二話
怒りのまま、床を踏みつけるようにツァハリーアスの邸から出たセラピオンは、広すぎる庭を黙々と歩いていた。太陽は既に沈み、辺りには闇が広がる。
カンテラを借りれば良かった。そうセラピオンは思うものの、しかし今更引き返して物を乞うだなんて、想像するだけで胸が悪くなりそうだ。
どこまでも続いているのだと錯覚しそうなほどに広大な伯爵の庭もまた、彼には実に不愉快であった。
植物はその伸びやかな曲線こそが美しいと言うのに、この庭では直線だけが珍重され、全ては幾何学模様に無理矢理に押し込まれてしまっている。
こんなのは唾棄すべき不自然さだ。あの伯爵らしいと言えばらしいのだろうが。
伯爵。と、セラピオンは思い返す。あの黒髪に涼やかな緑の瞳をした、まだ若すぎる伯爵は、実に難物だ。
彼としては、正当なことを正当に進言しているつもりなのに、ちっとも耳を傾けて貰えないばかりか、札束で顔を叩かれたのだから。
確かに、と彼は息を漏らした。この街を治めているのは伯爵だが、所詮それは世俗の話に過ぎないのだ。
宗教は人間の魂そのものに関する事柄だ。それは本来ならば、現世にしか関わらぬ世俗よりも上位に置かれるべきであり、領主と謂えども人間である以上は、教会の影響下にあるはずなのだ。
だが昨今の現世の享楽だけを追い求める風潮が流行るにつれて、真に大切な魂の救済には誰も目もくれないようになってしまった。
人間として生きる今世はただの仮の世、最後の審判の時に後悔しても遅いのに。そうセラピオンは深い息を吐く。死後の世界を信じ、そのために努力できるのは、人間だけだと言うのに。
「人間」、と口に出したセラピオンは笑った。伯爵の医者が言っていた妙な内容を思い出したのだ。
流石はあの伯爵の御典医だ、と彼は思った。同じく救われぬ哀れな男と見える。どうして自分が人間だと信じられるのか、か。そんなことは分かりきっていることだと言うのに、どうして疑問を抱くことなど出来るのだろう。その方が不思議だ。わたしはわたしだ。それ以外の何者でもない。
ようやく辿り着いた門をくぐり、この不愉快な庭に別れを告げようとした刹那、セラピオンは遠くに赤いドレスを見つけた。
小柄な、けれども印象に強く残るその姿に、思わず彼の足は止まった。あの無力そうな後ろ姿は、アーデルハイトだとか呼ばれている化け物だ。
それに付き従う使用人が二人。片方は女中だろうが、もう一人は男だ。それも若い。
誰なのだろう、とセラピオンは首を捻った。伯爵の邸に若い男の使用人など、いなかったはずなのだが。
彼の視線を感じたわけでもないだろうが、男の方が蝋燭を高く掲げた。その光に、アーデルハイトの髪が輝く。それは見事な金色。
セラピオンは思わず一歩、後ずさった。彼が思い出すのは深い青の瞳。
初めて出会った日、あれは吸血鬼の噂のある娘の墓に蹲っていた。セラピオンが逃げ出したのは、少女にしか見えぬ彼女の、しかし異質な存在感のせいであった。少女はいかなる明かりも持ってはおらず、そして月も雲に隠されていた。
それなのに、少女は闇から浮かび上がって見えたのだ。それが余りにも、恐ろしかった。
闇は人間の踏み込めぬ領域だ。そうセラピオンは考えている。確かに今ではカンテラや蝋燭などといった照明道具があるが、それでも闇は本来、人間の領域ではない。
それは神と対立する悪魔の世界だ。そんな闇から浮かび上がるかのように淡く輝いていた少女は、悪しき者が送り込んできた刺客に違いないのだと、セラピオンには思えた。
そしてこの考えはおそらくは間違っていないのだ、と彼は今も感じている。
どうやったかなど知りたくもないが、あの少女はこの街一番の重要人物である伯爵の関心を買い、今や彼の邸に己の居場所を得たのだから。
白衣の女は脅威だ。それは死を告げる存在なのだから。例え他の色のドレスに身を包んだとて、彼女の本性はあの白衣にこそ表されているのだ。
だから、とセラピオンは唇を引き結んだ。必ずや退治しなければならない。
アーデルハイトがおもむろに歩を返した。セラピオンの方に美しい顔が向けられる。その動きに金の髪が優雅に揺れる。
