五話
吐いた息は直ぐに白く色を変えた。
まだ秋だと言うのに、とセラピオンは顔を顰める。この時間帯では寒さが身に染みる。
空を見上げれば、黒い夜空には細い月が昇っていた。
それは鋭利な刃物が闇夜を切り裂いた、傷のようにも見える。闇の向こう側から染み出す、銀色の光。
セラピオンはじっと見つめた。それは自分を導いているように彼には思えた。迷うなと、叱責されているかのように。
セラピオンはカンテラを翳した。月の静かな光に、蝋燭の揺れる明るさが加わる。
彼が進むのは、市壁の外。ツァハリーアスによって街の出入りは厳しく制限されているが、セラピオンはなじみの門番に幾ばくかの金を握らせて、抜け出て来たのだ。
市壁には殆ど知られていない破れが何カ所か存在するのを彼は知っていたが、敢えて正面突破を謀った。そして、それは成功したのだ。
こんな時には平素の振る舞いが物を言うのだと、セラピオンはせせら笑う。伯爵などよりも、自分の方がずっと人望があるのだ。
冷たい夜道を辿り続けること暫く、ようやっと彼の目指す場所が見えてきた。
目印は最初の死者である、自殺した娘の墓。この女の死から全ては再開されたのだ。十五年前のペスト禍と同じ事態が今、進行している。
だが今度は、とセラピオンは己の十字架を握り込んだ。鈍い銀色の重々しいそれは、彼が信者から贈られたものであった。彼はその十字架に己の力を見ていた。
こんなにも壮麗な物を贈られるのは、自分が価値のある人間だからだと解釈していた。
だからこそ、今度は食い止められる。そう彼は信じた。
十五年前の無力な若い修行僧ではなく、今の彼は立派な牧師だ。それに彼には、今回のペスト禍の原因が分かっているのだ。全ての問題の根源は、あの白衣の女だ。
強く握りしめた十字架が、彼の手に食い込んだ。
か弱そうな外見は庇護欲をそそるための擬態だ。悪魔はいつだって、哀れな女の姿で現れ、相手の心の隙間に忍び込む。それが奴らの手口だ。
それなのに、あの愚かな伯爵は騙されているのだ。
相手は街に死をもたらす吸血鬼だと分かっているのに、伯爵の庇護下に潜り込んだ彼女には、手を出すことが出来ない。前回と同じだ。
またしても伯爵のせいで、街は痛手を被るのだ。無知も愚鈍も、等しく罪だ。
自殺した娘の墓を通り過ぎ、セラピオンは目的地に辿り着いた。
そこは今回のペストの犠牲者たちの為の、墓とも呼べぬ穴だ。十五年前は、死者をこんな哀れな状態で地中に押し詰めることなどしなかったのに、と彼は唇を噛んだ。
教会に葬られないどころか、別個に墓すら建てられない。こんな風に一緒くたに埋められるなど、言語道断の行いだ。
だが、とセラピオンは首を振った。それもまた、己の力不足のせいなのだ。
だからせめて、と彼はやって来たのだった。彼らに救いを。
病気で生を突如断ち切られた者は吸血鬼になる可能性が高い。正しく死ねなかった者を救うのは、祈りだ。
だがセラピオンは、墓で予想外のものを見た。それは白い「何か」。
途端に彼の背中に怖気が走る。そこに跪いていたのは、人の形をした白。遠く近くから幾重にも聞こえるオオカミの鳴き声。月光の僅かな光を受けて、それの髪が輝いた。金色。
熱心に墓穴を覗き込んでいるのは、アーデルハイトと呼ばれる少女であった。
息をすることすら忘れるほどに、強い恐怖がセラピオンを捕らえた。
彼の目の前で、少女は死者を漁っていた。死から蘇った吸血鬼が、誰に仮初めの生を与えてやろうかと首を傾げて悩んでいる。彼女の足下に、生を渇望する死者どもが、穴の底から必死に腕を伸ばして、縋り付く。
手にしたカンテラの熱さが、セラピオンを現実に連れ戻した。
蠢く死者など見えはしない。彼らは深い墓穴の底に、姿など見えぬほどに厚く埋められているのだから。それはセラピオンが見た幻想だ。
だが、彼にはそれこそが、この娘の本性なのだと思えた。
ひりつく喉に鞭を打って、セラピオンが声を発する。そこで何をしているのか。叱責したつもりであったが、実際に出てきた声は、あまりにも弱々しいものであった。
けれども、その小さな声に吸血鬼は顔を上げた。
月光に映える白い顔。青い瞳が暗闇に爛々と輝く。化け物だ。セラピオンの本能が告げた。化け物だ。
目の前にいる小柄な娘は、人間ではない。証拠など必要なものか。自分には、自分にだけは、分かる。
彼が投げつけた聖水の瓶が、アーデルハイトのすぐ近くに当たって割れた。破片と聖水が少女を襲う。
「ここはお前の来る場所ではない」。セラピオンが告げた。「ここは死者のための静かな眠りの場だ。それを犯すことは、例え悪魔にとて認められない」
「私には」、彼と対峙する吸血鬼が言う。「彼らの眠りの邪魔をするつもりなんて、ないわ」
少女の頬を水が滑り落ちた。それはまるで泣いているかのよう。
単に先ほど投げられた聖水が、顔を流れただけなのに。そもそも吸血鬼には、人間らしい感情などありはしないのだ。
そう分かっていても、細い肩の少女はセラピオンに哀れみを覚えさせた。これが彼らの方法だと知る彼は、恐怖に震える。彼の敵は実に、狡猾だ。
「眠りの邪魔をするつもりはない、か。ならばどうしてここに来たのだ?」必死に平静を装いながら、セラピオンは問うた。
