偽装交際術
去年の春、九州の田舎から上京してきたT大の2年生、青山愛はメゾン駒場という安アパートで二年目の春を迎えようとしていた。メゾン駒場は女子学生専用の小さなアパートだが、内装が清潔で、一人住まいの女の子でも安心できる空間として、理想的な下宿先だった。
愛は高校の時には、大学での専門を文学部とだけ決めていて、何語を第1外国語とする科にするかを決めかねていたのだが、仏文と露文で迷って、最終的にはラスコーリニコフとアンナ・カレーニナのほうがジュリアン・ソレルとボヴァリー夫人よりも幾分好きであるというまっとうな(?)理由で、露文に決めた。実は裏にはロシア語のほうが競争相手が少ないだろうという打算があったことも決して小さなことではなかったのだが。
ところで、二年生ともなると、一般教養ばかりでなく、専門科目の講義やゼミも受講する必要が出てくる。愛は比較的優秀で熱心な学生であったので、時間を作っては、ロシア文学の時間の合間にフランス文学の講義やゼミにも顔を出していた。
そこで特に気に入っていたのが、大野という若い30代の准教授の『赤と黒』についての講義だった。その世界では今や知らぬ人はいないというくらいの若手の秀才であるらしいが、確かにその授業は長大な作品を縦にも横にも、ミクロにもマクロにも、聖にも俗にも、華やかに分析して見せて、そのつど作品の新たな一面を垣間見せてくれるという意味で、大変内容の濃い講義だった。愛はこの准教授に感服して、やっぱり仏文にしておけばよかったかな、と真剣に考えたほどだった。
それに対して露文は、教師も学生も、講義の内容も、みな地味だった。重厚長大といった表現がふさわしいような、社会文化史的、あるいは言語学的な理論分析が主流だった。誰も今時の離れ業・小技を使うテクニシャンがいない。決してレベルが低いのではなく、蓄積された膨大な知識が元になっていることが分かり、勉強にはなるのだが、目を奪われるような華やかさがないので、ついつい眠気を及ぼしてしまう。生徒の顔もぼんやりし、全体的に鈍重な印象があった。
服装についてはもっと学科ごとに差が出た。露文の生徒は独文よりは幾分ましだが、全体の地味さ加減は仏文はもちろん、英文にも劣っていた。そのせいで、新入生が寄り付かないのかもしれない。愛はそんないけていない露文の鈍重な生徒たち、華やかで美しい仏文の男女たちのどちらにも親近感を抱いていた。
そうした二面性のある愛は、立場上も表と裏の顔を持っていた。表の顔である女子大生青山愛は、裏の世界ではコードネームをローズマリーという駆け出しの探偵だった。
何でそんな信じられないことになったのか。話は早い。メゾン駒場の管理人の恵比寿鶴之助という老人が愛をさる人物に紹介したからだった。
実は鶴之助は歌舞伎町で幅を利かせている、やり手の占い師というもう一つの顔を持っていた。当然裏の世界にも詳しい。そして、愛がメゾン駒場に入居してきたときに、すぐに目をつけて、彼女を友人の探偵事務所の所長の目黒亀次郎氏に紹介したのだった。愛は元々推理小説の愛好家だったし、目端の利く頭の回転の速い子だったので、すぐに亀次郎に気に入られてしまった。そして、半年間の見習い期間を終えた今では、すでに何件かの案件を単独で任されるまでに成長していた。
そんなある日、ボスの亀次郎が愛に言った。
「今度はかなり難物だぞ」
「任せてください」愛は胸を張って答えた。亀次郎はマールボロの吸い指しを右手の人差し指と中指の間で転がしながら、抜け間のない目つきで愛に言う。
「よし、いいだろう。今回のターゲットは野島秀樹、35歳、若手の画家だ。南青山の高級マンションに居住している。今日はその画家がとある銀座の画廊に姿を見せるらしいので、見張っていてほしい。そして、どんな行動を見せるか、逐一報告してくれ」
「どんな点に注意したらよいのですか?」愛はすぐに尋ねた。
「野島はさる金満家の御曹司なのだが、変わった人間で、画業に専念するために、家を継がないといっているらしい。今回の依頼者は彼の婚約者サイドなのだが、それで困っているのだそうだ。それと、彼がどうもゲイであるという疑惑があるらしく、その点を中心に探ってほしいとのことだ」
「つまり、野島の性的素行を探ればいいわけですね」
「まあ、そうだ。とにかく芸術家にありがちな、変った人間らしいので、そうした点を鑑みながら追ってほしい」
「分かりました」愛は打てば響く鐘といった具合に返事をした。
「よし。それでその野島という男は、常に黒眼鏡とマスク、帽子で顔を隠しているらしいので、見ればすぐ分かるだろう。よろしく頼むぞ」
「はい。それでは今からすぐに行って来ます」
「よし、任せた。すぐに行ってくれ」亀次郎はいい終わるやいなや、愛に背を向けて、デスクに向かって猛烈な勢いで書類を書き始めた。
愛はそのまま銀座に向かった。西新宿から丸の内線で一本だった。20分とかからなかった。画廊もすぐに見つかった。徒歩で10分以内の分かりやすい場所にあった。思ったよりこじんまりとした建物で、野島の個展「サンクチュアリ」が開かれていた。
愛は画廊に足を踏み入れて周囲を見渡したが、まだ怪しいサングラスの男は姿を現していない。愛は暇つぶしに出品されている作品を見て回った。
すぐに気づいたのは、すべての作品が少年の裸体画だということだった。年齢はおそらく13から15歳程度、色の白いギリシャ彫刻のような均整の取れた体つきと端正な顔立ちをしていた。ただし、絵の全体の印象は、ボッシュやシュルレアリスムを思わせる、不可思議な感じで、裸体の少年は時計や鳩や頭蓋骨といった奇妙なオブジェと一緒に、一種の退廃的なムードを醸し出していた。
一目見て、愛は自分の好みに合わないな、と思った。作者がゲイだということが大いにありえる話だとも思った。何しろ12枚の大小に渡る作品がすべて美少年の、しかも裸体画なのだ。愛はすぐに三島由紀夫や三輪明宏を思い出した。そして、そういう特殊な世界の産物に他ならない、自分とは縁遠い種の作品群だと思った。
愛はまだ時間があったので、ただ一人黙然と座っている、受付嬢に質問した。
「何気なく入ってみたんですけど、不思議な作風ですね。すべてが少年の裸体画とは、ちょっとデカダンにすぎるのではないでしょうか?」
非常にシャイな感じのその黒服の受付嬢は伏せ目がちに言った。
「いいえ、そのようなことはないと思います。むしろ清潔感・透明感にあふれる作風だといわれていますし、一部のマニアの間では天才と囁かれている若手の作者の作品なんです。あなたは大変運のよい方ですね。もうじき作者御本人が現れますよ」
「何という画家ですか?」
「本名ではありませんが、野島秀樹と名乗る画家です」
「本名というのは?」
「非公表ですが、噂ではかなりの名家の出身だそうです」
「そうですか。何か本名を明かすと具合が悪いことでもあるんでしょうか?」
