四話(一)
「なんだかとっても大変なことになっているのですって?」
少女は唐突に言葉を発した。
それが己に向けられたものであることに気が付いたヴィクターは、驚いた。辺りは暗く、そして彼女は彼に背中を向けていた。
だからヴィクターは、アーデルハイトが自分の存在に気が付いているとは、想像だにしなかったのだ。
彼の驚愕など知らぬ少女は、くるりと振り返った。
白いドレスが闇に浮かび上がる。遅れて翻った金の髪が、僅かな光に淡く輝いた。
「何でも街の出入りすら規制されているそうじゃない。そのせいで仕立屋さんも家に帰れないのですって。これって大変なことじゃないのかしら。私はこの邸から外に出ないから良いけれど、他の人は不便極まりないでしょうね」
「ああ」。ヴィクターは、己の声が普段と変わらないことに安堵した。「あちこちで不満が出ているそうだな。その全てはツァハリーアスの名前の下で行われているから、アイツへの反感は今すごい高まりを見せている」
「そうなの」
問う少女の声は平坦だ。彼女はツァハリーアスに世話になっていると言うのに、彼の立場に興味がないのだろうかとの苛立ちが、ヴィクターを襲った。
だが、いや、とすぐにヴィクターは思い直す。彼女の纏う雰囲気はいつだって不変なのだ。
この娘は感情がないのではなく、感情を表すのが下手なのだろう。それも酷く。
それは単なる彼の希望に過ぎないのかもしれなかったが。
「なにせ、感染者とその家族の四〇日間の強制隔離と、死者の教会への埋葬禁止が一緒に発令されたからな。日曜日の説教の際に、牧師から一斉に市民へ発表されたが、それはもう非難轟々でちょっとした見物だったってさ」
「それは女中さんからも聞いたわ。それで皆、伯爵のことを呪詛していたって。伯爵とて好きでそんなことをしているわけではないでしょうに」
「それも仕方がないさ。誰だってペストが流行してるだなんて認めたくないからな。悪い病気なんて実際に流行ってもいないのに、そんな措置をとるとは言語道断だってのが彼らの主張だって言うんだから、これは実に酷い話だ。十五年前の記憶が強すぎて、認めることが難しいのも分かるが」
「それはそうなのかもしれないけれど」
その語尾に不満の色が見えた気がして、ヴィクターは思わず笑んだ。
彼女にとて、やはり感情はあるのだ。そう思った矢先に、アーデルハイトが彼を見上げた。青い瞳が彼を見つめる。
整ったその顔は実に美しい、とヴィクターは素直に賞賛した。だがその美しさは、彼女が「生きている」ことに疑問を抱かせた。
今、彼を見上げる少女は人間ではなく、まるで美術品のようだ。整った顔だけではない。その細い肩、低い身長、無駄のない動作、彼女の全てがあまりに美しい。
真の美は日々変化する生き物ではなく、不変の死者にこそ宿る。それがヴィクターの信念であった。
生き物の皮膚を裂けば、その中からは生を維持しようと必死に蠢く臓器が現れる。しかし彼女は、とヴィクターは畏れにも似た感情を覚えた。
例え皮膚を裂いたとして、その下に臓器その他の雑多で必死な構造物が存在しているのだろうか。闇夜に佇む彼女には、生き物独特の醜さがどこにも存在していない。
それは誰かに作られた、完璧な美しさを持つ「少女」と言う名の無臭な作品だ。作り手は、神なのだろうか。それとも。
「死者は」、作り物の少女が口を開いた。「病気で死んだ人は教会に埋葬されないの? 教会に埋葬されないのは、悪しき者だけなんでしょう」
「本来はそうだ」。答える自分の声を、ヴィクターは遠くに聞いた。教会に埋葬されないのは自殺者、処刑された者、あるいは身元の分からない者だけだ。しかし「今は非常時だから、仕方がない」
「なら、皆はどこに埋葬されるの?」
「街の外だ。街の西に広がる荒れ地だ」
ヴィクターの返答に、少女の赤い唇が魅惑的に吊り上がった。
あぁ、とヴィクターは嘆息する。悪魔だ。彼女を作ったのは神ではない。この小さな娘には、人間の心を掴む力がある。こんなにも幼い見た目をしていると言うのに。
アーデルハイトは上機嫌にヴィクターに言った。
