一話
「吸血鬼ねぇ」
そう呆れたように言ったのは、若きヒッポリート伯爵ツァハリーアス。彼は実に面倒そうに、落ちてきた黒い前髪を払った。
鮮やかな緑色の瞳が、向かいの人物に向けられる。そこに座しているのは、牧師セラピオン。
「そう、吸血鬼です」
「僕だって吸血鬼が今、流行っているのは知っているよ。なんでも東の方では死んだと思った人間が吸血鬼と化し、親族に血をたかりに来るなんて話で持ちきりだそうじゃないか」。ツァハリーアスはフォークで肉を皿の端にどけながら続ける。「でもそれは、未だに古い信仰に縛られた異民族だけの話だろう。まさか牧師様ともあろう者が、信じているわけじゃないだろうね?」
「ですが」とセラピオンは気色ばんだ。「キリスト教徒でも吸血鬼を見た、退治したと証言している者もおりますよ。オーストリアの軍医殿の報告もございますしね。それにわたくしが問題にしたいのは、遠い東方などではなく、今この街で起こっている問題です。先日自殺した娘が吸血鬼になったと、専らの噂なのです。事実、娘の家族、恋人が次々に死んでおりまして」
「証拠は? 娘の関係者が死んでいくってだけでは弱いよ。彼女の自殺がショックで体調を崩してそのまま……ってだけかもしれないしね」
「証拠もございますよ。娘の墓、これは自殺ですので街の外にあるのですが、の近くに娘とよく似た背格好の女が立っていたとの証言が。それに、夜になると墓から奇妙な音がするとの話も、わたくしは聞いております」
「ふぅん」
興味がない、と露骨に態度で示すツァハリーアスに、セラピオンの顔が引き攣った。だがツァハリーアスは彼を気にすることもなく、ひたすら塩漬け発酵キャベツをフォークで口に運び続けている。
だいたい、と彼は思う。その証言とやらは誰がしているのだろう。自殺や他殺などの「正しく死ねなかった」者の墓の位置は街の西の荒れ地と決まっている。そんな人気どころか何もない場所に夜に行く人間と言うのは、何者なのだろう。
「ともかく」、と牧師が体を乗り出した。ツァハリーアスは思わず身を引く。「皆が不安に思っていることをお分かりいただきたい。先ほど伯爵がおっしゃった通り、確かに今は吸血鬼譚が流行っております。それ故に、誰もが死者の吸血鬼化を『有り得ることかもしれない』と思っているのです。またその吸血鬼が自分たちに悪いことをしでかさないか不安で不安で堪らないのですよ。ご聡明な伯爵様から見れば、実に馬鹿げた話かもしれませんが」
「そう嫌みを言わなくても良いよ」
ツァハリーアスは肩を竦めた。吸血鬼の恐怖が蔓延しているのは彼とて理解している。彼自身には全くもって信じられないが、世の中にはいつだって信じやすい性質の人間がいるものであり、そんな彼らにとって吸血鬼は、恐るべき現実なのだろう。
「君の言いたいことは分かったよ、セラピオン氏。問題は娘が吸血鬼になったかではなくて、それを信じている人間がいるってことだね。でもどうすれば、彼らに安心を与えてやれるだろう」
「簡単なことです」
こともなげにセラピオンは言った。
「墓を掘り返して、娘の屍体がそこで安らかに眠っていることを見せてやれば良いのです」
「君は」、ツァハリーアスの手からフォークが落ちた。皿とぶつかって不協和音を叫ぶ。「彼女の墓を暴き、その屍体を晒し者にしようと言うのか」
「皆の安心のためです」
「皆の安心のために、彼女を辱めるのか」
「仕方がございません」
「駄目だ」。ツァハリーアスの眉間に、力が籠もる。目の前の聖職者は、娘を自殺者だからと見下しているのではないだろうか、との不愉快な想像が彼の中で頭をもたげた。「絶対に駄目だ」
「それならば、どうやって皆の不安を取り除くおつもりでしょうか。あなたはこの地の領主であり、住民に責任があることと存じますが」
「そんなことは君に言われなくても良く分かっているよ」
ツァハリーアスはぞんざいに皿をわきに押しやった。テーブルに両肘を付け、組んだ手の上に己の顎を載せる。
「吸血鬼は昼間は墓で眠り、夜になると獲物を探しに墓から出てくるって話だったよね。それはつまり、もしも娘が吸血鬼になっているとしたら、わざわざ墓を掘り返さなくとも勝手に出てくるってことじゃないか」
セラピオンの顔に怪訝そうな表情が拡がるのを、ツァハリーアスはじっと見つめた。微笑んでやる。
「ならば出てくるのを一緒に待ってみようか。僕は無駄な労働は嫌いなんだ。特に肉体労働は。幸いなことに今はちょうど夕暮れだし、吸血鬼の一日のスタートから観察出来るよ」
「そんな」
戦くセラピオンに、ツァハリーアスは眼を細めた。
「何をそんなに怖れることがある? 神を信じる者には加護がある、それが君の言い分だろうに」
「おや、滅多に礼拝に来られぬ伯爵様が、わたくしの説法を御存知とは驚きましたな」
「滅多に行かなくても知っている程度には、有名だってことだよ。その説法を証明する良い機会だと思わないかい? この街一番の人気を誇る牧師殿が、吸血鬼なんぞを怖れるわけもないしね。さて、決まりだ。執事、馬を回せ。なんなら君も行くかい?」
ツァハリーアスの後ろに控えていた執事は、慌てて首を振った。二人のために夕食を供していた他の使用人も、一様に恐怖に顔を引き攣らせる。
はぁ、とツァハリーアスは心の中だけで溜息を吐いた。どいつもこいつも迷信深くて嫌になる。吸血鬼なんてのは、たかが怪談話に過ぎない。実像を持たぬ、単なるお話。それは冬の寒い日の夕食後に、暖炉の前で父親が子どもに語る、恐ろしいけれども平和な日常を彩るものでしかないはずだ。
それなのに、とツァハリーアスは周囲を見回して暗澹たる気持ちになった。それなのに、いい大人が本気でこの怪談話を信じているだなんて。