プロローグ
それは冬のある晴れた日。
酔っ払いの陽気な冗談、娘たちの罪のないおしゃべり、売り子の宣伝文句。その間を駆け抜ける子供の朗らかな笑い声。多くの人間の発する音は幾重にも連なり、冬の寒空にも負けぬ熱気を生み出していた。
街の住人たちだけではなく、近郊の、いや、もっと遠方からですら、人々はこの日の出し物を楽しみにこの地へと集まって来たのだ。目指す場所は、一つ。この街を治める伯爵の邸宅前に設えられた、臨時の舞台だ。
死刑執行は滅多にない、そしてそれ故に価値のある、イベントであった。
群衆が熱い視線で見つめる舞台に、今日の主役が現れた。兵士に守られ、監獄から連行されたのは、緑の瞳の青年。まだ若い。
兵士に促されるまま、彼は舞台へと上がる。既に用意は整っていた。彼の為の椅子。彼が犯した罪の赦しを乞う為の牧師。そして彼の首を断ち切る役目を担う、死刑執行人。
舞台に上がった彼に、群衆の興奮した叫び声が延々と投げつけられる。彼はその中で、静かに、けれども真っ直ぐに、執行人と向き合った。助手が勧めた椅子に彼が座れば、その両手首と両足が手際よく固定された。続いてもう一人の助手が、彼の髪を掻き上げ首を露わにさせた。
準備が整ったのを見て取った死刑執行人が、重々しく歩を進める。彼が裁くべき罪人に向かって。青年は今から己を殺す相手を見、そしてにこやかに笑んだ。着飾った死刑執行人のポケットから零れる、白い布を見つけたからだ。罪人が視線を下げれば、舞台の一番前にへばりつく人々の手には、杯が。
その意図は明らかだ。彼の血を、彼の首の切断面が吐き出す血を、彼らは欲している。血には力がある。それは古からの、キリスト以前からの信仰だ。生き物を生き物たらしめているのは、その体内を満たす赤き液体なのである。だからこそ、血には力が宿る。唐突に生を切断される死刑囚の物ならば特に。それは万能薬と讃えられ、飲めばたちまち体の不調を癒し、塗ればどんな傷も皮膚病も治ると、信じられていた。
罪人の笑みが深まった。吸血鬼ね、と彼は嗤う。
これではどちらが吸血鬼なのか分かったものではない。血を求め杯を掲げる彼らは、間違いなく吸血鬼だ。
それも人間の皮を被った、人間のふりをした、グロテスクな吸血鬼だ。己の醜悪さに気付くことも出来ぬ愚鈍な、ただ盲目に血を求める面の皮の厚い化け物だ。吐き気がする。
ああ、と彼は天を仰いだ。冬の弱った太陽がその瞳を打つ。彼が思い出すのは、小さな吸血鬼だ。闇に輝く銀の髪、白い肌。灰色の、こちらの心臓を打ち抜く瞳。魔物の瞳だ。暗闇に立つ少女の白さは、世界と隔絶した、世界に汚染されぬ純白であった。
彼女は美しく、孤独な存在であった。
彼女は確かに化け物であったが、彼女もそれを理解していた。彼のすぐ近くで目をぎらつかせている醜悪な存在とは違う。
罪人は顔を上げ、見物人たちを見下ろした。死を直前にしてもなお動ぜぬ彼の姿勢に、いくつもの口笛が贈られた。だが、そんなことは彼にはどうでも良いことであった。彼が焦がれるのは、白い少女だけ。
けれども彼は、数多いる観客の中から、目当ての少女を見つけることは出来なかった。肩を落し、嘆息する彼に落ちたのは、黒い小さな影。彼の為の舞台のすぐ上を、二羽のカラスが舞っていた。その片方の翼には白い筋が。
群衆が静寂に飲まれた。ついに死刑執行人が罪人の目前に迫ったのだ。振り上げられるのは、身の丈ほどもある斧。それが振り下ろされる時に、罪人は。
若き死刑囚の鮮やかな緑の瞳が最期に見たのは、空から舞い落ちる黒と白の羽根であった。