られるように。「それで、君はどうしてここにいるんだい? それも言えない?」
「それなら答えてあげられるわ」
少女が上流階級特有のイントネーションの持ち主であることに、ようやっとツァハリーアスは気が付いた。衣裳同様に古めかしい言葉使いではあるが、彼女はツァハリーアスと近しい階級の人間なのだ。
「私がここにいるのは、オオカミを追い払うためよ。私がここを通りかかったせいでオオカミを引き寄せてしまったから。彼らは墓を掘り返そうとしていたわ。だからそれを阻止するために、ここにいることにしたの。彼らは私を追ってはくるけれど、臆病だから近くまで寄っては来られないのよ」
世迷いごとを、とツァハリーアスは思ったが、それを表情に表すのは止めた。
彼女の言葉は、セラピオンが言っていた「夜になると聞こえる墓の怪しい音」がオオカミの仕業であると証言していた。そして、彼が主張したもう一つの怪異である「墓の前に立つ、自殺した娘とよく似た背格好の女」は、この少女自身を指しているのだろう。
肩から力が抜けた。こうして見れば、それは怪異でも不思議でもない。
ここにあるのは、自殺した娘の墓とオオカミと、そしてこの小さな少女だけだ。全ては住民の逞しすぎる想像力が産んだ幻だ。全ての吸血鬼話がそうであるように。
十字架に凭れたままの少女に、ツァハリーアスは手を差し伸べた。
少女の瞳が大きく開かれる。零れ落ちそうなほどに丸いそれは、青色だ。先ほどまでは灰色をしていたはずなのに。
「送ってあげるよ」。驚きも露わに見上げてくる少女に、彼は言った。「君が帰りたいところに。君はどこから来たんだい? 君が望む場所まで、連れて行ってあげる」
少女が瞬きをした。大きな瞳を縁取る睫毛は濃い。
「要らないわ」と、少女はそっけなく答える。「帰る場所なんてないもの。それよりも貴方こそ早くお帰りなさいな。夜が更けるにつれてオオカミの数は増えるわ。私がオオカミの気を引いてる間に、お帰りなさい」
少女の声に呼応するかのように、オオカミが鳴いた。馬、彼の逃げ出した黒馬だろうか、のいななきも聞こえる。
「言いたくないのなら、それはそれで構わない。君には君の事情があるのだろうし。でもね、僕は君を置いてなんて帰れない。行く場所がないのなら、僕の邸に来ると良い」
ツァハリーアスの強い口調に、少女が首を傾げた。長い髪が揺れる。
「貴方に心配していただく義理なんてないわ」
「僕はこのあたり一帯の領主だ。領主として、いや、人間として、君みたいな子供をこんな危険な場所に置いていけるわけはないだろう」
「子供、ね」
二人の会話は平行線のままだ。オオカミの声が近くから届く。その後を追うように、馬の悲鳴も。長く引き摺られるそれは、まるで「断末魔」。少女の冷たい声が、彼の心の続きを音にした。
「貴方の馬でしょうね。可哀想に。近くにオオカミがいるのよ。それも私のせいで気が立ったオオカミが」
少女が下からツァハリーアスを見上げた。
「貴方も喰われるわよ?」
純粋な恐怖がツァハリーアスの背中を駆け上がった。怖いのは、と彼は思う。オオカミなのか、それともこの小さな少女なのか。
「早くお帰りなさいな。オオカミが貴方の馬を貪っている間に」
「駄目だ」、ツァハリーアスは強く首を振る。「こんな危険な場所に君を置いては行けない。僕には責任がある」
「それは貴方が領主様だから? つまらない意地で自分の命を捨てるつもり?」
「僕は領主だ。領主としての勤めを果たすために、僕は生きている。ここで君を見捨てるようなら、僕には生きている意味がない」
「意味、ねぇ」。少女が深い溜息を吐いた。呆れの色も露わに言う。「まぁ良いわ。貴方のその意地の強さだけは分かったわよ。このままでは貴方はオオカミに喰われてしまうけれど、それはそれで寝覚めが悪いわ。私、こう見えて、無駄な殺生は嫌いなの。だから、貴方の提案を受け入れてあげる」
「つまり、僕の家に来てくれるのかい?」
少女の瞳が彼を射る。再度灰色に色を落したそれは、彼から言葉を奪った。
「忘れないで。私はちゃんと忠告したわ。それを無理強いしたのは貴方、よ。きっと貴方は後悔する」
後悔か、とツァハリーアスは思う。このままこの少女を置いて帰るほどに、後悔することなど、ない。強引に彼女の手を取った。立ち上がらせてやる。
「後悔なんて、しないさ」
彼の言葉に少女は強く瞳を瞑った。首を振る。それはまるで思い出してしまった悪い記憶を追い払うかのような動作だ。小さな少女が、更に小さく見えた。
「ねぇ、君」
「平気」、少女は繰り返した。「平気よ」
そして、怯えたようにツァハリーアスの手の平から己の手をひったくった。彼に残ったのは、屍体にも似た彼女の冷たい体温だけ。
「私は言ったわ。貴方は後悔する、って。それを覚えていて」
見上げてくる少女の瞳に、今度は恐れを感じなかった。