「何しろこういう作風ですからね。そのままでは実家に迷惑がかかるとでも思っているんでしょう。それに謎めいたところがあるのも、芸術家としては大切なことですから」
「そうですか」
愛はこの情報に満足した。どうやらターゲットに間違いはなさそうだった。愛はそのまま受付嬢とたわいもない話を続けながら、当の本人が現れるのを待つことにした。
愛がようやくこの世界になじんで、少々毒気に当てられて麻痺していた体が自由に動かせるようになったころ、受付嬢が嬌声を上げるのを聞いた。
「あ、いらっしゃいました!」
見ると、灰色のフロックコートに灰色の山高帽、そして濃緑色のサングラスに薄い黄色の顔をすっぽりと覆うマスクといった奇妙な風体の男が姿を現したのだった。
愛は得体の知れない相手が現れたことには驚かなかったが、どこかで見かけたことがあるような気がすることに戸惑いを覚え、思い出そうと思ったが、うまくいかなかった。
野島はすぐに受付嬢に軽く挨拶をし、少し増えてきたほかの客を相手に、ぼそぼそと自分の作品の解説を始めた。愛も何気なくその輪に加わった。
「この作品は少年の魂の救済を主題としています。罪を犯した少年は地獄の番人に鞭打たれていますが、魂はいつも天上を見上げています。そんな彼の健気さが実って、彼はついに罪を許され、魂だけは昇天するのです。その昇天した魂の傍らの赤ん坊の天使たちは無垢を、地上に取り残された骸の脇の牛の猛々しい姿は罪深い情欲を表しています。この巨大な牛の猛り狂う性器が罪の根源の象徴なのですが、少年がそれから顔を背けようとしているところに魂と肉体の葛藤と苦悶が表現されているのです。この少年はこうして僕たちと同じように悩み苦しんでいるのですが、最後には救われるという意味で、人類の勇気と希望につながるオプティミスティックな考え方の一端を表しているのです。そういうことなので、時々誤解される方もいらっしゃるのですが、僕の作品は決して変態的な性欲を煽り立てることを目的とするような、いかがわしい表現ではありませんので、ご理解いただきたいと思っています」
このような宗教的な含みも持つ、非日常的な言語を駆使して、野島はぼそぼそと、しかし熱意を持って、客を説得しようとしていた。
愛はそんな野島の姿を見て思った。変人ではあるが、変態ではないらしい。少なくとも自分ではそう思っているようだと確信した。そして、芸術を愛している画家として、芯を感じた。画家として一本でやっていくためには、家のごたごたに巻き込まれることはマイナスが多すぎるのかもしれない。もちろん私なら、喜んでその立場を代わってやるのだが。そう思った。
後は辛抱強く男の行動を見張っていた。野島は2時間程度、その画廊でそうした解説を飽くことなく続けた後、受付嬢の女の子に挨拶して、画廊を後にした。愛も慌てて男の後姿を追った。
男はまず、銀座から日比谷公園へと歩いて移動した。日比谷公園の噴水の目の前のベンチで、ごそごそと懐から取り出したのは、コンビニのサンドイッチと缶コーヒーだった。彼はやにわにサンドイッチにかぶりつき、そして缶コーヒーをゴクゴクと飲み干した。そして、気持ちよさげにウーンと伸びをし、しばらく噴水を見つめていた。
鳩が彼の周りに寄ってきた。彼はパンの残りくずをほおってやり、手をパンパンとフロックコートの腰の辺りではたいた後、立ち上がって歩き出した。
愛はすぐに後を付け始めたが、男が向かったのはシャンテ・シネだった。男はこの独特の個性のあるので有名な映画館に着くやいなや、おもむろに財布を取り出して、チケットを1枚購入し、建物の地下に消えていった。
愛は慌てて自分もチケットを買い、男を追った。
映画は巨匠ミケランジェロ・アントニオーニ監督、ソフィー・マルソーほか出演の独仏伊共同制作による『愛のめぐりあい』という作品だった。大人の恋愛映画で、相当露骨な性描写もあるので、愛はまた少し当てられてしまったが、3列ほど前に座っている男はまるで動じていないように見えた。愛は男が相当のインテリというか、文化人の香りを発していることに気づいた。これは厄介だなと思った。彼の世界についていけるか不安になったからであった。
映画がはねるともう夕方の6時だった。男は日比谷から地下鉄を乗り継いで、新宿で降りた。行き先は歌舞伎町だった。
愛はおかしかった。自分のテリトリーに再び戻ることになったからだ。何しろ愛の探偵事務所は西新宿にあるのだから、ほんの目と鼻の先であった。半日をかけて、また舞い戻ったホームグラウンドは、もうすでに夜の大歓楽街の姿を露にし始めていた。
男はまっすぐ目的地に向かうことなく、ぶらぶらと余所見をしながら、ネオンサインの洪水を楽しんでいるように見える。
ただ、そうかと思って油断していたら、ふと姿が見えなくなった。
慌てて愛が周囲を見渡すと、非常に地味なバーの看板の下に男が吸い込まれてゆくのが見えた。「写楽」という看板だった。
愛もそのまま「写楽」に入った。すると、男はど真ん中のカウンターにどっかりと腰を下ろしていた。馴染みの店らしい。
「お客さま、ご注文は?」
愛がはっとすると、女装をした若い男が愛に水の入ったコップを差し出していた。
「あの、ここゲイ・バーなんですか?」
「ええ、まあ。でも、女の子もいるから安心してくださいな。みんなどちらでもOKだから」
「はあ」
愛はちょっと毒気を抜かれた形だったが、とにかく自分がいてもおかしくないことだけ分かってほっとした。とりあえずジン・トニックを頼んでおいた。
それにしても、やっぱり野島はゲイなんだろうか?愛はカウンターで行われている会話に集中して耳を傾けることにした。
「秀ちゃん、ご無沙汰だったわね」度派手な真紫に黄色の蝶の柄の着物を着た、かなり細身で美形のママが男の相手をしている。
「ああ、いろいろ忙しくてね」男の口数は極端に少なかった。
「何にする?」
「バーボンをロックで」
ママはグラスに氷を入れ、酒を並々と注いだ。氷が溶けながらピシピシと音を立てた。
「秀ちゃん、相変わらず親父さんとはうまくいってないの?」
「ああ」
「あんたにはいろいろな才能があるからね。何も無理して不自由なお大尽様になることはないよ。少なくともこのあたしはあんたを応援してるから」
「ああ」
男の色気のない受け答えに、愛想のよいママは苦笑した。
「クールだね。それでこの先どうするつもりなの?」ママはカウンター越しに男の前で頬杖をついた。
「そんな先のことは分からない」男は相変わらず無愛想なことこの上なかった。ママは重ねて訊いた。
「君の瞳に乾杯ってところね」
「そんな洒落た話じゃない」男はにべもなく、ママの微笑をはねつけた。
男はちびちび舐めるようにグラスを手にしている。愛がふと振り返ると、気の弱そうな18・9くらいの女の子が愛にジン・トニックのグラスを差し出していた。
「お待たせしました」
「はあ」
20歳になったばかりであった愛は、手刀を切って、アルコールを押し頂いた。役得だと思って、グビリと胃に流し込むと、後はグイグイと行った。カーッと熱いものが胸にこみ上げてきた愛は、後でボスに経費で落としてくれるように頼もうと考えた。
