一話(一)
黒衣に身を包んだ人間が、あちらからこちらからと集まっていた。
ある人は徒歩で、ある人は馬で、と少しずつその数を増やして行く。その中に、一際立派な馬車が現れた。
中から降り立つのは、ヒッポリート伯爵ツァハリーアスと、彼の友人でもある医者ヴィクターだ。
「頓死、か」。ヴィクターは実に苦々しげに唇を開いた。「頓死がある日突然死ぬことだとするならば、まぁ彼も頓死だと言えなくもないがね。なにせ、突然刺されて即死したんだから」
「止めなさいな」
怜悧な声はその後ろから。遅れて馬車から降りた少女の姿に、遠巻きに見物する黒衣の人間の間から驚きと嫌悪の声が起こった。
その反応にヴィクターは忌々しそうに眉を顰めたが、当のアーデルハイトは気にするそぶりもなく、日傘を差した。ほっと息を吐く。
「お医者様、駄目よ。誰が聞いているのか、分かったものではないのだから。牧師様の名誉のために、秘密にするって決めたのでしょう? なら最後まで貫かなくては」
「俺は荷担なんてしたくなかったね」。不満も露わに、ヴィクターは少女に言った。「嘘の死因を記載して、殺害された人間を頓死に見せかけるなんてな。それもこれもツァハリーアスの頼みだからこそ、引き受けたんだ。その分の手間賃には色を付けてくれよな、って、おいツァハリーアス、聞いているのか?」
「あぁ、うん」。答えるツァハリーアスは上の空だ。
アーデルハイトが彼を見上げて問う。
「何だか元気がないのね。調子が悪いのなら、邸で休んでいても良かったのに」
「いいや」
ツァハリーアスが首を振った。
「そういうわけにはいかないよ。最後のお別れだからね、ちゃんと見送らないと。それに、僕なんかよりも君の方が平気なのかい? まだ日没前だけれど」
「平気よ」。素っ気なく返答した少女は、それでも親の敵でも見るかのような険しい目付きで空を見上げていた。「こんなに厚い雲が空を覆っているから、平気。それに念のために日傘も持ってきたしね」
そこまでして、と言いかけたツァハリーアをアーデルハイトが制した。
「私も牧師様に最後のお別れを言いたいの」
彼はあんなに君のことを嫌っていたのに? そんな疑問がツァハリーアスの心に満ちたが、結局それを言葉にするのは止めた。
けれども、ツァハリーアスのそんな胸の内を見通したかのように、アーデルハイトは小さく笑った。
「牧師様は私のこと嫌いだったんでしょうけれど、でも私は彼のこと嫌いじゃなかったのよ。私は必死に生きている人は好きだわ。その必死さは私にはないから」
「なぁ」、二人の会話に口を挟んだのはヴィクターだった。心配そうにツァハリーアスを見る。
「お前、本当に大丈夫か? 顔、真っ青だぞ。今はペストの流行期なんだ。葬儀、それもここまで盛大な葬儀なら多くの人が集まる。もしかしたら、まだ自覚症状のない感染者も混ざっているかもしれない。その中に体調の悪いお前が参加するのは」
「分かっているよ」。ヴィクターの言葉は、途中でツァハリーアスに遮られた。「少し疲れているだけだから。ここ最近は色々あったからね。でもこれは、彼の最後の別れの儀式なんだ。参加したいんだよ」
「そうまで言うならもう止めないが。ただし、無理はするなよ」
分かっているさ、そう軽く答えてツァハリーアスは教会へと歩を進めた。
見上げる彼に覆い被さるように広がるのは、教会正面のファサード。
今朝もこうやって見上げたな、とツァハリーアスは思い出す。それは闇に塗り潰されてはいたが、彼の頭の奥を刺激するには充分であった。
ツァハリーアスは再度、あの疼くような感覚を味わっていた。脳の深い部分で蠢いていた形容出来ぬものが、僅かな隙間から這いだして、己の姿を宿主に認めさせようとしているかのようだ。
その正体は、果たして何者なのだろうか。何故なのだろうか。こうしている間にも、胃の奥から込み上げるこの衝撃の正体は何だ。どうしてこんなにも、と彼は後ずさる。このファサードが穢らわしく思えるのだろうか。
古い記憶が、彼の頭の奥底で身を捩る。
セラピオンの死を悼むための鐘が、一斉に打ち鳴らされた。それと同時に、ツァハリーアスの頭蓋骨も震える。足下の確かなはずの地面が揺れた。
その体の奥から込み上げてくるのは、吐き気だ。共に湧き上がるのは、嫌悪感。けれど、それは一体、何故?
ツァハリーアスの霞み始めた視界に、アーデルハイトの背中が見えた。
教会の入り口へと続く階段を登っていく。軽やかな足取り。大きな日傘。出会った時には白衣姿だった彼女は、今日は黒ずくめだ。
黒衣の女が振り返った。長い髪が大きく揺れる。背の低い彼女が段差を借りて、目線を等しくした。こちらを覗き込んでくる、大きな瞳。
伯爵。アーデルハイトの澄んだ声が、ツァハリーアスの混乱する脳に心地良い。
彼女の細く白い腕が伸びてきた。彼が手首に感じるのは、冷たい少女の皮膚。引っ張られる。
彼女のその行為で、彼は己がこめかみを強く押さえていたことを初めて知った。
「本当に大丈夫なの?」
大丈夫だよ。そういつもの通りに答えようとしたのに、彼の喉は動かなかった。
アーデルハイトの行為が好意から発せられているのだと分かっていても、強烈な嫌悪が這い上がる。
白い肌。レースの縮れた黒糸。アーデルハイトの眉が顰められるのを、彼は認識した。駄目だ、とも思う。彼女は悪意に敏感だ。だがそう意識する自分自身すら、遠い。
ツァハリーアス? そう問いかけてくるすぐ背後のヴィクターの声を、ツァハリーアスの耳は捉えられなかった。
彼の意識から二人は既に消え失せていた。
彼が立っているのは現在ではなく、過去。彼が登る階段が辿り着くのは、今ではなく、在りし日のホール。彼の目が見るのは、セラピオンが収まっている質素ながら頑強な棺などではなく、無駄に煌びやかな二つの棺。
伯爵。呼ぶアーデルハイトの綺麗な声も、もはや彼には届かない。
夢の中の住人のような足取りで、彼は彼の過去を泳ぐ。驚きに目を見開くマリーアの、ロムアルドの、老牧師の、名も知らぬ人々の間をすり抜け、彼は棺の前に辿り着いた。
誰もが唖然と立ち尽くす静寂の中、ツァハリーアスは棺の中を覗き込み、そして彼は己が殺し続けてきた過去と対面した。




