第40話 女王の選択
宿屋の一階、賑わう食堂の片隅。
依頼を終え、夕食を囲んでいる私たちのテーブルだけが、まるで冬の嵐の只中のように冷え切っている。
「チッ」
ブレイズが舌打ちをして、ジョッキを乱暴に煽る。
彼は帝都の門をくぐってから、一言も口を利いていない。
ただ、目の前の肉料理を親の仇のように噛みちぎり、時折、隣のアズールを殺気だった視線で睨みつけているだけだ。
一方のアズールは、そんな兄の殺気を涼しい顔で受け流しながら、優雅にスープを口に運んでいる。
けれど、その指先が微かに震えているのを、わたしは見逃さない。
兄への恐怖ではない。
「兄から奪った」という背徳感と、優越感に震えているのだ。
——やれやれ。手のかかる兄弟ね。
ダンッ!
ブレイズが空になったジョッキをテーブルに叩きつけた。
周囲の客がビクリと震える中、彼はぎらついた瞳を私に向けた。
「……ミリア」
その瞳は、肉食獣のように鋭く、飢えている。
「今夜は俺の部屋に来い」
それは誘いではなく、決定事項の通達だった。
所有権を主張する、命令。
私の身体に染み付いた弟の痕跡を、俺の色で塗りつぶさせろという、雄の苛立ち。
食堂の空気が凍る。
アズールのスプーンが止まる。
わたしはワイングラスを置き、ナプキンで口元を拭うと、静かに首を横に振った。
「お断りよ、ブレイズ」
わたしは静かに、けれど明確な意志を持って、伸ばされた彼の手を解いた。
ブレイズの眉間に深い皺が刻まれる。
爆発寸前の火山。
けれど、わたしは構わず、隣のアズールへと顔を向けた。
「ねえ、アズール。……あなたの部屋に行ってもいいかしら?」
ガチャン。
アズールの手からスプーンが滑り落ち、皿にぶつかって甲高い音を立てた。
夜空色の瞳が、驚愕と、そして隠しきれない歓喜に見開かれる。
「ボ、ボク……ですか?」
「ええ。あなたの『癒やし』が必要なの。……ダメ?」
上目遣いで尋ねると、アズールはチラリと兄を見た。
絶対的な「太陽」である兄の前で、自分が選ばれたという優越感。
そして同時に、兄の所有物に手を出しているという背徳感と罪悪感。
その全てがない交ぜになった複雑な表情。
「ふざけんなよ!」
ドォンッ!!
ブレイズが拳を叩きつけ、テーブルが悲鳴を上げた。
食器が跳ねる。周囲の客が怯えて視線を逸らす。
「俺への当て付けか?それとも、そいつの味が忘れられなくなったってか?」
「当て付けじゃないわ。……ただ、今のわたしには、彼の『月』のような静けさが必要なだけ」
わたしは席を立ち、アズールの手を取った。
ブレイズの全身から、殺気が噴き上がる。
もしここが戦場なら、間違いなくアズールは斬り殺されていただろう。
けれど、彼はギリギリのところで理性を保っていた。わたしがそれを望んでいないことを、理解しているからだ。
「行きましょう、アズール」
「は、はい……」
アズールは震える足で立ち上がり、最後に一度だけ、兄の方を振り返った。
その目は、「勝った」という勝利の光と、「殺される」という恐怖で揺れていた。
背後から突き刺さる、焼き尽くすような殺気。
それを肌で感じながら、わたしはアズールを連れて食堂を後にした。
◇
アズールの部屋に入り、扉を閉めた瞬間、彼はすがるようにわたしを抱きしめた。
「ミリアさん……ッ!」
「よしよし。怖かった?」
「い、いえ!ただ、嬉しくて……貴女が、兄さんではなくボクを選んでくれたことが……!」
彼はわたしの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。
そこには、花びらのような赤い印——彼が残した優しい傷跡が、まだ淡く残っている。
「愛しています……誰にも、渡したくない……」
耳元に落ちる熱い吐息と、低く掠れて独占欲を孕んだ声。
彼は震えながら、けれど歓喜に打ち震えるようにわたしをきつく包み込んだ。
二人でベッドに沈み込む。
兄の前で選ばれたという事実が、彼を大胆にさせている。
丁寧で、執拗で、そしてどこまでも優しい愛の気配。
わたしは彼に身を委ね、その献身的な熱に溺れた。
「綺麗だ……。あなたは、ボクだけの女王だ……」
ブレイズのような嵐ではない。
静かに満ちていく潮のように、彼はわたしの理性の境界線を越えて深く入り込んでくる。
世界が白く染まりそうになるほどの深いふれあいに、わたしはただ彼の背中にしがみついた。
やがて、魂まで満たされるような重厚な愛の余韻の中、アズールは満足げに、そして子供のように安心して、わたしの胸に顔を埋めたまま深い眠りに落ちた。
その安らかな寝息を聞きながら、わたしは彼の髪を優しく梳く。
愛おしい。
本当に、愛おしい月。
けれど。
「おやすみ、アズール」
わたしはそっと、彼の腕の中から抜け出した。
眠る彼の額にキスを落とし、わたしは静かに服を身につけ、乱れた髪を整える。
時計を見る。まだ夜は長い。
——さて。
わたしは鏡に映る自分の顔を見て、ニヤリと唇を吊り上げた。
そこにいるのは、記憶を失い、過去に怯える女ではない。
二人の男を手のひらの上で転がし、そのすべてを貪ろうとする、強欲な『遺跡喰らい』の笑顔。
廊下の空気は冷たかった。
わたしは音もなくアズールの部屋を出ると、廊下の突き当たりにある、もう一つの扉の前へと足を進めた。
扉の前で、一瞬だけ足を止める。
中から漏れ出る、ピリピリとした殺気。
猛獣が、檻の中で飢えている気配。
わたしはノックもせず、その扉を開け放った。
「……」
部屋の中は薄暗かった。
窓辺の椅子に、巨大な影が座り込んでいる。
テーブルの下には、空になった酒瓶が数本転がっていた。
ブレイズは、月明かりを背にして、グラスを傾けていた。
わたしが入ってきたことに気づいても、彼は振り返らない。
ただ、グラスを持つ手に込められた力が、ガラスを砕かんばかりに強いことだけが見て取れた。
「……何の用だ」
低く、地を這うような声。
怒り。嫉妬。そして、それ以上に深い孤独。
わたしは答えず、静かに扉の鍵を閉めた。
カチャリ、という硬質な金属音が、張り詰めた静寂に響く。
わたしはゆっくりと、不機嫌な背中へと歩み寄った。
そして、背後からその太い首に腕を回し、彼の耳元に唇を寄せた。
「……今夜は、少し冷えるわね」
わたしの言葉に、ブレイズが持っていたグラスにピキリと亀裂が走る音がした。
彼は鼻で笑った。自嘲と、苛立ちを隠そうともしない、荒々しい呼気。
「冷えるだと?……白々しいこと言ってんじゃねえよ」
彼はグラスをテーブルに叩きつけるように置くと、憎々しげに吐き捨てた。
「あいつの腕の中は、さぞかし暖かかっただろうがよ」
皮肉たっぷりの言葉。
「そんなことない」とでも言ってほしいのかしら?
残念ね、ライオンさん。
わたしは、そんな可愛い女じゃないのよ。
わたしは彼の首筋に顔を埋め、妖艶に口角を吊り上げた。
「ええ。……とっても、暖かかったわ」