「それはもしかして、あの自殺した娘のお墓の近くなのかしら。それなら私、とても嬉しいわ。あの子はあの荒れ野に独りぼっちで可哀想だって思っていたの。でもこれで寂しくなくなるわね」
それではまるで、とヴィクターは思う。ペストの流行を喜んでいるかのようだ。いや違う、彼女の言葉に他意はないのだ。
そう思い込もうと努力したが、彼のその試みは上手くは行かなかった。
少女はそれで会話は終わったとばかりに、ヴィクターに背を向けた。
熱心に地面を見つめ始める。何かを見つけたのだろうか、土を凝視しながら移動を始めた。
その背中に嫌な予感を感じたヴィクターは、思わず問うた。何をしているのか、と。
ふわりと少女が振り返る。答えは短かった。「血よ」。ヴィクターの顔に疑問が走ったのを見て取ったのだろう。少女は付け加えて言った。
「とは言っても人間の血じゃないわ。カラス、それもきっと、白いブチの入ったカラスの血よ。私はその跡を追っているの。
今日も仲間から虐められていたみたいだから、怪我をしたままこの庭のどこかに隠れているんじゃないかと思って。血は凝固していないから、まだ新しいもの。もしも猫なんかに見つかったら大変でしょう?」
ヴィクターの肩から力が抜けた。
己の剣呑な考えが実に馬鹿げていたのだと知る。彼女はただの子供、だ。見た目通りの中身をした、無力な少女だ。
それを少し美しいからと畏れたりして。全ては闇夜が見せた幻だったのだとヴィクターは思う。吸血鬼と同じだ。幻想を見たのだ。
「ブチの入ったカラス、か。そんな生き物が本当にいるのか?」
陽気な気分のまま、ヴィクターがからかい調子で言えば、アーデルハイトはややムッとしたようだった。
「いるわ。ちゃんと私、見たもの」
「それは失礼。だが、それは果たしてカラスなのかね。違う種類の鳥なんじゃないのか?」
「さぁ」。少女は肩を竦めた。「私にはよく分からないわ。でも大きさも鳴き声も、他の真っ黒なカラスと同じなのよ。ただ違うのは白いブチがあるってことだけ」
「なるほど。もしも同じカラスだとしたら、確かに仲間から虐められていることになるね。変わり者は辛いな。そうまるで、吸血鬼みたいだ」
「吸血鬼?」アーデルハイトは驚いたのか、ヴィクターの言葉を繰り返した。「何がどう似ているの?」
吸血鬼と噂される少女の質問に、彼は答えてやる。
「吸血鬼は棺の中で発見されるものだ。活動中の吸血鬼が捕らえられて心臓を串刺しにされたなんて話を寡黙にして俺は知らない。つまりは吸血鬼なんてのは、屍体でしかないんだよ。
けれど他の『普通』だとされている屍体と違って硬直していない、埋葬時と比べて太ったように思える、口の端から血を流している云々と、普通の屍体と『違う』から吸血鬼と見なされて、もう一度殺されてしまう」
「お医者様は、普通と違うことが悪だと仰るの?」
いいや、とヴィクターはアーデルハイトの疑問に首を振った。
「俺はそうは思わないね。けれど他の大多数の人はどうだろうね。普通と違うと言うことは、何故普通と違っているのか説明を求められるものだ。普通の屍体と異なる屍体には『吸血鬼』との説明が為されるように、な」
「似たようなことを伯爵に言われたことがあるわ。いいえ、彼は結局言葉にはしなかったわね」
アーデルハイトは深い溜め息を吐いた。
「私は説明なんて出来ないわ。私が普通と違うのは、私が望んだ結果ではないもの。気が付いたら、私は普通ではなかった。私が普通と違う理由だなんて、私自身が聞きたいわ」
「悪い悪い」。ヴィクターは慌てて謝った。同時に少し、驚いてもいた。彼女は自分自身が普通とは違うと、分かっているのだ。
「お嬢さんのことを責めたかったわけじゃない。だけど、お嬢さんが他の人間と違うのは明らかだな。なにせ、他の奴らは君ほど美しくはないからね」
にっこりとヴィクターが微笑めば、アーデルハイトは反抗的に腕を組んだ。
「酷いわ。私、これでも真面目に悩んでいるのに」
「それは悪かった。謝る。今度は本気で。けれど、俺は普通よりも変わったものにこそ、惹かれるよ。何故だか顔が二つある牛、翼が四つある海鳥、目が片方しかないカエル。それらを手に入れるために大金を支払った。