「吸血鬼が貪るのは生者だろうに、それだけに飽き足らず、死者まで漁りに来たのか。実に忌まわしい存在だな」
目の前の無力そうな少女を、セラピオンはせせら笑う。だがその一方で、恐怖が彼の心から去らない。
いつからか月光はその力を弱めた。彼のカンテラの光もまた、酷く弱々しいものと化している。
それなのに目の前の吸血鬼の姿は、変わらずにはっきりと見えるのだ。それは、闇に浮かび上がる白。
最初に出会ったあの日に、とセラピオンは今になって後悔していた。殺しておくべきだったのだ。どうして逃げ出してしまったのだろう。
あの憐れむべき頭の持ち主である伯爵と出会わせたのは、大きな失敗であった。自分の失態である以上は、と牧師は十字架を握り直す。己の手で挽回しなければ。
吸血鬼が顔を上げた。真っ直ぐにセラピオンを見る。その異様なまでに青いはずの瞳は、いまや灰色に沈んでいた。
それは、見つめる相手の脳の奥を震わせ、思考力を奪う魔の瞳だ。
「私がここに来たのは」。闇夜にも赤い唇が言葉を紡ぐ。
「同類が欲しいからよ。貴方に言って分かって貰えるだなんて、とても思えないけれど、それでも答えるわ。私が何者であるか、私自身にも答えられない。けれど、決して誰かに害を与えるつもりはないのよ。信じて、なんて言うのは」、少女の唇が大きく歪んだ。
「あまりにも信憑性に欠けるわね」
自嘲するその姿は、実に同情を誘う。だがそれもまた、悪魔の手口なのだ。
セラピオンは考える。失いそうになる思考力を必死で奮い立たせて、考える。
ここで騙されてはならない。すでに街には病魔が忍び込み、多くの人間を喰らったのだ。
その全ては、この少女のせいだ。暗闇に輝くドレスの白は、悪魔の色だ。白衣の女は重要な死を事前に教えるために、人前に現れる。
いや、違う。白衣の女は死を告げに来るのではない。彼女自身が死なのだ。死をもたらす存在なのだ。
「化け物め」
セラピオンの言葉に、アーデルハイトは瞳を伏せた。豊かな睫。
こんな細かいところまで、とセラピオンは嫌悪を感じる。美しく精密に作られているとは。
「私は確かに化け物だわ」。そう化け物は認めた。
「だって人間じゃないもの。人は私みたいに日光を恐れたりはしない。それは分かっているの。でも、ならば私は何者なの? 化け物って何? 私は何? 私は独りぼっちの生き物なのかしら。そもそも、生きているのかしら。吸血鬼は蘇った屍体だと、お医者様は仰ったわ。けれど蘇った屍体は死者なのかしら。それとも再度生を取り戻した、生物なのかしら。分からない。分からないことだらけだわ」
「化け物は化け物だ。それ以外の説明が必要なものか」
吐き捨てるようなセラピオンの言葉に、少女は笑った。
にっこりと、実に魅惑的に。唇が美しい曲線を描く。それは血のような赤色。
「貴方は」、灰色の瞳がセラピオンを捕らえていた。すっくと立ち上がるのは魅惑的な悪魔。真っ白なドレスが、闇夜に広がる。
「貴方は幸せな人ね。私はこうやって息を吸うことにすら、恐怖を感じているわ。私にはそんなことすら許されていないんじゃないかしら、って。でも貴方は何も疑問に思わないのね。貴方は何者なの?」
「わたしは牧師だ」。答えるセラピオンの声には余裕がない。「神の御手に導かれ、神の加護を受けて正しい道を歩む、正しき者だ。貴様のような化け物とは違う。全く正反対の祝福された者だ」
「そう」、と少女の姿をした何者かの灰色の瞳が細まった。「その根拠はどこにあるの? 貴方が神の御手の導きの下にあるという根拠は? 貴方の手を引く者が邪悪な存在ではないと、偽りではないと、どうして言い切れるの?」
「わたしを揺さぶろうとしても無駄だ。わたしは正しい人間だ。それはわたしと、神がご存じだ」
化け物の笑みが深まった。謳うように言う。
「羨ましいわ。そう簡単に言い切れる貴方が。私は化け物よ。日光がとてもとても怖いのですもの。でも私と貴方はこんなにも同じ姿をしている。
化け物と人間の境界線はどこなのかしら。蘇った屍体は、未だ死を知らぬ生者とどう違うのかしら。私には分からない。けれど貴方には分かるのでしょうね」
オオカミの怒り狂うような、むせび泣くかのような声が、どこからともなく届く。短く、長く。
「その鈍感さが羨ましい」
柔らかな声音で呟いた少女は、けれども俯いている。
今や銀に色を変えた髪がその表情を隠してはいるが、肩が小さく震えているのがセラピオンには分かった。それは笑っているのか、それとも泣いているのか。
カァ、と遠くでカラスが鳴いた。その声にアーデルハイトが反射的に顔を上げた。
美しい顔が恐怖に引き攣る。カラスが告げたのは、迫る夜明け。
その大きすぎる変化にセラピオンは確信を深めた。やはりこれは化け物だ。吸血鬼だ。
この小娘の言うことは、否、この小娘の全てが嘘だ。耳を傾けるだけの価値もなければ、哀れみを覚えてやる必要性もない。
「化け物め」
セラピオンの怒声になど気が付かないように、少女は彼に背を向けた。
足が必死に土を蹴る。その姿は、あまりも滑稽だ。セラピオンの口元に笑みが込み上げる。
「化け物め」
彼は、己が握りしめていた十字架を、化け物の背中に投げつけた。




