三話
翌日、ツァハリーアスは机の上で、年季の入った本を繰っていた。
少し油断すると剥がれて落ちてしまう頁たちは、十五年前の記録だ。
紙から立ち上る煙の臭いが、ツァハリーアスに過去の風景を思い出させた。
十五年前のペスト禍の最中に、彼は両親に連れられて街を後にした。その日、馬車から身を乗り出して振り返った街には、いくつもの火の手が見えた。
感染者の家が焼き討ちに遭っているとの話は彼とて聞いてはいた。だが、どこかでただの噂にすぎないと思っていたのだ。そんな酷いことをする人間がいるだなんて、彼には考えられなかった。
だが現実は彼の想像を凌駕して過酷であった。当てにならない伝聞と想像と恐怖が交錯する街は、無法地帯へと化しつつあったのだ。
ツァハリーアスは両親を止めた。
治安を維持するために、何よりも住民を安堵させるために、街に留まるべきだと訴えた。そして、少しでも感染を食い止め、また病人と行き場のない貧困者のために何かしらの手を打つべきだ、と。こうして逃げ出すのは間違っている。
爵位は、家の繁栄は、この街からの富で購われているのだから。
だが彼の主張は両親に一顧だにされなかった。元々仲の良い親子だなんてとても呼べなかったが、とツァハリーアスは笑う。
あの時期を境に、親子の間には決定的な亀裂が入ってしまったのだ。責め続けるツァハリーアスを五月蠅く感じたのだろう彼の両親は、彼をフランスへと送り出してしまった。
そしてそれと引き替えに、ツァハリーアスは己の主張を口にするのを止めた。
当時の自分は、とツァハリーアスは振り返る。まだ子供であったのだ。だから父親の命令には従わざるを得なかった。
いや、違う。ツァハリーアスは首を振る。そんなのは詭弁だ。嘘だ。言い訳だ。自分は、とツァハリーアスは込み上げてくる自己嫌悪に微笑みかけた。
フランスに行きたかったのだ。昔からずっと。大陸で最も繁栄を謳歌する先進国を見聞きし、そして可能ならば何かしらを学んでみたかった。
だからこそ、父親はフランスへの留学を餌にしたのだし、当時の自分はその意図を充分に知っていたからこそ、代わりに己の主張を封印したのだ。
そして、その罪滅ぼしのように、大学図書館で疫病の対策方法に関しての本を読み漁った。
どうすれば良かったのか。何が出来たのか。他の地域で実際に行われた方策は。本に囲まれて行う終わりの無い孤独な作業は、彼に絶望と後悔を植え付けるのに充分であった。
手元からまた一枚の紙が剥がれた。
ツァハリーアスに過去を連れてきたそれは、十五年前の死亡診断書だ。その殆どは火事と暴動で失われたが、僅かながら生き残った物があった。
それらはまとめて一冊の本の姿で後に、ツァハリーアスの元へともたらされた。一枚一枚がそれぞれ一人一人の死を伝える貴重な証言によれば、症状が現れてから死亡するまでは、僅か五日から七日。細かい字で記された文字は、恐らく症状を伝えているのだと思われるが、火事の影響でだろう、とても判読出来る状態ではない。
それでも読める物が残ってはいないかと、冊子にされたそれをツァハリーアスは一枚一枚めくっていった。
セラピオンが邸を訪れたのは、昨日と同じく太陽が傾く頃であった。彼が携えてきた厚い二冊の死亡診断書の写しを、ツァハリーアスは無言で繰った。
赤々とした夕陽が、居間の奥まで容赦なく侵入する。赤に照らされた人間と家具から引き摺り出されるのは、黒い影。床を、赤と黒の二色が引き裂いていた。
なるほどね、とツァハリーアスが眉間を指で押さえながら、呻くように言った。
厚い診断書が示す死者は概算で、北区が八○人、東区で一二○人、西区四○人、中央区で五〇人、旧市街地で数人。
これが春から先月までの約半年の記録だ。対する去年一年の死者数はそれぞれ、四〇人、四五人、七八人、一二三人、旧市街地には記録がない。区ごとに分けられた今年の診断書の写しは、見ただけで分かるほどに北と東が厚くなっている。
ツァハリーアスは感染症に関してはただの素人であるが、それでもこの死亡診断書たちは確かに何らかの疫病の流行を証言しているように思われた。
