プロローグ
インクの匂いが好きだ。
特に雨の日に、羊皮紙のちょっと獣臭い香りと混ざり合うと、脳の奥が痺れるように冴え渡る。
……ここは、帝国の公式記録とは解釈が異なるわね。
わたしは唇の端を吊り上げ、ペン先をインク壺に浸す。
注釈をつけて、解釈の根拠を丁寧にそえる。
一般人には無意味な模様にしか見えないその線の上に、わたしの知識という名の「意味」を乗せていく。
カリカリ、カリカリ……。
羽ペンが紙を走る音が、心地よいリズムを刻み、夜の静寂を支配している。
ルーン文字、力ある言葉。
神代の次代からこの世に存在する、しかし今は誰も正確な意味を知らないこの文字の意味が、わたしには分かる。
でも、それが何故なのかは分からない。
わたしにはここ1年ほどの記憶しかないのだから。
遺跡の壁のあちこちに書かれた、ルーンの羅列。
無秩序に見える配置に隠された、魔力の奔流が。
かつてこの施設を使っていた人たちの想いが。
わたしの指先を通して現代に蘇る。
これだから、この仕事は辞められない。
あと少し。この区画の注釈さえ終われば――。
「……眉間」
背後から、腕の生えた湯たんぽがのしかかってきた。
わたしの肩に顎を乗せ、背中から覆いかぶさるように拘束したのは、たてがみのような金髪の巨躯――ブレイズだ。
彼が耳元で低い吐息を漏らすたび、部屋の温度がじわりと上がり、わたしの思考を甘く鈍らせる。
「皺が寄ってるぞ。……あと、インク臭ぇ」
「なら離れてちょうだい。重いし暑いし。それに文字が歪むわ」
「知るかよ。紙の世話より、俺の世話の方が大事だろ」
「あらあら、価値観の違いってヤツね。解散の危機かしら」
「チッ」と舌打ちをしつつも、腰に回された腕には力がこもる。
魔物の顎すら引き裂く剛腕が、今は壊れ物を扱うように、けれど絶対に逃がさないという意志を込めてわたしを捕らえていた。
「離れなさい、駄犬。ミリアさんの仕事の邪魔です」
部屋の空気が、一瞬で数度下がる。
その分湯たんぽの熱が心地よく感じるのが、ちょっと悔しい。
湯気の立つティーポットを持ったアズールが、音もなく視界の端に現れる。
「カモミールとラベンダーのブレンドです、ミリアさん。そこの獣臭い布団を取り払ってから、ゆっくり召し上がってください」
「誰が寝具だ、誰が。……ま、俺に包まれて寝るって意味じゃ間違ってねえがな」
ブレイズが喉の奥で低く唸り、アズールは氷のような微笑で受けて立つ。
互いが互いを「排除すべき障害」として認識している。
熱波と冷気が衝突し、竜巻が起こりそうだ。
その中心がわたしの仕事机なのは、毎度のことながら勘弁してほしい。
——まったく、この兄弟は。
わたしは小さく息を吐くと、愛用のペンを置いた。
コト、という硬質な音が、張り詰めた空気を裂く。
椅子を回転させ、わたしを巡って睨み合う二頭の獣を見上げた。
「二人とも」
弾かれたように、二対の瞳がわたしを捉える。
先ほどまでの殺気が嘘のように、そこにはわたしだけを映す、甘く、重く、そしてどこか飢えた色が宿っていた。
「仕事はあと少しで終わるの。だから……」
わたしは両手を伸ばし、それぞれの首を引き寄せると、二人の頬に交互に唇を寄せた。
チュ、とあえて水音を立てて。
さらにブレイズのカサついた頬には、離れ際にペロリと舌を押し当て。
アズールのキメ細かな頬には、はあ、と吐息を残す。
「……足りねえな」
ブレイズが不満げに、けれど口元を緩ませてわたしの拘束を少しだけ緩める。
「こんな子供騙しで誤魔化されるかよ。……終わったら、覚悟しとけ」
「…………」
アズールは無言のまま、熱を帯びた指先でわたしの髪を梳いた。その潤んだ瞳は雄弁に「逃がしませんよ」と語っている。
「ええ、分かったわ。だから、いい子で待っていて?」
わたしが微笑むと、二人は渋々といった様子で身を引いた。
それぞれの定位置――わたしの視界の端と、背後のベッドへ。
二人のねっとりとした視線を二方向から感じながら、わたしは再びデスクに向き直る。
心臓の鼓動が、急かすように少しだけ早くなっていた。
——さあ、仕事を終わらせないと。
夜はまだ長い。
地図の作成が終わったら、次はわたしの可愛い騎士たちへの「お夜食」の準備があるのだから。




