婚約破棄した王太子が、翌朝「国宝が盗まれた」と泣きついてきました。
「シンシア! お前との婚約を破棄する!」
王宮の大広間に、王太子ジェラルド殿下の声が響いた。
「承知いたしました」
「……は?」
「正式な手続きは父から王家に申し入れます」
「理由を聞かないのか!」
「お隣の女性が理由では?」
殿下の腕には、金髪碧眼の可憐な女性がしがみついていた。
「彼女はミレーヌ! 私が真実の愛を見つけた相手だ!」
「おめでとうございます。では、失礼いたします」
「ま、待て! 本当にそれだけか!?」
それ以外に何を言えばよいのだろう。
私は公爵家の長女として王太子妃になる教育を受けてきた。婚約破棄は我が家の名誉に関わるが、対応は父と国王陛下が協議する問題だ。
私は礼をして退室した。
「ミレーヌ! これで私たちは自由だ!」
「嬉しいです、ジェラルド様!」
背後から幸せそうな声が聞こえた。
国王陛下は現在、隣国を公式訪問中。帰国は十日後だ。
陛下の不在中に公爵令嬢との婚約を勝手に破棄したのだから、帰国後は大騒ぎになるだろう。
だが、まさか翌朝、それどころではない事件が起こるとは思わなかった。
◇
「お嬢様! 王太子殿下がお見えです!」
翌朝七時。侍女のアンナが駆け込んできた。
「昨日、婚約破棄したばかりでしょうに」
「ひどく取り乱していらっしゃいます!」
仕方なく応接室へ向かうと、顔面蒼白のジェラルド殿下がいた。
「シンシア! 助けてくれ!」
「おはようございます。何があったのですか?」
「人払いをしてくれ!」
アンナを下がらせると、殿下は声を潜めた。
「国宝が盗まれた! 建国以来、王家に伝わる宝冠だ!」
歴代国王の戴冠式で使用される、王権の象徴。王国で最も重要な宝物である。
「国王陛下にはご報告を?」
「できるわけがない! 父上に知られたら終わりだ!」
事情を聞くと、昨夜ミレーヌが宝冠を見たいと言い、殿下は王太子の権限で宝物庫を開けたという。
「宝冠を身につけたいと言われたんだ。宝物庫では禁止されているから、儀式室へ移すよう命じた」
「国王陛下の許可は?」
「父上は外遊中だ!」
許可がないからこそ、移してはいけないのでは。
「それで?」
「ミレーヌが、戴冠式のように飾りつけた部屋で宝冠を身につけたいと言ってな。装飾品を運び込ませたんだ」
「装飾品を?」
「ああ。ミレーヌの知り合いの商人が、立派な品を貸してくれた」
「……その商人は、王宮へ入ったのですか?」
「当然だ。私が許可した!」
嫌な予感がした。
「装飾品はどうなったのです?」
「見学が終わったので、片づけさせた。借り物だから返さねばならんだろう」
「誰が搬出を許可したのですか?」
「私だ!」
私は黙った。
「……それで、宝冠は?」
「儀式室に置いてあったはずなのに、いつの間にか消えていた! ミレーヌも姿を消したんだ!」
殿下は懐から手紙を取り出した。
『宝冠を返してほしければ、金貨一万枚を用意してください。明日の夜、指定する場所へ持ってきてください。国王陛下に知られれば、あなたの立場はどうなるでしょうね? 愛するミレーヌより』
「つまり、ミレーヌ様に国宝を盗まれ、身代金を要求されているのですね」
「そうだ!」
「それで、なぜ私のところへ?」
「金を貸してくれ!」
「お断りいたします」
「なぜだ!」
「昨日、婚約破棄されましたので」
「それとこれとは別だろう!」
「別ではありません。国王陛下に報告なさってください」
「できないから頼んでいるんだ!」
「金貨を渡しても、宝冠が戻る保証はありませんよ?」
「……」
「お帰りください」
殿下はしばらく粘ったが、結局肩を落として帰っていった。
私はアンナを呼んだ。
「お父様に至急お話があると伝えて」
◇
「国宝が盗まれただと!?」
父は私の報告に声を荒らげた。
「国王陛下の留守に婚約破棄し、翌日には国宝を盗まれるとは! 何をやっているんだ、あの馬鹿息子は!」
「お父様。公爵家で宝冠を取り戻しましょう」
「当然だ。国宝だからな」
「ただし、王太子殿下に身代金を貸すのではありません」
私は地図を広げた。
「犯人の目的は金貨一万枚です。宝冠は王国中に知られていて、売りさばくこともできません。持ち逃げすれば国家総力で追跡されます。最初から返すつもりなのでしょう」
「なるほど。宝冠は身代金を引き出す道具か」
「はい。そして、単独犯ではないと思います。王宮から宝冠を盗み出し、隠し場所を確保し、大量の金貨を国外へ運ぶには仲間が必要です」