それもただの流行病ではない。致死性を備えた、恐るべき病だ。一番想像に易いのは、とツァハリーアスは暗澹たる気持ちになった。ペスト、だが。
赤い床を踏み鳴らして、足音も騒がしくヴィクターが帰って来た。
今日は静かだなと思ったら、とツァハリーアスは顔を上げる。彼は外出していたようだ。
外套を羽織ったままの彼の手には、大きな鞄。その中にはおそらくは彼の仕事道具が収まっているのだろう。挨拶すら飛ばして、ヴィクターはセラピオンを睨み付ける。
「牧師殿、これはどう見てもペストだな。吸血鬼に血を吸われたからではない。患者はペストによって死んでいる。それ以外の何物でもない」
ヴィクターはツァハリーアスの手元から死亡診断書の写しをひったくった。ヴィクターは死因の欄をざっと見ると、嗤う。
「熱病、発疹チフス、腫脹ね。これは全てペストによる死だと考えて間違いないだろうな。
今日は朝からこの街を歩いては、病気で寝込んでいる人間を片っ端から勝手に診療して回ってきた。それと一緒に、主治医も捕まえてどんな診断を下しているのか聞き出してやったさ。
医者も患者も薄々ペストだと気が付いていながら、それを認めるのが怖いばかりに適当な病名に縋り付きやがって」
ところで、とヴィクターは声を落としてツァハリーアスに問うた。「余所者である俺には分からないのだが、診断書の区分によると、この街は北区、東区、西区、南区、中央区、それと旧市街地の六つに分かれているんだな。他はともかく、旧市街地ってはどこだ。それと、この邸はどこに分類されているんだ」
「ああ、この邸はどこにも属してないよ。南区のさらに南だからね。昔はもっと南、南門を出たところにある川の反対岸に狩猟館があってね、そこに伯爵一家は住んでいたんだよ。
その周囲には小さな街が生まれた。それが今では旧市街地と呼ばれている場所だね。狩猟館が廃棄されるのに伴って住民も川の北側、つまり今の街に引っ越してきたけれど、旧市街地にもまだ住んでいる人がいる。ごく少数ではあるけれどね」
「分かりにくいな。だが、その話からすると、今日俺が回ってきたのは南区ってことになりそうだな。この書類の束が示す疫病の流行地は」、とヴィクターは厚い死亡診断書の写しを叩いた。「北区と東区だけだが、だがそれも時間も問題だろう。南区にも、俺が今日訪ねたのが南区としてだが、既に病魔は入り込んでいる。他の地区にも流入している可能性は高いだろうな。ところで、最初の患者だと考えられる自殺した娘は、どこに住んでいたんだ?」
ええっと、とツァハリーアスが束を探すよりも早く、セラピオンが答えた。
「自殺した娘は東区に、その恋人は北区の住人で御座いました」
「東区と北区、か。この書類が示す流行地と一致するな。ならばやはりその娘、もしくは恋人が最初なんだろう。けれどもう、そんなことはどうでもいいことだ。この分だと少なくとも南区では、すぐに死者が増え始めるだろう。今のうちにちゃんと診察出来る医者を揃えるべきだ。現実を直視しようとしない医者もどきは要らない」
「医者などに」、セラピオンがヴィクターに問うた。「患者から死を追い出すことが出来るのですか」
ヴィクターは肩を竦めた。
「さぁ、どうだろうね。もしかしたら患者に病気以外の苦痛を与えるだけになるかもしれないな。けれども治せる可能性はゼロではない。可能性があるなら抗うべきだ。それが俺の考えだね」
「そうだね」、ツァハリーアスは彼に同調した。ツァハリーアスが思い出すのは十五年前に馬車から見た街の惨状。燃やされる家、横行する犯罪。今度は逃げ出さない。両親はもういない。
だからこそ、己の責任で病気に何かしらの手を打たなければ。親と同じ轍は踏まない。あのような悲劇は繰り返させない。「まずは患者とその家族に、外出の禁止を言い渡そう。それが最も古典的な手だ。彼らには家の中に留まっていただく。その期間は四〇日だ」
「四〇日!」
抗議の声はセラピオン。
「どうしてそんなにも長い間」