彼女の瞳がセラピオンを見つけた。その恐ろしい青から、彼は慌てて目を逸らした。その先には、彼女に付き従う若い男が。
男はセラピオンに頭を下げた。反射的に礼を返しながら、セラピオンは心の中で首を傾げた。
初めて見る男のはずなのに、既視感を覚えたのだ。誰だろうか。確かにどこかで見た男であったのだが。
逃げるように門をくぐり、広大な庭を後にしたセラピオンは、帰路を辿りながらもまだ悩んでいた。
あぁ、と長い逡巡の末に正解に辿り着く。あの若い男の癖のある淡い金髪、濃い緑の瞳、整った顔立ち。あれは、この街で服飾業を営んでいたイタリア人夫婦の息子だ。
ずいぶんと立派になったものだな、とセラピオンは思いかけて、そんな己に笑った。それは当然のことだ。なにせ、セラピオンが最後に、そして最初でもあったが、彼を見たのはもう十五年も前のことなのだから。
それは忌まわしいペスト禍の最中でのことであった。
セラピオンは彼の親に呼ばれて、その家の使用人の少年に最期の祈りを捧げてやったのであった。とは言え、彼の死には間に合わず、死後にその冥福を祈ることになったのだが。
葬儀は行わなかった。いや、行えなかったというべきか。
当時の死者数は凄まじく、墓に埋めるのが精一杯であり、悠長に葬儀などを執り行っている余裕はなかったのだ。
それでもまだ駆け出しであったセラピオンは、幼い少年のために深く祈った。子供の死が酷く痛ましく思えたのだ。
だから彼は、死者の顔をじっと見つめた。すると不思議なことに気が付いたのだった。死んだ少年は、イタリア人夫婦に似ていたのだ。
そんなはずはない、と彼は何度も思い直した。夫婦の子供の顔もそっと覗き込んでみたが、こちらは全くと言っていいほどに、似ていなかった。セラピオンの胸に疑念が芽生えた。
夫婦は妙に早く使用人である少年を埋葬しようとしており、また彼らの子供は妙にそわそわとしているように思われたのだ。
だが、当時はペストの流行期であった。夫婦は単に使用人からの感染を恐れているのかもしれず、子供とて年齢の近い使用人の死に衝撃を受けているだけなのかもしれなかった。
いや、そう考える方が妥当であった。それでもセラピオンは、一度芽生えてしまった疑問を完全に消し去ることは出来なかったのだ。
かと言って、ただの駆け出しに過ぎぬ彼が、夫婦に口出しをすることもまた憚れたのであった。
数多の死にセラピオンが多忙を極めている間に、イタリア人夫婦は街を去っていた。
ペストの流行る街では誰も服飾に興味を抱く余裕などはなく、それ故に商売に支障を来した彼らは他の街へと移ったのだ。
あの息子に、とセラピオンは天を仰いだ。こうやって再会しようとは。不思議な因果を感じる。
十五年前も噂になった白衣の女と、彼女が生み出したペスト禍に乗じて人生を入れ替えたのかもしれぬ男。
はぁ、と吐く息を暖かく感じて、もう季節が秋に、そして冬へと移り変わりつつあることを、セラピオンは実感した。
地平線から登ってきたばかりの月が、彼の行く手を白く照らし始めた。それはまるで彼を導くかのよう。
今までも自分は何かに、とセラピオンは感じた。そう、神に導かれて来たのだ。わたしには神の加護がある。その指し示される方向に歩いていれば、何の心配も要らない。
今まで一度たりとて間違ったことはしてこなかったし、そしてこれからもしない。いつだって、正しい道が示されることだろう。
正しい道は、とセラピオンは考える。それはあの化け物を始末することに他ならない。
あの不幸を運ぶ娘を何とかしなければ。それにはまず、石頭の伯爵に邪魔をされない方法を考えねばならない。
そのためには今、彼の不審を買うのは得策ではない。せいぜい従順なふりをしなければ。
だから、とセラピオンは実に嫌そうに眉を顰めた。だが仕方がないのだ、と己を慰める。
伯爵が希望するとおりに、二年分の死亡診断書の写しを提出することとしよう。
セラピオンが考えを巡らす間にも、月光はしんしんと降り注ぎ、彼の歩く道を薄明るく照らし続けていた。