「窃盗団というわけか」
「金貨一枚が十グラムとしても、一万枚で百キログラム。持ち運ぶには馬車か船が必要です。輸送経路を調べましょう」
父は執事を呼んだ。
「街道、宿場、国境、商会に連絡しろ。怪しい荷物と馬車を調べる。それから護衛隊を集めろ!」
「かしこまりました!」
「お父様、もう一つ。この件は王太子殿下個人への援助ではなく、公爵家による国宝奪還として扱ってください」
父は笑った。
「王家に貸しを作るわけだな」
「はい」
「婚約破棄で我が家の名誉を傷つけた直後に、我が家が国宝を取り戻す。国王陛下には相応の対応をしていただこう」
◇
その日の午後、公爵家の情報網から報告が届いた。
「南の国境へ向かう商隊に、不審な木箱があります。高価な装飾品と申告されていますが、荷主が不明です」
「いつ出発したの?」
「今朝です」
王都から南の国境までは馬車で三日。まだ国内にいる。
「追跡して。それから、昨夜王宮から出た荷物も調べて」
「すでに調査中です」
私は地図を見た。
身代金の受け渡しは明日の夜。それなのに商隊はもう出発している。
宝冠を先に国外へ運ぶつもりなのか。
だが、返すつもりなら遠くへ運ぶ必要はない。
「念のため、国境で確認してもらいましょう」
◇
翌日、国境から報告が届いた。
商隊の木箱に宝冠はなかった。装飾品は正規の商品で、荷主の名前が不明だったのも手続きミスだった。
「外れましたか」
「申し訳ございません」
「いいえ。次を調べましょう」
そこへ、別の報告が届いた。
「昨夜、王宮から馬車が三台出ています。そのうち一台が、王都の倉庫街へ向かいました」
「荷物は?」
「儀式室で使用した装飾品です」
「儀式室?」
王太子が宝冠を移した場所だ。
「行き先は?」
「倉庫街の小さな倉庫です」
私はジェラルド殿下の話を思い出した。
ミレーヌが装飾品を借り、殿下が王宮への搬入を許可した。
見学後の搬出も、殿下自身が命じている。
つまり、窃盗団は王宮の警備を力ずくで突破したわけではない。
王太子の命令を利用したのだ。
「そこを調べて。宝冠を装飾品に紛れ込ませた可能性があるわ」
公爵家の護衛隊は、倉庫の周辺を慎重に調べた。
離れた場所から監視されている可能性もある。周囲の建物や路地を警戒しながら、少しずつ倉庫へ近づいた。
しかし、不審な人物は見当たらなかった。
護衛隊が倉庫の中へ踏み込むと、そこにも見張りはいなかった。
そして夕方、木箱の底から宝冠が発見された。
「見張りは?」
「倉庫内にはおりませんでした。周辺も警戒しましたが、監視者は確認できておりません」
私は頷いた。
国宝を隠した倉庫の見張りなど、発見されれば真っ先に捕まる。窃盗団も、見張り当番の危険が大きすぎると判断したのだろう。
「これで国宝は取り戻せましたね」
「はい、お嬢様」
「でも、窃盗団はまだ捕まっていません」
私は父と相談した。
「今夜の身代金受け渡しを利用しましょう」
「金貨一万枚を用意するのか?」
「いいえ。宝冠はもうありますから」
私は微笑んだ。
「金貨に似せた真鍮の円盤で十分です」
◇
その夜、王都の外れにある古い橋の下。
ジェラルド殿下が馬車を止めた。荷台には、真鍮の円盤を詰めた木箱が積まれている。
「本当に大丈夫なのか?」
「犯人を捕まえるための作戦です。殿下は予定どおりに」
私は橋の陰に隠れた。
やがて、向こうから馬車が現れた。
御者台には見知らぬ男。その隣にはミレーヌがいる。
川岸にも数人の男が立ち、桟橋には大きな荷船が停泊していた。
なるほど。金貨を船に積み、川を下って国外へ逃げる計画だったのだ。
「ジェラルド様! お金は用意できましたか?」
「あ、ああ……宝冠はどこだ!」
「お金を確認してからです」
「約束が違う!」
ミレーヌは笑った。
「約束? あなたは本当にお人好しですね」
「……何?」
「私があなたを愛していると、本気で思っていたのですか?」
殿下の顔が引きつった。
「ミレーヌ……?」
「王太子妃になりたいなんて、一度も思っていませんよ。欲しかったのはお金だけです」
「そんな……!」
「王宮の警備って、本当に厳しいんですね。私たちだけでは宝冠に指一本触れられませんでした」
「……何?」
「だから、全部あなたにお願いしたんです。宝物庫を開けるのも、儀式室に運ぶのも、仲間を出入りさせるのも」
ミレーヌは微笑んだ。
「王太子殿下のご命令なら、誰も疑いませんもの」