「それが伝統的な期間だからだよ。根拠がどこにあるのかは、僕も知らない。けれどもそれで効果があるからこそ、ずっとこの期間なんだろう。ヴィクター、君も長すぎると感じるかい?」
問われたヴィクターは、「いや」と短く応じた。「ペストがどうやって感染するのかについて、まだ結論が出ていない。だからこそ長めに期間を設定するのも当然だろうさ」
「けれどそんな長い期間、感染者と一緒に閉じ込められては、蓄えのない貧乏人は病死の前に餓死してしまいます。それに、真の感染源を根絶しなければ、何の意味もないではありませんか」
「セラピオン氏の言うことにも一理ある。外出禁止を言い渡された家族に経済的余裕がないならば、医者の診察代や食料代は僕が負担しよう。感染源の根絶については」と、ここでツァハリーアスはヴィクターを見た。「何か考えられるかい?」
「さて」、と医者は顎を擦った。「さっきも言ったが、ペストがどのような方法で感染を広げるのかについては、分かっていないことが多すぎる。患者に不用意に接すると感染するのは確かだが、それが空気感染なのか接触感染なのか判断出来ない。犬、猫、ネズミなどが、その暖かな毛皮の中にペストの原因となる空気を溜め込んで運んでいるのだ、なんて説もあるしな」
「なるほど。なら少し可哀想だけれど、毛皮のある動物は駆除するしかない。その死骸を買い取るよ。ペスト患者を診察する医者には正規の診察料に加えて、危険手当としてこちらで幾ばくかの上乗せ金を支払う。病気が街中に蔓延することも想定して、食料の備蓄も進めよう。他の街への感染拡大、また、外から新たに持ち込まれないように、街の出入りには制限を設ける。出入り可能なのは重要な用件のある人間のみ。それも家族および隣近所三軒に感染者が出ていない者に限る」
いくつもの対策を打ち出すツァハリーアスを、セラピオンはじっと見つめていた。その顔を見たツァハリーアスは一つ思い出す。
彼の主張する「真の感染源」とは吸血鬼、すなわちアーデルハイトのことであろう。その考えは全く持って支持しがたい。だが。
「屍体からも感染するのかい?」
ツァハリーアスの問いに、ヴィクターは首を捻った。
「それは難しい質問だな。その質問が指す範囲にもよる、としか答えようがない。死んだ人間そのものから感染するかどうかは分からない。だが、埋葬に関係した人間が発症する例は後を絶たない。それが屍体からの感染なのか、屍体が着ていた服に含まれていた悪い空気のせいなのかは判断出来ない」
「そうかい。だが埋葬することに危険があるのならば、埋葬後にも危険があるのかもしれない。感染のリスクが少しでもあるのならば、死者の街中への埋葬は禁止せざるを得ないね。今後は病死者全てを街の外に埋葬することにしよう。幸い土地はある」
「それはあまりにも酷いことでございます」
すかさず反対の声を上げたのは、勿論セラピオンであった。
「教会の敷地内に葬られるのは、良きキリスト者として当然の権利です。それを街の外に葬るだなんて、そんなのは認められません。
教会の中どころか、街の外に追放されるのは、悪しき人間だけです。正しく埋葬されなかった死者は吸血鬼になる恐れがございますし、そもそも病死は事故死と並んで吸血鬼と化す恐れが高いと言われておりますのに。とても認められません」
「吸血鬼は」、ツァハリーアスはセラピオンに言い放った。「幻想だ。僕が守りたいのは死んでしまった人間ではなくて、今生きている人間なんだよ」
しかし、と口を開き掛けたセラピオンをツァハリーアスは遮った。
「君にも僕に従って貰うよ。ここは僕の街だ。僕が最高責任者なんだ。僕の決定に従えないのならば、どうぞ街を出ると良い。ただし四〇日の隔離をさせてもらうけれどね。君が感染者だと困るから」
ツァハリーアスの強い口調は、セラピオンから言葉を奪った。
ヴィクターはそんな二人のやりとりを見守りながら、そっと息を吐く。ツァハリーアスは、とヴィクターは思う。ここまで強引な人間だっただろうか。彼の記憶にあるツァハリーアスは柔和で、どちらかと言えば頼りない部類であったのに。




