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第三章 水面に零れた一滴は


〜6. ふたつの現実 前編〜



 歌が終わり、少女が軽く咳をして小さく息を整えてからは、ただ、室内に静寂が流れていた。


 食事が下げられてから半時ほどの時間が経つまで、二人は壁際に座ったまま、何をするでもなく、天井を見上げていた。

 ぽつりと、思い立ったように少女は呟く。


「――…何か、見えましたか?」


 天井から真正面へ、それからシェーナへと視線を移して、少女は続けた。


「この歌は、わたしが物心ついた時には既に知っていた曲なんです。どこの歌なのか知りたくて、お義父さま…私を育てて下さった方の前でも歌ってみましたが、やはり知らないと…」


 目を閉じ、穏やかに微笑んで、少女は言葉を紡ぐ。

 歌声よりは少し幼く感じられる声で、静かに語った。


「…けれど、懐かしい気がする、とも仰いました。試しに色々な人の前で歌ってごらん、と言われ、わたしはお義父さまの職場で、多くの人に聴いて頂いたのです。…そこでも、知ってらっしゃる方は一人もいませんでしたが……ひとつのことが解ったんです」


 深く澄んだ石壁に、鈴の声が響いていく。

 シェーナは風凪ぎのような、たゆたうようなその声を、そっと聞いていた。


「抱いてきた想いや歩いてきた場所、得たものや失ったもの、たいせつなものやたいせつな人…歩み去った過去…。幻想ではない、過去としての事実を、この歌は聴き手に見せるそうです。…ある方は、この歌を聴いて酷く苦しまれ、もう近くでは歌わないでくれと仰いました。またある方は、また何度でも聴かせてくれと…」


 ふと、淡い色の目が開かれ、シェーナの横顔を見据える。


「……シェーナ様には、何が映ったのでしょうね」








「――…」


 横を向いて、少女の瞳と眼が合って、シェーナは息を呑んだ。


 淡い藍の瞳が、鋭く、シェーナの茶の瞳を射抜く。

 少女の顔から、笑みが消えていた。

 澄んだ淡い瞳が、煌く刃のようにすら見える。


「……少し、喉が渇きましたね」


 少女はそのまますっと立ち上がり、近くに置いてあったコップを手に取ると、少しずつ口に水を含む。

 表情から、笑みは消えたままで。

 笑みがないというより、感情全てが消えたような表情とでも言うのだろうか。

 藍の瞳は、澄みすぎているくらいに澄んでおり、そこに何も映していないかのようだった。

 シェーナはただ、そんな少女の姿を唖然として見つめていた。






 『シェーナ様…』


 ふと、シェーナの頭へと、声のようなものが響く。


 え?


 声を伴わず、ただ口だけを疑問の形に開いた時。


「……」


 ほんの少しだけ離れたところにいた少女が、流れるような歩みでシェーナの眼前へと舞い戻り、徐にシェーナへと口付けた。


「!?」


 同時に、何かが口の奥へと流れ込む。

 息苦しさに思わず飲み込み、微かに残っていた力で少女の身体を押しのけると、何度か咳き込んだ。












「…申し訳ございません」


 シェーナと少し距離を取った所へそっと座り、少女は口を開いた。

 先の一時の無表情とは異なり、瞳には穏やかな色が浮かんでいる。

 

「このお薬はログレアで精製されたもので…薬効の強い薬草の成分を凝縮したものですから…少量でも、効果があるんです。身体にも、とてもいいんですよ」


 少女はにっこりと微笑むと、ほんの少しだけ目を伏せた。


「……シェーナ様」


 小さく、確かに、声が響く。


「わたしの歌を、忘れないでください。…これからシェーナ様が生へ向かわれるとしても、死へ向かわれるとしても…。どうか、どうか…歌が見せたもの、すべてを、忘れないでいてください」


 少女は銀の髪を揺らして立ち上がると、静かに戸の外へと出て行った。

 長い服の裾が、戸に吸い込まれて、見えなくなっていく。











「……」


 シェーナは少女の後姿を視線だけで見送ると、深く目を閉じた。

 瞳を閉じたまま、想いを馳せる。

 

 歌が見せた、景色を。

 色鮮やかな、思い出たちを。

 接したすべての人々を。

 そして――…


 あの日起こった、出来事を。

 あの日起こした、出来事を。


 シエラねえさんの、最期の笑顔を。

 シエラねえさんの、最期の言葉を。


「……」


 そっと目を開くと、左手を握り、開き…それを繰り返してみる。

 右手も、同じように繰り返す。

 

 どちらも、動いた。

 肩から繋がっている両腕は、両の手は、自分のもので。

 遠ざかろうとしても、どこまでもついてくる。


 あの日、あの時…身を切り裂く暴風が吹き荒れた時、強く違和感を感じた左手も。

 シエラねえさんとよく繋いでいた、微かにあたたかさの残る右手も…。

 確かに、自分のものだった。









 焼きついて離れない紅い光景。

 止まない風と、叫び声。

 生温かい両腕と、体温を失って冷えててく大切なひとの身体と。

 居た堪れなくなる、あの鉄のような臭い。

 