結局、その後も男ははかばかしい態度を取らなかったので、愛は男が青山のマンションにたどり着く前に後を追うのを止めた。男か女かどうかも分からない、怪しげなママではあったが、ゲイ・バーのママと会話しただけでゲイと決め付けることはできないというのが、愛の客観的な見解だった。個人的には、本人が自分を変態だとまったく思っていないのは確かだったし、愛はなぜかあの男をゲイだと認めたくなかった。何か高尚なものを感じて生きている、一個の芸術家だと思いたかった。特にゲイに対して偏見があるわけではなかったが、愛はなぜかそのように考える自分をごまかすことはできなかった。
翌日、愛は一通りの事実と見解を亀次郎に語った。美少年をモデルとした絵を書き、怪しげなバーに通っているのは事実だが、ホモ・セクシュアルであるかどうかは分からない。愛は思ったままのことを言った。亀次郎は黙ってすべてを聞いた後に言った。
「ふむふむ。そんなところか。相手方には適当に言っておくしかないかな」
「すみません。機会があれば、いつかきっと野島の正体を暴いて見せるのですが」
「まあまあ。微妙な話だから、難しいだろうね。次は頼む、とだけ言っておこう」亀次郎は愛に背を向けて腕組みしながら、しばらく考え込むように一人黙然と壁のしみを見つめていた。
☆ ☆ ☆
大学のほうもいよいよ冬学期が始まった。文学部の2年生である愛は、もちろん読書が大好きなのだが、書くほうにも興味があったので、今度は演習の授業を取ることにした。それは、彼女の受講のもう一つの理由である大野准教授が開講する、文章術のゼミであった。
大野氏は言う。
「始めから何かすごいものを書こうなんて大それたことは考えてはいけない。素直な自分をさらけ出すつもりで、しばらく頭は真っ白にして、浮かんできたイメージや情景をできる限り大切にしながら、一言一言に念を込めるようにして、文章化していく。最初はジャンプの前の助走だと思って、思い切りためるんだ。そして一挙に爆発させたら、後はリズムに乗って、楽しく進めばいい。若い君たちには特に、リズムとかスピードが大切だ。自然な流れを大切にしながらも、時には大胆なフィクションを入れるもよし、歯切れのいい展開を見せることだ。後は自分らしさを追求することかな。無理することはないが、やはり真似だけではいけない。いろんな意見や立場を吸収しながら、豊かな自分の世界を展開していってほしい。最後に、とにかく魂を込めて、とだけ言っておこう。文章を紡ぐこと、それはダンスを踊るのと同じことだ。優雅に美しく、そして大胆に繊細に、あらゆるニュアンスを込めながら、深く広い世界を表現していくことだ。それには果てしのない努力と追求する姿勢とが大切だ。いつまでも満足しないでひたすら自分の世界を深めていけば、たとえどんなレベルであったとしても、その人なりの作品が成立するから、自分を信じて頑張っていきなさい」
こうした熱血指導の下、愛は初めて作品を書いた。原稿用紙で30枚の短編小説だった。タイトルは『ジン・トニック』。主人公は例の変わった画家をモデルにして、その男と女子学生との恋を描いた。
別にそういう展開で無ければならない必然性は無かったが、自然にそういう流れになった。愛は初めて作品と呼べるものを書いてみて、その辺のところが非常に興味深かった。きっと大作家なら、大思想を練り上げて作品化するのだろうが、愛のレベルでは思いつくままに言葉を並べるのが面白い、といった感じだった。一体、作家というのはどういうことを考えながら、文章を書くのだろう、と不思議に思い、自分の作品がどう添削されて返ってくるかが大変楽しみになった。
原稿を提出した翌週、ゼミの最初の時間に早速、大野准教授は朱を入れた原稿を学生たちに返し始めた。ドキドキしながら自分の順番を待っていた愛に、大野氏は特別にコメントをしながら原稿を手渡してくれた。
「君、発想が奇抜だね」
「そうでしょうか?」愛は尊敬する先生に声をかけてもらって、舞い上がりそうになった。
「しかも、非常にリアルだ」大野氏は冗談ごとを言っているのではない、といったキラッと光る目つきで言った。
「まあ、実はモデルがいるので」愛は照れながら返事をした。
「そうなの?こんな変な設定なのに?」大野氏は驚いた顔をして言った。
「はい」愛はそう答えるしかなかった。「いろいろとありまして」
「君、面白い子だね」大野氏は不思議そうな顔つきでコメントした。愛は照れ笑いをしたが、あいにく大野氏はもう次の学生に向かっていて、愛の顔を見ていなかった。愛はほっとしたような、がっかりしたような、微妙な感情に揺さぶられた。その後の授業の間中、相変わらず熱弁を振るっている大野氏の姿を遠目に見ながら、愛は熱に浮かされたようにずっと先ほどの会話の様子を思い返していた。授業がはねると、愛は添削された原稿を鞄に大切にしまいながら、しばらく大野氏のことを考えていた。誰かに似ている、そしてどこかで会ったような気がする、特に声に聞き覚えがある、そう思った。
こうして愛は、最初の作品をきっかけに大野准教授に名前を認識される存在になった。愛はこの幸運を手放すまいと、なおさら励んで毎週作品を書き上げ、ゼミに参加することになった。次々と積極的に発言の機会を求めたりしたこともあって、愛はいつしか大野氏に門下生の一人と認識され、顔と名前が一致する人物になっていた。
それ以降、大野氏はちょくちょくゼミで個人的に愛に声をかけるようになっただけでなく、愛が熱心に執筆に励み、メキメキ上達していく様子に、なおさら好感を抱くようになったようだった。添削の内容も、次第に親しみのこもった、中身の濃いものに変わっていくのだった。
そんなある日、愛は大野氏と偶然学食で一緒になった。二人は初めて授業外で話をすることになったが、大野氏は当たり前のようにCのハンバーグ定食を食べているだけでなく、雰囲気も服装も若くて学生の中に完全に溶け込んでいたので、二人が周囲から浮いてしまうということはまるでなかった。
大野氏は機嫌がよく、文学の最近の潮流や日本経済の先行きなど、いろいろなことを話題にしたが、中でも愛の記憶に残ったのは彼自身の家の話だった。まだ独身の彼は、実は元々明治の華族の流れを汲む一流の家の出身なのだが、親が決めた婚約者と結婚し、家を継ぐことを頭から否定しているのだった。
「だって僕はさ、まだまだ若いし、やりたいことが一杯ある。収入だって今のままで十分あるし、何も家を継がないでもやっていけるんだよ」
「そうですか。私だったら喜んで継ぐと思いますが」愛はやんわりと持論を述べてみた。
「君は見かけによらず、苦労人なのかな」大野氏は一瞬げんなりしたようだったが、その様子が愛にはかなりのボンボンのように見えて、おかしかった。
「私は、まあ普通ですけれど」愛は苦笑をしながら言った。
