第3話 最初の小さな結果
森の中の獣道は、思ったよりも長く続いていた。
日は既に傾き始め、木々の隙間から差し込む光も弱々しくなっている。
「そろそろ日が暮れるな……。どこか休めるところ、ないかな……」
さすがに野宿は避けたい。
革袋の中身は心許ないが、せめて屋根のある場所で眠りたいものだ。
そんなことを考えていた時、ふと、森の空気が変わったのを感じた。
木々の密度が薄くなり、前方から微かに人の気配と、食べ物の匂いが漂ってくる。
「ん……? この先に何かあるのか?」
期待を込めて足早に進むと、やがて視界が開け、森を抜けた先に古びた建物が見えてきた。
街道から少し奥まった場所に立つ、小さな休憩所といったところだろうか。
建物は古く、壁には蔦が絡まり、屋根も一部が傷んでいる。
看板らしきものも、文字が掠れてほとんど読めない。
お世辞にも繁盛しているようには見えなかったが、今の俺にとってはありがたい存在だ。
「すみませーん」
俺は声をかけながら、休憩所の扉を開けた。
中は薄暗く、客の姿はない。
カウンターの奥に、人の良さそうな初老の男性が一人、難しい顔をして座っていた。
彼がここの主人のようだ。
「いらっしゃい……と言いたいところなんだがね。すまないね、旅の方。今、ちょっと手が離せなくて」
主人は困ったように眉を下げた。
「何かお困りですか?」
「いや、大したことじゃないんだが……井戸の水がどうも濁っちまってね。飲み水にも料理にも使えなくて困っていたところさ」
主人はカウンターの上に置かれた水差しを指差した。
中には、確かに白っぽく濁った水が入っている。
「あらら……それは大変ですね」
「ああ。こんな時間にすまないが、今日はもう店じまいかなと思ってたところだ。食事も出せないし、泊める部屋もない。申し訳ないが、他の場所を当たってくれないか」
「そうですか……わかりました」
当てが外れて少しがっかりしたが、仕方ない。
別の場所を探すしかないか。
俺はカウンターに近づき、濁った水差しをなんとなく手に取った。
「うーん、確かに結構濁ってますね。何か変なものでも混じったんでしょうか?」
水差しを軽く揺らす。
中の水がちゃぷちゃぷと音を立てた。
特別なことは何もしていない。
ただ、水が早く綺麗になればいいな、と思っただけだ。
すると、どうだろう。
水差しの中の水が、まるで魔法のように、みるみるうちに透明になっていくではないか。
さっきまでの白い濁りが嘘のように消え、透き通った綺麗な水に変わった。
「あれ?」
俺は思わず声を上げた。
主人も、信じられないものを見るような目で、水差しを凝視している。
「……お、おい、旅の方。今、何かしたのか?」
主人の声が僅かに震えている。
「え? いや、何も……ただ、ちょっと持ってみただけですけど」
俺は首を傾げた。
また、あの現象か。
でも、今回は特に何かを『思った』わけでもないのに。
ただ、水が綺麗になればいいな、と考えただけだ。
「何もしてないって……だって、水が……澄んでるじゃないか!」
主人はカウンターから身を乗り出し、俺の手から水差しをひったくるように取ると、中の水をまじまじと見つめた。
「信じられん……さっきまであんなに濁っていたのに……まるで汲みたてのようだ……」
主人は恐る恐る指で水を掬い、匂いを嗅ぎ、そして少量口に含んだ。
「……うまい! いつものうちの井戸水だ! なんともない!」
主人は興奮した様子で俺を見た。
「あんた、一体何者なんだ? 魔法使いか何かか?」
「いえいえ、俺はただの通りすがりの……しがない冒険者ですよ。魔法なんて使えません」
俺は慌てて手を振った。
「本当に、何もしてないんです。偶然ですよ、きっと。タイミングが良かっただけじゃないですか?」
「偶然……? こんな偶然があるものか……」
主人はまだ半信半疑といった様子だったが、濁り水が綺麗になったのは事実だ。
彼は深く息を吐き、そして俺に向かって頭を下げた。
「いや……偶然だろうが何だろうが、助かったよ。本当にありがとう。これでなんとか今夜の仕込みができる」
「いえ、俺は何も……」
「まあ、そう言うな。困っていたのは事実なんだ。そうだ、腹は減ってるかい? 大したものは出せんが、簡単なものなら作れるぞ。礼代わりだ、食っていきなさい」
主人はそう言うと、先ほどまでの困り顔とは打って変わって、明るい笑顔を見せた。
「え、いいんですか?」
「もちろんだとも。それに……そうだ、薪も足りなくて困ってたんだった。火を起こさないことには料理もできんしな」
主人は店の隅に積まれた薪を指差した。
どれも湿気っているのか、火がつきにくそうなものばかりだ。
「薪ですか……」
俺は薪の山に近づいた。
確かに、どれも湿っぽい感じがする。
これじゃあ、なかなか火がつかないだろうな。
乾いた薪があればいいのに……と、無意識に考えた。
すると、薪の山の一番上に、他とは明らかに違う、からりと乾いて軽そうな薪が数本、いつの間にか現れていた。
「……あれ?」
俺はその乾いた薪を手に取った。
軽い。
叩くと、コンコンと乾いた良い音がする。
「この薪……すごく乾いてますよ。これならすぐ火がつきそうですけど」
俺がそう言って薪を主人に見せると、主人はまた目を丸くした。
「なんだって? そんな乾いた薪、うちにはなかったはずだが……おかしいな、どこから……」
主人は首を捻っている。
俺も、なぜここに乾いた薪があるのかさっぱりわからない。
「……ま、まあ、なんでもいいか! これだけ乾いてりゃ、すぐに火も起こせるだろう。旅の方、あんたは本当に『運』が良いみたいだな!」
主人は細かいことは気にしないことにしたのか、にぱっと笑って乾いた薪を受け取った。
「さあ、こっちへ来て座りなさい。すぐに温かいスープでも作ってやるから」
促されるまま、俺はカウンター席に腰を下ろした。
主人は手際よく乾いた薪で火を起こし、鍋を火にかける。
すぐに、野菜のいい匂いが漂ってきた。
「それにしても、不思議なこともあるもんだな。水が急に澄んだり、乾いた薪が見つかったり。あんたが来てから、良いことばかりだ」
主人は感心したように言った。
「はは……そう言われると、なんだか照れますね。本当に、ただ運が良かっただけですよ」
俺は曖昧に笑って誤魔化した。
濁った水が澄んだのも、乾いた薪が現れたのも、おそらく俺の無自覚な力が作用した結果なのだろう。
でも、それを説明することはできないし、俺自身、なぜそんなことが起こるのかわかっていない。
だから、これは全部『偶然』で『幸運』だったということにしておくのが一番だ。
(俺って、もしかして結構ツイてるのかもな? パーティ追放されたのは最悪だったけど、こういうラッキーがあるなら、一人でもなんとかなる……かも?)
そんなことを考えながら、俺は主人が作ってくれた温かいスープを待つのだった。
この小さな休憩所での出来事が、これから始まる俺の新しい人生の、ほんの始まりに過ぎないことを、この時の俺はまだ想像もしていなかった。