第一章 静かな揺らぎ
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「……あっはははははは!」
――…予想通り。
アズロは声を上げて笑った。
瞳には、涙まで浮かべている。
それみたことか。
…喋るんじゃなかった。
シェーナがそう思い、うなだれかけた時、アズロは再び声を発する。
「そうか、じゃあ、君は同類なんだね」
大きくも、小さくもない声。
アズロの呟く声は、深く、柔らかかった。
違う反応を想定していたシェーナは、小首を傾げる。
「へ?」
目を丸くしているシェーナに向かって、アズロは言った。
「苦手なんだ、僕も。あの臭いには………反吐が出る。なのに僕のしていることといったら…」
苦手で嫌いというところまでは聞き取れたが、その後の言葉は、声が小さすぎて聞き取ることができない。
続きを促そうと、シェーナが再びアズロを見つめると、そこにあったのは真っ暗な闇だった。
いつの間に場を去ったのだろう。
拘束されていた左手も、今は自由に動く。
辺りを見回すと、上のほうから声がした。
「ありがとう、会えて嬉しかった!」
深い墨色の空から、太陽のように明るい声が響く。
「また、来るから! 待っててっ」
「じゃあね、さよなら!」
何度も何度も、言葉がかけられる。
別れを告げる声はしだいに小さくなり、すぐに夜の闇へと融けていった。
シェーナは長いこと固められてじんじんと痛む左手を何度か振り、それから軽く頭を振ると、深い深い溜息をついた。
「……解せない奴…」
誰にも聞かれることのない囁きは、茂みの奥深くへと沈んでいった。
〜3.懐かしい日常〜
それからの日々は、平穏そのものだった。
珍客が現れてから今日まで早一月、セレス方面からの侵入者はぴたりと現れなくなった。
夜毎シェーナが国境に赴いても、そこにあるのは、ただただ深い闇だけだった。
どこかで何かが、じっと息を潜めているような――…そんな気配もない。
国境の町フォーレスの夜は、静寂そのものだった。
シェーナから報告を受けたヴァルドの要人は、シェーナにひと時の休暇を与えた。
セレスの動向は確かに気になるが、とりあえずは休めるときに休め、ということらしい。
二日前、シェーナの代わりらしき者が首都から送られて来て、その日から、おそらくは短いであろう休暇が始まった。
そういえば、休暇という休暇はここのところ全くと言っていいほど無かった。
エアルがセレスに併呑されてからというもの、ヴァルドとセレスとの間では、静かな睨み合いが続いていたのだ。ヴァルドは領地を守るために、セレスは領土を求めるがゆえに…。
ヴァルドの背後にセレスと互角の戦力を有する国、アーリアが位置しているとはいえ、アーリアの状態が少しでも揺らげば、ヴァルドとセレスの間に、いつ戦争が起こってもおかしくはなかった。
アーリアで内乱が起こりでもしたら、その機を逃さず、セレスはヴァルドもろともアーリアを攻めるだろう。アーリアも同様に、セレスの内政から目を離さない。
大国に挟まれた国、ヴァルドには、息をつく暇すら満足に与えられないのが現状だった。
だから、この休暇は本当に本当に稀なものだ。
シェーナは思った。
この際、思い切り羽を伸ばそう!
――机の中から取り出したのは、懐かしい淡い緑のリボン。
シェーナはそれで編んだ髪をゆるく結ぶと、動きやすく軽い木綿の服を重ね着し、その上に暖かいショールを羽織って、久しぶりの陽の光の中へと足を踏み出した。
十一の月のフォーレスの朝は、吹き始めた北風に負けないほどの活気に満ちていた。
地面に無造作に石を並べて作られた大通り…通称、朝市通りの両側には、食料品・衣料品・工具等、たくさんの商店が並び、看板代わりに大通りへと積み上げた鮮やかな品物たちで客を引く。
「安いよ、安いよ! 今朝限りの大セール!」
「さっき仕入れたばっかりの果物だよっ」
「首都で流行の一品、見とかなきゃソンですよ!」
右、左。
歩くそばからかかる声。
賑わう人だかり、明るい笑い声。
少しそばに戦争という危険が迫っていることを、みじんも感じさせない雰囲気が、そこにはあった。
上を見上げれば、青く澄んだ高い空。
立ち並ぶ店の間に点々と植えられた常緑樹の煌き。
ひとつひとつを味わいながら、シェーナは足を進める。
知らずのうちに、その顔には笑みが浮かんでいた。
どこか、店に寄っていこうかな。
シェーナがふと思った時、真横の店から声がかかった。
「ちょっとちょっと、お嬢さん」
「はい?」
振り向くと、色とりどりの果物に目を奪われる。
並べられた幾つもの木箱に、下手に触れば崩れ落ちてしまうくらい高く積み上げられた、たくさんの果物が溢れていた。
声の主は、箱に隠されてよく見えない。
「ごめんごめん、ちょっと待ってくれな」
箱を掻き分けるようにして、声の主…店主らしき人物が、シェーナの前に姿を現した。
見た感じたくましそうな、それでいて笑顔の似合う、恰幅のよい男の人だった。
以前会ったことがあるだろうか。
シェーナは少し考えたが、思い当たる節はなかった。
