六話(二)
アーデルハイトに手を貸してやりながら、ツァハリーアスは馬から下りた。目の前には教会。
見上げるそれは古く、闇夜に黒い塊のごとく蹲っていた。
じわり、と彼の心に名前の付けられない感情が滲み出る。それは夢の中で感じたのと同じものだ。苦く、苦しい。
馬の蹄の音が聞こえていたのだろうか、教会から一人の牧師が出てきた。
まだ少年と呼び得る年頃だ。彼は無言で深く頭を下げた。
彼が手に持つ蝋燭が下から照らすその表情は恐怖と困惑に固まっており、酷く悪いことが起こったのだとの確信をツァハリーアスに抱かせた。
蝋燭を掲げて、若い牧師が二人を中へと案内する。アーデルハイトがツァハリーアスよりも先に、牧師の後を追った。
吸血鬼は、とツァハリーアスはふと思った。果たして教会の中に入れるものなのであろうか。
そう彼が疑問を抱く間に、少女は何の問題も無く教会内部へと足を踏み入れていた。
ツァハリーアスは己の頬を叩く。どうやらまだ寝ぼけているらしい。
アーデルハイトは吸血鬼などではなく、ただの普通の人間だ。その太陽への強烈な嫌悪だけは、確かに通常とは異なってはいるが。
夜明け前の教会内部は、広くて暗い。この時間特有の、冷たく張り詰めた空気が満ちている。
しんしんと積もる静寂は、ツァハリーアスに何かを語りかけようと蠢く。あの夢のせいだろうかと、ツァハリーアスは悩んだ。
目覚めてからと言うもの、ずっと脳の奥が疼いているのだ。長い間閉じ込めていた物が、その姿を今こそ露わにしようと身を捩っているかのようだ。
しかしそうは言っても、とツァハリーアスは思う。その正体には全く覚えがない。
若い牧師に導かれて、二人が辿り着いたのは教会の中庭。
怪訝そうな顔をするツァハリーアスには気が付かないまま、若い牧師は奥にいる誰かに声を掛けた。
現れたのはこの街で一番年嵩の牧師だ。病気を煩っている彼は今は引退も同然であり、その仕事の全てをセラピオンが引き継いでいるのに、何故。
ツァハリーアスのその疑問を見通したかのように、老牧師は神妙に頷いた。
そして彼はただ、その古木の如き手に握られた燭台を下げた。地面が照らされる。
そこに横たわっていたのは、見慣れすぎた顔、セラピオンであった。
だが彼にはいつもの生気がない。それも当然であった。横たわっているのは、もはや生き物ではなく、ただの物体であったのだから。
「そう時間は経っておりませんでしょう」
老牧師は、一本の木を指差した。そこから垂れ下がっているのは、太く罪深い縄。それは、セラピオンが最後に犯した神への冒涜の跡であった。
何故、そうツァハリーアスは呻く。それは口にすることすら恐ろしい、罪だ。
生き物は誰しも生きるために生まれてくる。最後には死に呑まれると分かっていても、それでも足掻き、抵抗し、生に齧り付くのが本性だ。それがこの世に存在する生き物が背負った宿命なのだ。それを拒絶することは許されない。
そんなことは、牧師であるセラピオンには誰よりも分かっていただろうに、何故。
重い沈黙が落ちる中で、アーデルハイトが一人動いた。首を傾げる。
闇にほの白く浮かんだ少女の細い指が、ふわりと穢らわしい縄を示した。そうかと思えば、くるりと実に優雅な弧を描いて牧師を指す。
「縄で首括り、自殺」
少女の小さな呟きは、辺りの空気を大きく揺らした。敢えて誰も口にしようとはしなかった、否、出来なかった真実を、彼女はいとも簡単に放ったのだ。
「でも」、と少女の穢らわしい指がその小さな顎に添えられた。
冗談のように細い首が再度傾く。濃い金色の髪がさらさらと落ちて、彼女の白い頬に垂れた。
その下で、蝋のように淫靡に濡れた赤い唇が動く。「本当に?」
発せられた内容に、誰もが息を呑んだ。皆の視線が小さな少女に注がれる。
ツァハリーアスとて例外ではない。少女の空っぽのガラス玉の如き青が、何を見ているのか分からない。
沈黙が落ちる中、少女が真っ直ぐにセラピオンの屍体に近づいた。誰も動かない。動けない。
死んだ牧師の上に屈み込んだ彼女の白い指が、その上着の前を寛がせていく。少女が男の服を脱がせていく。
それは淫らな行為のはずなのに、ツァハリーアスには神聖な儀式のように見えた。何故なのだろう、それは。
いや、とツァハリーアスは自嘲した。分かっているくせに、分からないふりをするのは止めよう。理由など分かっている。
それは、少女が少女だとは思えないからだ。彼女には人間の醜さがないのだ。
聖も悪も併せ持ち、美しい感情も汚らしい感覚も全てが混沌と同居するのが人間という存在だろうに、彼女にはその雑味がない。精製され純化された存在なのだ。
それが魔なのか聖なのか、ツァハリーアスに判断は出来ないのだが。
「首を括ったのなら」。少女の声で、ツァハリーアスは我に返った。「首に跡があるのは当然よね。でも」、白い指がセラピオンの胸を示した。
「どうして、こんなところに大きな穴が開いているのかしら?」
慌てて若い牧師が、蝋燭で先輩の胸を照らした。赤みを帯びた柔らかな光が明らかにしたのは、胸にただ一つ穿たれた、鮮やかな傷口であった。