「そうか。少なくとも僕の婚約者とは大違いだな」
「どんな女性なんですか?」愛は水を向けてみた。
「とてもスタイルがよくて、美人だ。だが、心が貧しい。金と贅沢のことしか考えていないんだ。僕はそういうところが嫌いでね」大野氏は少し顔をしかめながら言った。
「そうですか。やっぱりお金持ちのお嬢さんなんですか?」愛はすぐさま女性週刊誌的なノリで尋ねてみた。
「そりゃそうさ。でも、ちょっと落ち目だし、うちとは比べ物にはならない。だから縁談の話はうちの財産を狙っているとしか思えないんだ。そういうのって、すごく嫌な話じゃないかね」
「そりゃあそうですが」
愛はどこかで聞いたような話だと思ったので、強く印象を受けた。こういった話というのはどこにでも転がっているものなのだろうか、と改めて怪訝に思ったが、とにかく憧れの先生とプライベートで話をしているということに舞い上がって、どれだけ注意深く聴いていても、耳をすり抜けるやいなや、意味不明のただの音声になってしまうのだった。
大野氏は愛の上の空の様子に臆することも無く、次々と話を進めていく。
「そうだ、君に重要な仕事を頼みたい。この際だから言ってしまおう」大野氏は急にまじめな顔になって言った。
「先生、何でしょう」愛も緊張の面持ちで聞く。
「実は今度、その女と見合いをさせられることになっているのだが、君に僕と一緒になって、その話を破談にする手伝いをしてもらいたいのだ」大野氏は辺りを見回しながら、声のトーンを落として説明した。
「どういうことですか?」愛は恐る恐る訊いてみた。
「要するに僕の恋人役を演じてもらいたいということだ」
「え、この私がですか?」愛は耳を疑った。
「そう。君なら構わないだろう?」大野氏は茶目っ気たっぷりに瞬きしながら言った。
「だって、先生、若すぎますよ」愛は慌てて否定した。
「そうかなあ。僕だってまだ30代前半だよ。二十歳の君とそう不釣合いだとは思わないが」
「ええ、でも、そんな大役を。どうして私なんですか?」
「君の最初の作品を読んでピンと来たんだ。君なら、僕の立場を理解してくれるとね」
「それで先生は私に声をかけたんですか?」
「最初はそういうことではなかったつもりだが、今考えてみると、そういうところも少しはあったかなと思う」大野氏は少し照れた面持ちで告白した。「だから、君でないと駄目なんだ」
「はあ」
愛は半信半疑だったが、尊敬する大野先生のたっての頼みごとを断ることは難しかった。とりあえず、話だけは聞いてみようと、いろいろと質問をしたら、大野氏は当日どう行動すべきかを念入りに説明してくれた。
大した内容ではなかった(要するにその場にいればよかったのだ)ので、愛は思い切って引き受けることにした。大野先生に個人的に近づきになる絶好のチャンスでもあったし、登るべき山が目の前にあるなら、登らずにはいない。それが愛のポリシーでもあった。
「分かりました、先生。何とかなると思います」
「ありがとう。うまくいったら、必ず御礼はするから」
「はい」
そして、愛はその日までの日数をドキドキしながら指折り数えることになった。
いよいよ見合いの当日になった。愛は待ち合わせの原宿の駅で、30分以上も前から大野氏を待っていた。今日の愛は、モスグリーンの花柄のワンピースにベージュのボレロという、すこぶるフェミニンな格好だった。普段のGパンにGジャンというラフな格好とはだいぶ違っていた。もちろん、今日は一張羅での最大限のオメカシである。それでも、いいところのお嬢様である相手の女に負けないだけの身なりはしておきたかったのに、所詮本物の金持ちにかなうはずはなく、とにかく中身で勝負しようと思って、興奮していた。
約束の時間から遅れること10分、午前9時10分に大野氏が姿を現した。
「ごめん、ごめん。待たせちゃったね」大野氏は悪びれずに言う。今日の大野氏は黒いタートルネックのネルシャツに薄紫色のジャケットスーツというお洒落な格好をしていた。愛は一目見るなり、男の色気というものに当てられたのだった。
「いいえ、そんなのどうってことありません。それよりも志麻子さんとは何時の待ち合わせなんですか?」愛はそわそわと、しかし努めて落ち着いた風を装って訊いた。
「10時だよ」大野氏は愛とは対照的にまるきりあっけらかんとしている。
「まだ間がありますね」愛は気持ちを慌てて切り替えた。
「しばらくお茶でもしようか」先生も乗ってくる。
二人は表参道に面したビルの2階のカフェ「ジョルジュ・サンド」でモーニングコーヒーを啜った。
「先生は自活をなさっているんですよね」愛は慎重に会話の糸口を探った
「そうだよ。大学の給料だけでなく、印税収入も結構あるから、生活には困っていない。全然実家に頼る必要はないんだ。おまけに自由だし」大野氏は普段より開けっぴろげに受け答えしてくれる。愛は自分の話も聞いてもらうことにした。
「先生みたいに自由な生き方は憧れです。私はずっと普通のサラリーマン家庭で育ってきましたから」
「苦労したのかな。僕にはよく分からない感覚なのだが」大野氏は頭を掻きながら言う。
「3人も子供がいるので、両親は結構苦労したみたいです。でも、3人とも女の子だったから、何とかなったとか。男の子がいれば、手もかかったでしょうし、いろいろ将来のことも考えなければならないし」愛はやんわりと大野氏の不安を取り除いてやった。
「君は女兄弟の中で育ったのか。何番目なの?」今度は大野氏のほうから食い付いてくる。
「これでも一応長女です」愛は少々照れながら申告した。
「それでしっかりしているんだな。やっぱりと思ったよ」
「そうでもないですよ」愛は自然と笑みがこぼれてくるのを、抑えることはできなかった。「先生にはご兄弟はいらっしゃらないのですか?」
「ああ。弟と妹が一人ずついる。君のところと同じ3人兄弟だが、弟とは年子でね、よく喧嘩をして主導権争いをしたものだよ。妹は逆に年が離れすぎていて、あまりコンタクトはなかったな。一人で育ったような済ました顔をして、今は一般企業でOLをしているよ。君のところはみんな何をしているの?」
「まだ、高校1年生と小学4年生です。将来の夢は薬剤師と画家だそうです。私よりずっとしっかりしているんですよ、二人とも。でも、みんな仲はいいんです。それだけが私の家庭で誇れるところかな」
「ふうん。なんかいい感じだね。女兄弟ってのは、よく仲がいいと聞くが、本当のようだね。僕にはうらやましい世界だ。男同士って言うのは、やっぱりまったく違うものだから」
「そうですかねえ。先生のように立派なご家庭で育てば、何も不自由などないようにしか思えませんが」
「そんなことない。結構格式ばって、面倒なことも多いんだ」
「なるほど」
あっという間に時が過ぎて、これだけの会話を終えた頃には、もう時刻が9時45分を回っていた。
「おっ、そろそろ時間だね。行こうか」大野氏が勘定を持って先に立ち上がった。
「はい」愛は時間が飛ぶように経ってしまったのを、半ば惜しみながら、ゆっくりと席を立って、男の後を追った。
