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黒/白  作者: えむ
第三章
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二話


 セラピオンは闇に紛れるように、教会を出た。

 携えるのは小さなカンテラと、鍬。誰にも、特にツァハリーアスの関係者には会いたくないのだが、彼の目指す場所に辿り着く為には、伯爵邸の傍を通る必要性があった。実に皮肉な話だ。


 邸を周囲から隔絶するかのように植えられた木々に隠れて、セラピオンは進む。

 そっと隙間から庭を窺えば、裏戸から人が出てくるところであった。慌てたセラピオンはカンテラの光を草むらに隠し、己の気配を消す。


 セラピオンの緊張感など知らぬ庭の人物は、のんびりと会話を交わしていた。どうやら二人いるらしい。

 どちらも男だが、片方はまだ若く、もう一人は中年くらいの年齢か。

 暫く穏やかな会話が続いた後、一人だけが庭から道へと出てきた。セラピオンは息を殺し、植木に身を埋めた。

 彼のすぐ近くを、何も知らぬ男が歩いて行く。年嵩の方だ。その手には大きな白い箱。


 男が角を曲がるのを待って、ようやっとセラピオンはカンテラをとり上げた。あの男は誰なのだろう、と彼は首を捻る。

 見たことのない顔であった。ツァハリーアスの使用人ではないように思われる。それにあの白い大きな箱。あれは衣裳、それも女物を入れる為の箱ではないのか。


 伯爵のところにいる女。セラピオンが真っ先に思い出したのは、当然あの金色の髪の小さな娘であった。魅惑的な瞳と赤い唇を持つ、少女。

 あの小娘に関係することでなければ良いのだが、と彼は思う。彼女は化け物だ。それを保護する伯爵もまた、信用ならない。

 やはり彼もまた彼の両親と同じく、悪しき人間なのだろうか。


 思いを断ち切るように、セラピオンは首を振った。そしてようやく歩き始める。

 彼が進む先は街の門、いつかツァハリーアスと共にくぐった門だ。目的地も同じく、荒れ地の中に立つ自殺した娘の墓。


 あの日、アーデルハイトと出会った日には幾重にも聞こえていたオオカミの鳴き声は、聞こえない。

 あのオオカミたちは、とセラピオンは考える。悪しき存在である少女を警戒していたのだろう。オオカミは吸血鬼を嫌うのだ。


 白衣の女は死を告げる存在だ。死、それは生きていれば避けられないもの。

 けれども人間は他の動物とは違う。死すらも選べるはずだ。選ぶべきだ。

 突然断ち切られる生は、人間には相応しくない。それは動物の死だ。人間は死を前もって知り、そしてそれを受け入れて静かに生を終えるべきだ。


 そう考えるセラピオンにとって、生を突如切り裂く流行病は悪夢でしかなかった。彼は思い出す。十五年前のペスト禍を。


 あの時は、老いも若きも病苦に倒れた。彼は逃げることなく、その混乱の只中に立ち続けたのだ。

 皆のために説教をし、死に行く者の心を慰めた。彼の脳裏に甦るのは、悲嘆、投げやり、無気力、怒鳴り声、混乱。

 裸で街を彷徨う高熱の病人がいるかと思えば、怪しげな薬を高価な値で売り歩く香具師がいた。

 効かないと理性では分かっているくせに、それでも一縷の望みをかけて薬に殺到する人々の姿。


 セラピオンは、人間の浅はかさをその目に焼き付けた。けれど、とセラピオンは唇を噛みしめる。

 血液独特の鉄錆びの臭いと味が、口の中に拡がった。愚かな人々の中で最も罪深かったのは、当時の伯爵夫婦だ。

 彼らは真っ先に街を、彼らが治めるべき人々を見捨てた。セラピオンの握りしめる十字架が、彼の皮膚を刺した。


 今のあの伯爵とて、とセラピオンは笑う。あの二人の子供である以上、彼らの血を継いでいるのだろう。愚かで非情な性質を受け継いでいるに違いない。

 おそらく、あの十五年前のように病が猛威を振るうことがあれば、彼もまた街を見捨てて逃げ出すに決まっている。




 黙々と俯いたまま歩き続けたセラピオンは、ほどなく目的地に到着した。