「足を止めちまって悪いな。…あんただろ? 一年くらい前に、フォーレスに越してきて以来ほとんど顔見せない変わり者って」
変わり者…。
そういえば、国からここへ送られてきてからは、あまり人と接さなかった。
…好んで接しようとしなかった、という理由もあるのだが。
加えて、夜起きて朝寝る生活が続いていたし、住んでいる場所も、皆が住みたがらない…国境側の門に近い、町外れの一軒家だ。
町の者からすれば、よく解らない怪しい奴なのかもしれない。
「え、ええ…」
とりあえず、しどろもどろに返事をすると、男の人…店主は声を上げて笑った。
「そうかそうか! いやぁ、人違いじゃなくて助かった」
よかったよかったと、一人で何度か頷いてから、店主はシェーナへと問いかける。
「お前さん、ヴァルドのもんじゃないだろ。その眼、その髪の色。ヴァルドのもんのほとんどは薄い金髪だが、お前さんのそれは栗色だ。栗色の髪っちゃー、アーリアのほうにしかおらん」
店主の眼には、嫌悪感は映っていなかった。
おそらくは、純粋な好奇心なのだろうか。
シェーナは、当たり障りの無い程度に、事実をかいつまんで話そうと、口を開いた。
「――…ええ。確かに私は、ヴァルドの生まれではありません。…が、アーリアで育ったわけでもないんです。髪や眼の色の特徴もありますし、おそらくはアーリア地方で生まれたのだと思うんですが、実際のところ、どこで生まれたのかもよく判らないんです。…物心ついた時には、私はもう国内の、ヴァルドの都からそう遠くない所にある小さな村にいました。それからは、そこで育ったんです」
そう。
シェーナはつまる所、自分の素性も何も知らない。
でも、知らなくてもいいと思っていた。
育ててくれたシエラねえさんは、シェーナが何者でも気にしないと言っていたし、村の人たちも、見ず知らずの子供のシェーナを受け入れてくれた。
シェーナという名前も、シエラねえさんがつけてくれたものだ。
…ずっと、あの村で過ごすのだと思っていた。
遠い、幸福な日々を思い返し、シェーナは小さく首を振った。
息を吸い直すと、言葉を続ける。
「十二の歳まではその村にいて、それから四年間は都にいました。フォーレスのことは、都で知ったんですよ、活気のある、素敵な街だって」
――…嘘は言っていない。みんな事実だ。
もっとも、興味を持って調べたわけではなく、ヴァルドの地理や国境の町フォーレスのことをシェーナに事細かに教えたのは国軍の要人なのだが、それは黙っておいた。
一通り話し終え、ちらりと店主を見やると、彼は深く深く頷いていた。
そして何故か、涙目でシェーナの両肩をぽんぽんと叩いた。
それから、一気にまくしたてる。
「そうかいそうかい、やっぱりそうだったのかい! …エアルがあったころはまだ良かった。けど、エアルがセレスに併呑されて、ヴァルドが完全に二国に挟まれるようになってから、都はもの凄くピリピリしてるって都のもんから聞いてたんだ。こういう商売だからね、色んな噂が入るのさ。昔なら色んな国の人がいてもおかしくなかったのに、今では純粋なヴァルド人以外は敬遠されてるって。――…あんたも、都に居辛くなったんだねぇ…まったく、不憫なもんだよ。…でも! 大丈夫、ここの者たちは、あんたを敬遠なんかしないさ。ここではあんたみたいな余所者の輩より、ラシアン以南ばかりに目をかけて、フォーレスをないがしろにしてる都のほうが目の敵にされてる。だから人目なんか気にするこたぁ無い。堂々と昼間に歩いたっていいんだぜ? な?」
―――…へ?
え?
は?
シェーナは目を瞬かせた。
相手の剣幕に押され、相手の言葉が切れてからもそのまま少し黙って。
少し経った後、ようやく口を開いた。
「え…っと…その、お気遣い、ありがとうございます」
どうやら、店主は少し誤解しているらしい。
シェーナが容貌のために都に居辛くなり、しかし他に受け入れてくれる場所も移る場所もなく、あえて危険な国境の近くへ移ることになった……、そう、思っているらしかった。
けれど、その誤解はシェーナにとってみれば好都合なものだった。
都からこちらに移ってからというもの、接する住民たちに、フォーレスに移り住んだ理由をどう説明すればいいものかと考えていたが…なるほど、この理由は使える。これなら、今までのシェーナの態度も怪しまれずにすむだろう。
シェーナは心の中で頷くと、店主に向かって言った。
「今まであんまり人目につかないようにしてきたから、昼夜が逆転しちゃって…。一度ついちゃった習性だから、なおすのに時間はかかると思うけど…。…うん、でも、ありがとうございます! 今度からは、機会があったらまた来させて頂きますね」
ちょうど混み合う時間帯になってしまったのだろうか、後ろにどんどん客が並んできたので、シェーナは早口にお礼を言うと、店主に手を振って場を後にした。
少し離れてから、小声で呟く。
「ありがとう、騙してるみたいで悪いけど…あなたのお陰で助かっちゃいました」
昼前になり、朝市通りの賑わいが少し収まった頃、シェーナの姿は流れ去った人波とともに消えていた。
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