二人はそのまま表参道を下り、明治通りとの交差点まで足を伸ばしてラフォーレ原宿の前で10時になるのを待った。
ちょうど10時になった時だった。10メートルほど前方に急に1台のリムジンが現れ、中から飛び出してきた白手袋の運転手が後部座席のドアを静かに開けると、あでやかなコサージュをあしらった、パッと輝くような真っ白なスーツを着こなした美しい20代後半の女性が姿を見せた。髪をダンスの選手のようにまとめてアップにしており、カツカツと10センチはありそうなハイヒールで勢いよく歩いてくる様は、いかにもはきはきとした、気の強い女性であることを証明しているように見えた。
「あら、隆さん。珍しい。今日はお早いことね」女性は愛たちに近づくやいなや、早くも上から目線で、大野氏にぞんざいな調子で話しかけた。
「あんたはいつも時間に正確だからな。僕が早いので驚いているっていうわけか。失敬だね」大野氏はむっとした声で言った。
「そのとおり。あなたが時間に正確だったことなんてなかったもの。でも、いい傾向ね。それだけ二人の出会いを大切にしてくれているってことなんでしょうから。それじゃ、二人の幸先を祈って、明治神宮にお参りでもしましょうか」
まるで愛のことなど眼中に入らないように、高飛車なつんと澄ました態度で、桂志麻子は一方的に大野氏を誘った。
「そんなつもりはないよ。それより大事な話があるんだ」大野氏はきっぱりと言ってのけた。
「あら、何ですの?」女はきょとんと意外という顔をした。
大野氏は一呼吸を置いてから、はっきりと次の言葉を発音した。
「実は僕に好きな子ができたんだ。とてもいい子だ。できればその子と結婚したいと考えている」彼は女の顔をしっかと見据えた。
「一体どういうことかしら。私にはちっとも状況が理解できないのだけれど」女はいらいらした口調で言った。
「それなら言おう。君との縁談は親たちが決めた政略結婚だ。僕は結婚というものをもっと重大に考えている。親に任せておくつもりはない。結婚するなら、自分が本当に愛している相手としたい。そして、この子がその僕のガールフレンドの愛ちゃんだ」
大野氏は傍らにぼんやりと立っていた愛の肩を抱いて、志麻子の前にぐっと押し出した。愛は驚いたが、努めて落ち着いた声で言った。
「私、青山愛と申します。大野先生の教え子ですが、先生のことが大好きです。結婚するかどうかは分かりませんが、私はあなたと先生のことは認めません。先生が気の毒すぎますから。そして、先生と正式にお付き合いさせてもらいたいと考えているんです」
女は大野氏のほうを見ながらフンと鼻を鳴らして言った。
「冗談も休み休み言って。こんな小娘にこの私が負けるわけはないでしょう。私はこれでもミス・ジャパンに入賞した女なのよ。家柄も容姿も私にかなう女性なんて、そうそうはいないんですからね」
愛も負けずに言う。「それはそうかもしれませんが、あまり謙虚な方ではないようですね。品格は感じられません」
「馬鹿ね。そういうところも含めての入賞だったに決まっているでしょう。私に品格がないなんて言わせないわ」女は端から愛を馬鹿に仕切った口調で言った。
「それはそうだとしても、心が感じられないわ。冷たい人間ね」愛も売り言葉に買い言葉で、きつい台詞を返した。
「何を言うの。私は別に政略結婚をしようとしているのではなくて、本当にこの人が好きだから結婚したい、それだけなのよ」女は悔しそうに少し目を潤ませながら、男のほうを見つめた。
「君には悪いが、とにかく僕はこの子が好きなんだ。君とは最初から縁がなかったと思ってくれ」大野氏は少し気の毒そうな表情で志麻子に言った。
「こんなどこにでもいるような青臭い子のどこがいいの?」志麻子はなおも涙目で食いついてくる。
「アートを理解し、創造する個性を持っている。自由な人間だ。あんたのように、上げ膳据え膳の世界で暮らしてきた、非力なお嬢さんとは根本的に違うんだ。中身の問題だよ」大野氏は手厳しく言った。
「私たちの身分だったら、雑事なんて周りに任せればいいのだから、なおのこと自由だと思いますけれど」女は必死に食い下がる。
「僕は自分で飯を作ったり、洗濯したり、掃除をしたりする生活が好きなんだ。そして、自分で好きなときに創造的行動をとる。自由な生活とはそういうものだと思うね。決して財力で得られるものではない」
「でも、あなたみたいな身分の人がそれをすることは、おかしなことなのよ。分からないの?」女は男心をくすぐるような誘惑の眼差しで男の顔を見つめるが、男は聞かない。
「一度きりの人生だ。僕は好きなように生きていきたい。それには君と一緒に歩いていく時間は予定されていない」大野氏はこれでもかとでも言うように、言い切った。
「ひどいわ。私にはあなたのいない人生なんて考えられないのに。仕方がないわね。あなたのお父様とお母様にどちらが正しいのか、はっきりさせてもらいましょう」女はついに切り札を出してきた。
「僕は弟にすべてを任せるつもりだから、両親ではなく弟と話しをすればいいんだ。大体僕たち二人の間の話に家族を巻き込むのはおかしいとは思うがね」
「弟さんでは駄目なの。私はあなたがいいの」女は最後の力を振り絞って言った。
「分かっていないんだな、僕のことも自分のことも。君は僕の自由さが好きなのだろうが、でも、そんな暮らしに我慢はできない。矛盾しているんだ。だから最初から破綻している。諦めるしかないんだよ」男は極めて冷静な判断を下した。これで勝負はついたも同然だった。
「絶対にいやよ」叫ぶ女を男は無理やりリムジンに乗せ、「家まで連れて帰ってやってくれ」と運転士に言って、ドアを閉めた。リムジンはすーっとすべるように発車し、志麻子を乗せたまま、去っていった。
「でも、可哀想な人ですよね。本当に先生のことが好きそうだったもの。しかも、きれいで大人で」後に残された愛は志麻子をフォローをするようなことを言った。
「何、いいのさ。あれくらいの薬をかがさなければ、ああした女はどんどん調子に乗ってくるから」大野氏は平気な顔で言う。
「先生って、意外にクールなんですね」
「そうだよ。僕はこれでもアーティストだからね」
愛と大野氏は顔を見合わせて苦笑をこらえた。あまりよい後味はしなかったが、一先ず敵を退けたことに、愛は安堵の気持ちを覚えていた。
☆ ☆ ☆
それから1ヶ月ほど経った頃、久しぶりに亀次郎から呼び出しの連絡が来た。
「今度こそあの男の正体を突き止めてくれ。同性愛の傾向があるかどうかという点だけで構わないから」亀次郎は寒そうにストーブに手をやりながらも、背中越しにてきぱきと指令を下した。
「分かりました。それであの男の本名はなんと言うのでしょうか」愛は大いにやる気で、すぐに追及した。
「もちろん、調べればすぐ分かることだが、先方はできる限り穏便にということで名前はあえて伏せておきたいそうだ」亀次郎がゆっくりと一語一語をかみ締めるように言う。