 どうして自分は、とセラピオンは疑問を感じていた。何故もっと早く、こうしなかったのだろうか。

 馬鹿正直にあの伯爵に墓の掘り返し許可を得ようとするだなんて、間違っていたのだ。


 カンテラを持ち上げれば、土に倒れた白が見えた。一瞬、ぎょっとしたセラピオンだが、それは蹲る白衣の娘ではなく、倒れた大きな十字架であった。

 つい最近まで墓の傍に建っていた物だ。自殺した娘の両親が、哀れな彼女のために祈った証拠。


 これは悪い知らせだ、とセラピオンは唇を引き結んだ。無残にも倒れた十字架は、彼の想像に説得力を与えた。

 嫌な予感に突き動かされるまま、セラピオンは背負って来た鍬を下ろすと、大きく振り上げた。

 一瞬、息を止め、打ち下ろす。鍬がめり込んだ先は、娘の墓。


 小さなカンテラの光だけが照らす闇夜に、セラピオンの荒い呼吸音と、鍬が土を掘る音だけが響く。

 曇天の日特有の天に帰れぬ哀れな湿気が、彼の周りを取り囲んだ。


 セラピオンの長い長い苦行に、ようやっと終焉がもたらされた。彼の鍬が土とは違う何かに当たったのだ。

 地面に置いたままだったカンテラを翳し、セラピオンが己の掘った穴を覗き込む。棺の蓋の一部がその姿を見せていた。

 穴の奥に飛び降りたセラピオンは、棺にかかる土を手で掘り除けた。


 木で出来た蓋は水分を含み、セラピオンの手に冷たさを伝えた。ひんやりとしたその手触りは、己の掌が熱くなっていることを彼に認識させる。

 セラピオンは意識して肩から力を抜いた。深く深く息を吸う。鼻腔の奥に染み込むのは腐敗臭。

 強く瞼を閉じてから、勇気を奮い起こしたセラピオンは、鍬で板を打ち破った。


 吹き出したのは、腐臭。その濃さにセラピオンはよろめく。息をする度に己の肺が、己の体が腐っていくような想像に捕われる。


 震える手で、セラピオンは打ち割った蓋をこじ開けた。覗き込む。

 カンテラの弱々しい光が、ほんの少し棺の中を照らした。

 そこに横たわっていたのは、屍体、だった。纏うのは黒い衣裳。縫い付けられた豪奢な白いレース。

 それは暗闇に黙して動かない、ただの物。かつては確かに生きていたのに、それを己の手で断ち切った、悪女。許されぬ愚者。


 セラピオンは深い深い息を吐いた。体に纏わり付く腐臭すら、今の彼には気にならなかった。

 彼女ではなかったのだ、と彼は思った。街に死を撒き散らす吸血鬼は、彼女ではなかったのだ。


 懐から取り出した聖水を彼女に注いでやる。自殺は罪だ。彼女が許されることはない。

 それでも彼は彼女の魂のために祈った。棺に頭をつけ、祈りを唇に載せる。


 けれど、とセラピオンは考える。彼女でないとすれば、一体誰なのだろう。誰が彼女の縁者を、そして最近では関係のない人々にまで死を振りまいているのだろう。

 彼の頭に真っ先に浮かんだのは、白衣のあの少女、アーデルハイトであった。

 月光に輝く濃い金色の髪、血の如き唇、整い過ぎた顔。何よりもあの、思考力を奪う真っ青な瞳。


 あれは化け物だ、とセラピオンの感覚は告げていた。

 掘り出した棺を再度大地の中に戻しながら、彼は街の方を見た。古い壁に囲まれた、小さな街。

 市壁はかつて吹き荒れた戦と略奪から街を守ってくれた。そう歴史書は誇らしげに語る。

 けれども、十五年前のペスト禍には無力であったし、今度のあの悪魔を防ぐことも出来なかった。

 だからこそ、とセラピオンは土に倒れたままの白い十字架を見下ろす。

 自分がやるべきなのだ。あの化け物を退治するのは、己の仕事だ。彼女が街に、ツァハリーアスの邸に迎え入れられて以降、明らかに死者は増えている。


 セラピオンは市壁を睨み付ける。アーデルハイトの姿どころか、彼女の暮らす邸すら見ることは出来ないと知っていても。

 原因はあの見た目だけは美しい小娘に違いない。そう彼は確信を新たにした。彼女は死を喰らって生きる、吸血鬼なのだ。


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