「まさか……!」
「ええ。装飾品を片づけた時、宝冠も一緒に木箱へ入れたんです。あなたが搬出を許可してくれたので、王宮の外まで簡単に運べました」
殿下は呆然とした。
「そんな……私は、国宝を盗ませたのか……?」
「そうですよ。あなたが全部許可してくださったんです」
ミレーヌは楽しそうに笑った。
「おかげで、簡単に国宝を盗めました」
十分だ。
「そこまでです」
私は橋の陰から姿を現した。
「……シンシア様!?」
「こんばんは、ミレーヌ様」
「なぜ、あなたがここに!?」
「国宝を取り戻しに参りました」
ミレーヌはすぐに笑みを取り戻した。
「残念ですけど、宝冠は私たちが持っています。捕まえたら二度と戻ってきませんよ?」
「そうでしょうか?」
私は手を上げた。
橋の両側から、公爵家の護衛隊が現れた。
川岸の男たちが船へ駆け込もうとする。
だが、上流と下流から公爵家の船が接近していた。
「なっ!? 船まで!?」
「陸も川も封鎖しております。逃げ道はありません」
ミレーヌの顔から血の気が引いた。
「ま、待って! 宝冠がどうなってもいいの!?」
「もう取り戻しましたよ。王都の倉庫に隠してありましたね」
「……嘘!」
「本物は安全な場所に保管しております」
ミレーヌが逃げようとしたが、護衛に取り囲まれた。
「離して! 私は何もしていない!」
「先ほど、ご自分で盗んだとおっしゃいましたよね?」
「それは……!」
「証人は十分です」
護衛隊長が声を上げた。
「国宝窃盗および恐喝の容疑で、全員拘束しろ!」
男たちは次々に取り押さえられた。船に逃げ込もうとした者も、川へ飛び込んだ者も、すべて捕まった。
「こんなはずじゃなかった! 金貨を手に入れて国外へ逃げるはずだったのに!」
ミレーヌの叫びが夜の川辺に響いた。
私は小さく息を吐いた。
国宝は奪還。窃盗団は全員逮捕。
ようやく事件が終わった。
◇
数日後、外遊から帰国した国王陛下の前に、私と父、ジェラルド殿下が呼び出された。
陛下は報告書を机に置き、息子を睨んだ。
「ジェラルド。私の留守中に公爵令嬢との婚約を破棄し、新しい恋人に国宝を盗まれ、身代金を隠れて払おうとした。挙げ句、その後始末を公爵家にさせた。間違いないな?」
「ち、父上! ですが私はミレーヌに騙されたのです!」
「騙されたから何だ?」
「私も被害者です!」
国王陛下の表情が険しくなった。
「お前には何度も引き返す機会があった。婚約を破棄しないことも、宝物庫を開けないことも、見知らぬ商人を王宮へ入れないことも、国宝の紛失をすぐに報告することもできた」
「それは……」
「だが、お前はそのすべてを自分の判断で行った。しかも最後には、昨日捨てた婚約者に金を借りて、事件を隠そうとした」
「で、ですが! 宝冠は戻りました!」
「お前が何一つ解決しなかったからこそ、公爵家が取り戻したのだ!」
ジェラルド殿下は言葉を失った。
「お前は王太子としての資格を失った。本日をもって廃嫡する」
「父上!?」
「決定だ。下がれ」
衛兵に促され、ジェラルド殿下は謁見室を去った。
国王陛下は私たちに向き直った。
「シンシア嬢、公爵。息子の愚行を謝罪する。そして、国宝を取り戻してくれたことに心から感謝する」
陛下は公爵家に相応の褒賞を約束し、婚約破棄についても王家の非を認めてくださった。
こうして、王家の宝冠は戻り、事件は幕を閉じた。
◇
一か月後。
私は公爵家の仕事を任され、忙しくも充実した日々を送っていた。
「お嬢様、お手紙が届いております」
アンナが差し出した封筒の差出人は、ジェラルド殿下だった。
『シンシアへ。
私は愚かだった。君がどれほど私を支えてくれていたか、今になって理解した。
ミレーヌに騙され、王太子の地位を失い、私はすべてを失った。
だが、君だけはまだ私を助けてくれると信じている。
もう一度、やり直せないだろうか』
私は手紙を封筒に戻した。
「お返事は?」
アンナが尋ねた。
「必要ないわ」
「よろしいのですか?」
「ええ。もう私には関係のない方ですもの」
私は机の上の仕事に目を戻した。
婚約破棄された翌日、王国の国宝が盗まれた。
あの時は大変だったけれど、おかげで私は王太子妃になる義務から解放され、自分の未来を選べるようになった。
国宝は王家に戻った。
王太子は地位を失った。
そして私は、今日も好きな仕事ができる。
これ以上、何を望むというのだろう。
私は微笑み、新しい書類にペンを走らせた。