「調査には欠かせない情報だと思うのですが」
「まあ、何とかやってみよう」亀次郎はあえて鷹揚に構える仕草を見せた。要するにお茶を濁したのだ。
「はあ」愛は焦点のぼけた眼鏡を掛けているような気分で、事務所を後にした。
愛はすぐさま男が住んでいる青山の高級マンションに足を伸ばし、男が姿を現すのを待った。昼の1時ごろ、男は例の完全武装の格好で現れた。男の後ろから愛が付いていくと、男は地下鉄で渋谷まで出て、後は井の頭線に乗って下北沢で降りた。
下北沢に下りた男は、水を得た魚のように、あちこちとブラウジングして回る。小さなブティックやら小間物屋やら、まるで女子高生のようなのりで一々物色するのだった。3時ごろになってようやく、場末のカフェに入って、コーヒーをすすりながら、猛烈な勢いでスポーツ紙を読み漁り始めた。そして、後からサンドイッチなども注文して、遅い昼食という風情でつまみ始めた。男はどうも食が細いらしかった。中肉中背ながら、食べるスピードが異様に遅かった。本当にボンボンなのだろうと、愛は推測をつけた。
そのまま1時間半ほど長居をし、野島が新聞と雑誌をあらかた読み終えた頃、5時近くなって、もう一人男が現れた。
「よう、秀ちゃん、待ったかい?」男は痩身で背が高く、ロンゲにフロックコートという奇妙な出で立ちだった。
「待った待った。散々だったな。もう現れないかと思ったよ」
「悪かった。ちと野暮用が長引いてね」
「それは構わないが、今日は折角の演劇鑑賞だ。ゆっくり行こう」
「連れの女の子はどうした?」
「ああ、あの子か。会場で待ち合わせだ。あの子は渋谷のほうが近いからな」
「俺はお邪魔じゃないかい?何か悪い気がするよ」
「そんなこと全然ない。構うものか。ただの弟子だよ」
「でも、お気に入りなんだろう?」
「まあ、それほどでもない。あれくらいならはき捨てるほどいるさ」
「そうか。うらやましい話だな」
「全然興味ないね」
男たちはそのまままた渋谷に出て、6時ごろにモアイ像前でどうみてもまだ15・6歳の制服姿の女子高生と待ち合わせた。少女と言ってもいいその女の子は、いまどき珍しい長い黒髪で、スカートの丈がふくらはぎまでかかるような、お嬢様らしい佇まいの持ち主だった。
「先生、待ったわよ」しかし、少女はため口だった。愛はなんだか気勢を殺がれるような気がした。女の子の外見からすれば、もっと丁寧な口調を期待していたからだ。またそれだけではなく、野島とこの少女との関係がますます分からなくなってしまった。
「そうか。悪かった。でも、今日は楽しみだね。こっちは僕の悪友のYだ。一緒に見ることにした」
「ええ?そうなの。私は先生が一緒に来てくれるというから、喜んできたのに。がっかりだわ」女の子は真剣に悔しがって見せる。
「そうでもないさ」男は明るく言い放った。
「よろしく、真奈美ちゃん。俺のせいじゃないんだ。こいつが俺をどうしてもって誘うから来たんだよ。悪く思わないでね」もう一人の男のほうは、アバンギャルドな見かけによらず、恐縮することしきりだった。
「でも、今日は野田秀樹の13年ぶりの再演だぜ。一人でも目の肥えた観客を増やすことが、俺の勤めだと思うんだよ」男は一人で盛り上がっている。
「まあいいよ。さあ入ろう」とY。
3人は騒々しく会話を続けながら、シアターコクーンへと続くエレベーターに吸い込まれていった。愛はチケットがないので、そのまま外で見ているほかはなかった。ふと演目を書いたポスターを見ると、『真夏の夜の夢』とあった。
「シェイクスピアなのかな?」と思ったが、よく分からなかった。愛は外で待つ間、十分にチラシとポスターで中身を確認した。確かに野田秀樹の作品だった。
9時過ぎに上演は終わった。男二人と女の子の三人が、たくさんの観客にまぎれて劇場から出てくる。野島は顔が隠れて無表情だったが、もう一人の男は見苦しかったロンゲを一くくりにし、明らかに上気した表情の女の子と、ぺちゃくちゃと感想を言い合っていた。
「俺はあの言葉遊びがたまらなかった。あんな勢いでやられると、参っちゃうよな。もう職人芸としか言いようがない」
「うん、確かに人名とか台詞のすべてにおいて言葉遊びが前面に出ていて、言葉を大切にしているイメージはあったけど、あたしはストーリーの入り乱れているところも好きだったな。ほとんどシェークスピアのこてこてな感じがしなかったというか、これがシェイクスピア?っていう、完全なオリジナルな作品になっていたところが見事だと思うし、いきなりメフィストフェレスが出てきたってことは、ファウストも入っているってことだろうけど、パックがいて、メフィストがいて、そぼろとときたまごがヒロインで、場所は割烹料理屋とくる。このハチャメチャだけど、豊かな世界がとても面白かった」
「なるほどね。確か不思議の国のアリスも入っていたっけね。そして、俺が関心させれたのは、ただのハチャメチャとか駄洒落かとしか思えないものが、その積み重ねによって真剣な問題意識に変わっていくのが不思議だったってこと。森が人間のエゴによって燃えて、森も痛むし、戦争のイメージが湧いてくるよね。やっぱり戦争は暴力だってことが自然に浮かび上がってくる仕組みになっている」
「環境問題とかと関わっているのかしら?でも、そう言ってしまうとつまらないわね。とにかく野田ワールドというものが完全にできあがっているところがすごいと思うわ。やっぱりさすがって感じよね。先生のペンネームになるだけあるわ」
そこで野島はボソッと言った。「脚本はいい。でも、配役が今一つだった」
「お前は一番楽しみにしていたくせに、調子が狂うなあ。やっぱりアートに自分で関わっているって奴は、他人への評価が厳しいんだな。俺は第三者として客観的に面白かったと思うが」Yは不満気だった。
「仕方ない、アーティストとしての立場がある以上」
「今日は無礼講と自分でも言っていたじゃないか」Yはなおも自説を曲げない。
「まあな」野島もついに兜を脱いだ。
「まあ、いいじゃない、おじさんたち」女の子が一人で後を締めくくった。「今日は面白いものを見させてもらいました。先生、ありがとう。それだけよ」
「ちぇっ。結局、そうなるのか」Yがぶつぶつ言っていたが、3人はまた渋谷駅に向かっている。
ここまで聞いて、愛は思った。野島には女の子に対する独占欲というものがまるでない。果たして正当なデートと言えるのか。ここいらで二人になって、円山町あたりにしけこもうとするなら話は分かるのだが…また愛ははぐらかされたような気になった。
そのまま野島はYと女の子を駅まで見送り、別れたその足で青山の自宅まで歩いて帰った。愛はがっかりしながら、しっかりと最後まで突き止めた。男がマンションの中に吸い込まれてゆく姿を恨めしげに確認した愛だった。
夜の密会デートが成立しなかったため、愛は客観的な判断を下すことができなくなった。愛は亀次郎に報告した。「一応女の子との付き合いもあるのでゲイである可能性は低いとは思いますが、女の子に対する独占欲というものがまるで感じられなかったので、もしかししたら、単なる無性欲な男かもしれません」