そんな人間は多いだろうが、これはこれで差別だな。だが、君を普通に扱ってくれる人だっているだろう?」
「貴方が言いたいのは、伯爵のこと? 確かに彼はとても親切だわ。私のことを普通にしたいって考えているみたい」
「そうだろうね。あの男は」と、ヴィクターは目を細めた。「昔と変わらないようでいて、変わったよ」
「あぁ、貴方は伯爵の昔からのお友達だったわね」
「昔からってのは少し語弊があるな。俺が知っているのは、あいつがフランスに留学していた七年間だけだ。同じ大学に通っていた上に、住んでいたところが近かったから仲良くなった。
あいつは貴族であることを鼻に掛けなかったからね、俺はずいぶんと親しくさせて貰ったよ。今でもお前呼ばわりや名前を呼び捨てにしても怒らないしな。だが、ある日突然に帰国してしまって、それっきりになった。家族に不幸があったのだとは後になって噂で聞いたよ。まぁ、忙しかったのだろうさ」
ヴィクターは昔を思い出していた。
大学生の頃から責任感の強い男ではあった。他国から学問を名目に留学してきたくせに、勉学もせずに遊びふけり、己の父親の爵位と将来受け継ぐ資産を自慢して憚らない、粗暴で阿呆な救いようのない貴族連中の中で、ツァハリーアスは異質の存在であった。
彼は己が受け継ぐことになる爵位の重さを正しく理解しているようにヴィクターには感じられた。誰もが義務を忘れ権利だけを振りかざす現在にあって、馬鹿な男だとも思ったものだ。
けれど彼は、とヴィクターはアーデルハイトを見下ろしながら想像した。
当時の彼ならば、こんな身寄りもはっきりとしない少女を拾うような、愚かなことはしなかっただろう。
吸血鬼と噂される彼女ならば自分は拾っただろうとは思う。けれどそれは研究対象、あるいは好奇心からであって、決して彼女のためではない。
哀れみの感情から、こんな身元の分からない人間を邸に入れるとは、正気の沙汰ではないのだ。この無力そうな少女が実は恐ろしい犯罪者集団の一員だったならば、今頃どうなっていたことか。
何よりも貴族は、身元の明らかな人間とだけ付き合うものだ。貴族としての義務を忘れず、同時に貴族としての外聞にも気を配っていた彼らしくない。
押し黙ったヴィクターを、アーデルハイトがじっと見つめていた。
青い青い瞳が彼を見つめる。それはまるで紛い物の宝石のようだ、と彼は思った。決して本物ではない、偽物。
「お医者様は」、とアーデルハイトが口を開いた。「今の伯爵を好ましく思っていらっしゃらないのね。昔の方が良かったって、思っているのね」
「そうかもしれないな」
ヴィクターは認めた。
先ほどはあんなにも恐ろしく思えた彼女が、今は酷く哀れな存在に思えた。所詮作り物は作り物でしかないのだ。
人形は人間の似姿に過ぎない。永遠に人間そのものになることは出来ないのだ。
「でも変わっていくのは仕方がないことだ。変化こそが、生の本質なのだから」
少女が息を呑んだ。だがヴィクターは、彼女の驚きには気が付かなかった。
「ただ気になるのは、あいつの変化の方向だ。どうも彼は、何かに追い詰められているように思える。それは決して好ましい変化とは言えない」
もう一度、ヴィクターは少女を見下ろした。
弱い存在。この弱々しさこそが、ツァハリーアスが彼女を拾った理由なのではないか、との考えが浮かんだ。恐らくは彼女が哀れな、他人の手を必要とする存在だからこそ、ツァハリーアスは彼女を邸に迎え入れたのだ。
もしもその想像が正しいならば、とヴィクターは眉を顰める。ツァハリーアスは彼女に善行を施すことで、己の中にある何かを納得させているのかもしれない。もしそうならば。
「ツァハリーアスにとって必要なのは、お嬢さんかもしれないね。君はツァハリーアスのことが好きだろう? ならば、彼のためにもせいぜい幸せになってやると良い。
少なくとも、幸せなふりをしてやれ。それだけで、おそらくはあの男は救われるんだ」
それが救いになること自体が、ツァハリーアスの病の深さを物語っているのだが。ヴィクターはその現実から目を逸らした。