 活気溢れる小さな診療所。

 差し入れの食べ物と、皆の笑顔と。

 手を繋いで歩いた、草の道。

 春夏秋冬、流れる厳しくも穏やかな日々。


 静かに想いながら、両の手を組み、額へと当てる。

 

「―――」


 固く目を閉じ、声にならない言葉を囁いた。






 


 

 暫くして、二度目の食事が運ばれてきて、一時間後、いつも通りに、手付かずのままさげられていく。


 いつの間にか眠ってしまったシェーナを、戸から入ってきた誰かがベッドへと運び、そっと戸の外へと消えていった。






◆intermezzo◆ 〜魂よ安らかに〜



 都アフィリメノスの地下施設の面積は広い。

 その広大な地下施設の上には、ごくごく一般的な建築物…商店や住宅が並んでいた。


 昼間は活気のあるこの場所も、住まう者たちが寝静まった宵は静寂に包まれる。

 地上に少しだけ遅れる形で、地下施設も一様に寝静まった頃、地上に立ち並ぶ住宅のうちの一軒の扉が微かに開き、閉まって、一人の少女が歩み出た。


 遠慮がちに、一定のリズムで、衣擦れの音が響く。

 小さなその音は、地下からの湧き水を地上へと汲み上げる仕組みを応用して人工的に築かれた、泉の広場で姿を消した。










 薄灰の石を組んだ囲いの中にできた大きな水鏡に、中天にかかった楕円形の月が浮かぶ。

 少しの間立ったまま水面に揺らぐ月夜を眺めていた少女は、ゆっくりと、泉を囲う石組みへと腰掛けた。


『…よろしかったのですか? あんな…一瞬だけで』


 声に出さず、思念だけを宙へと向けて送ると、柔らかな声が返ってきた。


「ええ」


 耳元だけに届く、微かに聞こえる程度の声を、少女は身動き一つせずに聞いていた。

 辺りに響くのは、泉の周りに植えられた木々が風を受けて擦れ合う、微かなざわめきだけで。

 それ以外に、音は無い。


『…本当に、もうお会いにならないのですか? お話もなさっていないのに…』


 少女の視線だけが動き、何も無い宙を眺めた。


「ええ、いいの」


 宙が歪んで、薄い金髪の女性が現れる。

 ちょうど少女が眺めていた辺りに立ち、ふわりと微笑んだ。

 少女の淡い藍の瞳には、先ほどまでと全く変わらない闇が映されている。


「…あなたの寿命を、これ以上削るわけにはいかないわ」


 穏やかな、それでいて凛とした女性の微笑みに、少女は顔を強張らせた。


『…!』


 女性は少女へと近づくと、その透き通るような銀の髪をそっと撫でる。


「支障が無いっていうのは嘘なのね? ルーアンちゃん。…あなたは、思念を異能者へと伝える力のほかに、意識体の器としての力がある…。けど、後者は使用禁止。…違う?」


 女性の手が少女へと届くことはなかったが、少女は女性の想いに、藍の瞳を潤ませた。

 女性は、そんな少女を透き通る腕で抱きしめると、ゆっくりと手を解き、少し離れた所に立つ。


「…ルーアンちゃん、あなたの大切な時間を、命を、ありがとう」





 深く頭を下げると、真っ直ぐに背筋を伸ばし、それから遠い月へと顔を向け、女性は融けていった。


「……」


 女性の微笑みに似た月明かりが、少女へと慈愛を注ぐ。

 少女は石組みに当てていた両の手を組み、そのまま少しの間黙祷した。


「幻に滴りしひとしずく…繋ぎ紡ぎし夢色の…衣纏いて今舞わん…」


 囁くように、声に出す。


 宵に歌うは、聴きし者の心を揺らす軌跡。

 憂いと祈りを織り上げて、覚めない夢へ謡った。











『――泣いているの?』


 ほんの少し前の、過去。

 ただただ無表情で眺めていた夜空に、ふわりと現れたその人を想って、少女は微笑む。

 繰り返していた歌を止め、傾き始めた月を見上げた。


 行き場を失い彷徨っている自身のことよりも、目の前の、名も知らぬ少女のことを気遣ってしまうその人の行動を想いかえして、ふっと口から息を吐く。

 美しい満月というよりは、どこか抜けている…ちょうど今の月のような人。

 完璧が似合いそうで似合わない、遠く近しい人。

 

 接した僅かの期間にもらった、数多くのもの。

 僅かの期間に聴いた、印象深い話たち。









 

「シエラ様…。わたしにも、誰かに生きてほしいと…笑ってほしいと願うことは、許されるのでしょうか」





 胸に手を当て、そっと呟くと、少女はすっと立ち上がった。

 小さく衣擦れの音を響かせ、踵を返すと、月明かりの届かない屋根の連なりの下へ、姿を暗ませる。


 穏やかな闇夜に浮かんだ月が、刻々と、傾きを増していった。

 近づく東雲時を、待ち侘びるかのように――…。



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