亀次郎は苦笑を交えて話を聞いた。「そうか、そういうことか。でも、それだけ分かればいいよ。女の人に対しても普通に振舞えるということさえ分かったのだから、今回はこれでよしとしよう」
「私的には納得がいかないのですが」愛は若干顔をひきつらせながら答えた。
「依頼を果たしさえすればそれでいいのよ。お前さんのせいではない」
「はあ」
達観しているボスとは対照的に、フラストレーションのたまるばかりの愛だった。
☆ ☆ ☆
その後、大野氏はますます気軽に愛に声をかけるようになった。「君、今日の夕食は一緒にどう?」なんて、食事にも誘ってもらえるようになった愛は、周囲の目が気になる一方で、憧れの先生と一緒にすごせる機会を無駄にすることはできなかった。
ただ、そんな愛と先生との関係にも、踏み越えてはならない一線というものがあって、たとえば、先生は愛を決して家はもちろん、研究室にすら連れて行かないのだった。
しかし、これには訳があった。実は大野氏は誰にも研究室に入れない主義なのである。以前はある先生との共同研究室だったらしいが、その先生が退官されるやいなや、すぐに自分の専属の物置にしてしまったのだ。噂では、たいそう怪しげな物が陳列されているということで、今では先生との仲を半ば公認されている愛は、友人にその中身についてよく問い質されたが、何も答えられずに困っているのだった。
そんなある雪の日のこと、突然例の桂志麻子が前回のリベンジとして強引に大野講義に乗り込んでくるという事件が巻き起こった。
彼女は授業中だろうが何だろうが、一切かまわず、派手な服装で声高に乗り込んできた。今日の服装は真っ赤なセミタイトのジャケットスーツに赤いベレー帽という、完全な戦闘服だった。まるで火花が散っているようだった。
彼女はそんな度派手な姿を並み居る学生に見られてもまるで臆することはなく、カツカツとヒールを鳴らしながら、教壇の目の前まで来ると、よく通る高い声で言い放った。
「こんなつまらない仕事をしているから、変態になるのよ。あんたは恋人がいるなんて言っていたけれど、本当はゲイか不能なのよ。正常な男なら私を選ぶに決まっているのだから、きっとどこかおかしいんでしょうよ」
大野氏は落ち着き払った声で言い返した。「悪いが今は授業中なんだ。引き取ってくれたまえ」
「ええ、それなら、私はこちらで待たせてもらいますから」女は教室の後ろの壁にもたれながら、さして面白くもなさそうに大野氏の講義を聞いていた。しばらくはそうして小康状態を保ったまま、講義はぼそぼそとしゃべる大野氏の声だけが流れる、真空地帯となった。
しかし、二人はよくても周りが承知しなかった。さすがの愛だって集中できなかったし、ほかの子達は次第にひそひそ話しで盛り上がり始め、とても授業どころではなくなった。ついに授業は崩壊し、さすがの大野准教授もとうとう諦めて、15分も早く授業を切り上げた。
「君、無茶しすぎだ。こういうのを本当の暴力というのだ」大野氏はすぐさま桂志麻子に近づき、思うさま怒りの気持ちを投げかけた。
「だって、あなた、昨日、本当に父に破談を申し込んだでしょう。ありえないことなのに、よくもまあ、って思ったわよ。そっちのほうがはるかに許しがたいわ」自分のほうにこそ義があるという確信に満ちた声で、志麻子は言った。
「この前も言っただろう。僕はメグちゃんを選んだんだ。それはもうどうにも動かしようのない事実なのだ。今更どう言ったってもう遅い」大野氏も重々しく言う。
「こんな貧乏な女と結婚してどうするのよ」志麻子はまだ負けていない。
「僕にはきちんとした収入があるし、僕たちはお互いに特殊な才能があるから、それを生かせばいい。たとえば僕たちは一緒に本を作ることができる。メグの文章を僕が添削して、合作にしてもいいし、メグの文に僕がイラストを書くのもいい。知らないだろうが、僕は絵だって相当なものなのだから」
そのとき、桂志麻子がしてやったりというような耳をつんざく声で宣告した。
「その通りでしょうよ。いいえ、私は前から知っていたわ。あなたは野島秀樹という、妙な画家なのよ。隠しても無駄なんだから、ここで認めなさい。少年愛をテーマとした作品しか描かない、いや描けない、変態作家だって、この間ちゃんと調べがついたのだから、そう自慢げに言うものでもなくてよ、野島大先生」
愛の脳裏でもつれていた糸が一瞬で解けた。稲妻がひらめいたようだった。野島=大野という図式は、考えれば考えるほど、まさに辻褄の合う話だった。野島も大野氏も金持ちの息子で、相続と政略結婚に悩まされていた。野島のほうはさらに、婚約者サイドにゲイであると疑われていた。ということは、愛の依頼者は桂志麻子あるいはその両親だったのだ、とようやく愛は納得した。
大野氏と志麻子との言い争いを傍らで見ていた愛は大急ぎで言った。
「先生。私、先生に取り急ぎお話しなければならないことができました」
「何かね。今、取り込み中だが」大野氏は志麻子を相手の戦いで精一杯のようだった。
「ここではお話できません。場所を変えたいのですが、彼女をどうしましょう」
「そんなに急を要する話なのかね?」
「はい」愛は深刻な顔で答えた。
「分かった。それなら、一刻も早く志麻子を追い出してしまおう」大野氏が言うが早いか、
「そんなことさせないわ」志麻子が大声で割って入り、二人の目の前に立ちはだかった。
「どきたまえ」大野氏が命令した。
「どきません」背の高い志麻子が立ちはだかると、なかなか手強そうに見えた。
「君はただの負けず嫌いなんだ。素直に僕の弟と結婚したまえ。弟なら君を幸せにできるだろう」
「じゃあ、本当の本当に、あなたは家を継ぐ気持ちはないのね?」志麻子がはっとしたような表情で、ぽろっと引く言葉をこぼした。
「そうだよ」大野氏がしごくまじめな面持ちで答えた。
「そうなのね。なら、もう私はあなたなんかただのゴミとしか思わないわよ。いいのね」志麻子はちょっとトーンを下げて、子供をあやすように(なおさら馬鹿にしたような感じが伝わったが)言った。
「ははは、ゴミか。なかなか即物的でいい表現だ」大野氏は愉快そうに歯ぐきを見せながら笑った。
「馬鹿じゃないの。頭のほうもおかしいのね」志麻子は鼻を鳴らしながら言った。げんなりしたようだった。
「まあ、そうかもしれん。アーティストっていうのは特殊な存在だからな。そういう意味でも、きわめてノーマルな君には、僕たちのような濃いコミュニケーションをもてないと思う。だから、悪い夢でも見たと思って、早々に退散しなさい」
「いいわよ。分かったわ。あなたにはもう二度と近づかないわ。その代わり、弟さんとあなたの家はもらいますからね」志麻子はついに決意したかのように宣言した。
「どうぞどうぞ」
