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黒/白  作者: えむ
第六章
31/48

一話(二)


 彼が最初に知覚したのは、額に置かれた湿った感覚であった。

 次は頭の下の柔らかな感触。更に頬をひんやりとした何か、いやこれは人間の手だ、が撫でていくのを理解した。

 そっとツァハリーアスが瞼を開ければ、二つの青いガラス玉にぶつかった。

 それがアーデルハイトの瞳だと分かったのは、長く美しい髪が降ってきたからであった。


 アーデルハイト。そう声に出そうとした彼は、少女の袖に配された豪華なレースを視界に認めた。途端に込み上げてくるのは吐き気。

 堪える間もなく、彼は胃の内容物を床にぶちまけた。

 嫌な水音が狭い空間に満ちる。彼は今、告別場になっている広いホールではなく、その隣の小さな控え室に押し込まれていた。


 小さな手がツァハリーアスの背を撫でた。はい、と聞き慣れた声と共に彼に差し出されたのは、ハンカチとも呼べぬ布。

 だが、彼にはその方が良かったのだ。ハンカチに付きものの飾りレースを見れば、また吐いてしまっただろうから。受け取った布は気持ちの悪い暖かさと湿り気を帯びていた。

 おそらくは、彼の額の上に先ほどまで載せられていたものなのだろう。


「ありがとう」

 掠れた声で言いながらも、ツァハリーアスはアーデルハイトを直視出来ない。

 それをどう解釈したのか、少女は彼に説明を始めた。医者であるヴィクターが気付け薬を取りに邸に戻ったこと。彼が戻ってくるまでツァハリーアスを見ているように頼まれたこと。


 だから、と少女は続けた。

「貴方が私のことを嫌いだとしても、ここから出て行くことは出来ないわ。だって私、頼まれたのだもの」


 ツァハリーアスは自己嫌悪を覚えた。

 やはり彼女は彼の行為に意味を見いだしたのだ。この娘が他者からの悪意に敏感なのを知っている癖に、こうして勘違いをさせた己が酷く情けない。


「君と一緒にいるのが嫌なわけじゃないよ」

 必死に声を絞り出したが、しかしそれでも彼女を見る勇気は湧いてはこなかった。

 目を逸らし続けるこの態度こそが、彼女に誤解を与えている原因だと分かっていても。彼に出来るのは、話を変えることだけ。


「君の方こそ良かったのかい。セラピオン氏の葬儀に出席したかったんだろう? もう始まっているんじゃないのかい」

 アーデルハイトは溜め息を吐いたようだった。ツァハリーアスの耳に、微かな息の音が聞こえた。


「良いのよ。だって他の参列者は私のこと嫌いみたいなんだもの。吸血鬼が教会にいるだなんて、許しがたいことなんですって。それに牧師様だって、きっと私になんて送られたくないのよ。だって彼は私のこと嫌いだったもの」

 拗ねたように話す少女の声は、その内容に反して明るい。まるで歌うかのように、続ける。


「ねぇ貴方もなの、伯爵様。貴方も私のこと嫌いになった? それなら、言って。出て行くから。私のことを好きになってくれる人間なんて、いないのよ。当然よね、だって私は化け物なのだから」

 違う。ツァハリーアスはそう思うが、しかし声にはならなかった。


 「私」、とアーデルハイトは言った。「最初に会った時に言ったわ。きっと貴方は後悔する、って。でも私、貴方に後悔なんてして欲しくないと、今は思っているのよ。だから、本当のことを言ってはくださらない? 責めたりしないわ。そんな権利、私にはないから。それとも、こうやって貴方の口から答えを引きだそうとすることすら、許されないのかしら」


 「違う」。ツァハリーアスの思いは、今度こそ音になった。ちゃんと声を発せたことに安堵した彼は、アーデルハイトに話しかけた。

「それは違うよ、アーデルハイト。僕は後悔なんてしていないし、これからもする予定はない。君のことを嫌いになることも、ない」


 「なら、どうして」。顔を見ていないからだろうか、抑揚に欠ける声はそれでも雄弁に、ツァハリーアスに彼女の感情を語っていた。「私を見ないの?」


 「それはね」。ツァハリーアスは言い淀む。口の中が苦い。

 己の罪を他人の、それもこんなに幼い少女にさらけ出すのには、勇気が必要だ。いや違う。相手が少女だからではない、と彼は嗤う。単に自分の罪を言葉にするのが怖いのだ。

 それは罪を直視し、認めるということだから。けれども言わなければ、と彼は思う。言葉にして伝えなければ、彼女は嫌われたと思い込んだままだろう。

 無実の少女を傷つけるくらいならば、己が血を流した方が、ずっと良い。


 「僕は」、ツァハリーアスは必死に言葉を探した。「怖いんだ。君が、じゃない。君の纏うドレスが。もっと言えば、レースが。そのほつれた糸は、僕に」


 再度込み上げてきた吐き気に、ツァハリーアスは口元を慌てて押さえ込んだ。

 強く目を瞑れば、敏感になった耳に微かな衣擦れ音が届いた。おそらくは、アーデルハイトが首を傾げたのだろう、と彼は想像する。

 細く美しい指を顎にそっと押し当てて、彼女はいつだって首を左に傾けるのだ。すると金の豊かな髪が肩から胸へと流れて、それはとても絵になる姿だ。

 ツァハリーアスは笑った。こんなにも鮮やかにその姿を描けるほどに長く、自分は少女と暮らしてきたのだ。それなのにまだ、彼女からの信頼を得られていない。


 逃げ出しそうになる自分を押さえ込むために、ツァハリーアスは服の上から膝に爪を立てた。痛い。けれどもそれが、彼を現実につなぎ止める鎖だ。

「僕は最低の人間なんだよ」

 そんな、と反論しかけたアーデルハイトを手だけで制した。

「僕は最低の人間なんだ。間違いないよ。なにせ僕は」

 それは黒と白の光景。彼が封じていた、深い深い記憶。


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