涼しい顔でそう答えた大野氏に対し、志麻子は「ばか」と捨て台詞を残して、くるりと踵を返した。いつの間にかキャンパスの中にリムジンが迎えに来ており、志麻子はその中に姿を消した。
志麻子が立ち去った後、残された2人は銀杏並木の下を歩いていた。
「先生、どこへ行くんですか?」戸惑った表情で、愛は大野氏の後ろにくっついていた。
「秘密、秘密。楽しみにしていてごらん」大野氏が半ば冗談ごとのように楽しげに言った。
「ええ、どこだろう」愛が裏返ったような頓狂な声を出すと、
「やっぱり言っちゃおう。研究室だよ」大野氏は笑いながら言った。
「え?」
「僕の研究室。有名だろう。誰も入れさせないって」大野氏は茶目っ気たっぷりに目をパチパチさせた。
「そうですね。それで友達に訊かれて困っていたので、嬉しいです」愛は正直に言う。
「実は単に僕がアトリエにしちゃったってだけなんだけど、やっぱり学校側にばれるとまずいから今まで秘密にしておいたんだ。君だから言うけどね」大野氏がちょっと照れ臭そうに伏せ目がちに言った。
「先生、楽しみです。早く行きましょう」愛はにこやかな表情で、大野氏の後ろから背中を押すように歩いていた。
大野研究室には本ではなく、大野氏の画家としての作品が所狭しと並べられていた。いつか画廊で見た、少年の魂の昇天の絵もあった。いよいよ愛は告白をしなければ、と決意を固めた。
「先生、さっきも言いましたが、お話があります」きっぱりとした表情で愛は話しだした。
「そうだったね。そのために来たのだもの、僕だって忘れてはいないよ。どんな用件かな」大野氏は鷹揚な態度で、愛の次の言葉を待ち構えた。
「実はこの絵に関係することなんです」
こうして愛は、自分が裏の世界では探偵であり、かつて2度も野島としての大野氏を付け回したことがあったという事実を、ぼそぼそとしかし、的確に説明した。
「だから、志麻子さんが言っていた、調べたとか何とかいう話は、実は私がその張本人だったんです。先生、仕事とはいえ、私生活を探るために付回すなんて、大変失礼なことをいたしました。申し訳ありませんでした」
愛はそう言って、勢いよく頭を下げた。
しばらく大野氏は何も言わずに腕組みして考え込んでいたが、ついに口を開いたときにはこんなことを言った。
「じゃあ、君は僕が野島秀樹であることを知らずに、僕の絵を見たわけだな。正直に言ってどう思った、僕の作品を」
もう完全に野島秀樹の口調になっている大野氏は興味津々と言った感じで愛に質問した。
愛は参ったなと思った。あまりいい印象は持っていなかったからだ。
「正直な印象は、デカダンすぎて私にはついていけないというものでした。なんで少年ばかりなのかがよく分からないし、濃い世界だな、と思ったんです。先生がゲイなのじゃないかと、本気で疑いましたよ。あの展示会を見たときには」愛は正直に述べた。
大野は軽く笑った。「そうか、やっぱりね。君の世界とは違うものね。じゃあ、あの『ジン・トニック』という最初の作品のモデルは僕自身というわけだね」
大野隆は目をきらっと光らせながら確認した。愛はこくんと頷いた。「そうなんです」
「それで僕にもピンと来るものがあったのか。僕自身だったとは、僕も迂闊だったな」
「はあ」愛は返答に窮した。でも、こう言った。
「ですが、先生が紳士でいらっしゃることはよく分かっています。先生は女の子には手を出さないんですよね」
大野はまた笑った。今度は苦笑いだった。
「僕はねえ。美しい物は好きだよ。女性だろうと男性だろうと、見えるものであろうと見えないものであろうと、何だってかまわないんだ。その時に僕が美を見出した存在であれば、それが僕の恋の対象となるわけだ。だから、芸術の異化作用が重要なんだ。そのときそのときで目が奪われる、心が囚われる対象が違う、あるいは同じ対象が違った風に見えてくる。それが大事なんだ。そして、そうやって何度も何度も見直した上で、やはりいいと思える存在があれば、それへの気持ちは愛に変わる。僕はねえ、君が僕にとってそういう存在になるんじゃないかと、実は期待しているんだ」大野隆はゆっくりと愛の顔を見つめながら語った。
「先生、でも私たちの偽装交際はさっき終わったところですよ」愛は真っ赤な顔をしながらそう答えるのがやっとだった。
「何を言うんだ。これからが大事なのさ。僕たちは初めてお互いの本当の姿を知ったのだから」なおも大野は言う。
「私はもう探偵はやめます」何を言っていいか分からなくなった愛は、突発的に言ってみた。
「なんで、面白いじゃないか。経験だと思って続けてみればいい。創作の役にも立つかもしれないよ」彼は案外に無責任なことを言った。
「人の知られたくないことを調べるなんて、人間的じゃありません」
「そういう職業も必要なのが人間社会というものじゃないか。とにかく、そうして僕たちは出会ったんだ。きっかけは大切にしよう」大野ははっきりと出会いと口にした。愛はさらに赤くなった。
「先生は本当に私のことを気にかけてくれているんですか?」
「そうだねえ。あえて言うなら、気にかけているのは、今の君じゃないんだ。未来だよ、未来。僕はそこに賭けているんだ。だから、これからはもっと厳しく君を鍛え上げる。そして、そうなればもしかしたら君は優秀な未来のパートナーっていうことになるかもしれないじゃないか」大野は探るような目線で愛の顔を見つめた。
「あまり夢を見させないで。それ以上になると、妄想に入ってしまうから」
「じゃあ、君は嬉しく思うのだね。そういう未来を」
「そりゃあそうですが…」
「ですがなんだい?」
「先生はおじさんだけど、私はまだ若くていろいろしたいことがあるから、今はまだ何も考えられません」愛は逃げるが勝ちとばかりに抜け道を探った。
「なかなか言うねえ。でも、僕たちの年齢差ぐらいはたいしたハンディにはならないと思うね。それに君だってもう一人前の成人じゃないか。それより、両親が許してくれるかどうかだ」まじめな顔で考え込む大野隆の姿を、愛はありえないことと思い、またもや火が出るほど顔が熱くなった。
「先生。私、先生のことが好きですけど、辛いです」
「どうして?」
「あまりに人間としてのレベルが違うから」
「そう思ってしまうところがいけない。誰の目の前でも同じようにふるまえる人間になりなさい」あっけらかんと大野は言う。
「大事な教訓だと思いますが、難しいですよ」愛は首を振りながら嘆いた。
「とにかく、もっともっと頑張りなさい。付いて来れなければ、置いていくよ」大野は厳しく追及の手を緩めない。
「先生、分かりました。もう少し努力して、まともな人間になれるよう頑張りますよ」
根負けして半ば無理じいで約束をさせられる羽目になり、愛はとほほと苦笑を浮かべた。
「別に男性だろうと女性だろうとかまわないが、素敵な人になってほしいね」
「はい、ありがとうございます」
愛は敬愛する先生に対して、深く深くお辞儀をした。さっぱりとした気分だった。彼はそんな愛の姿を笑って優しく見つめていた。
その翌日は、快晴だった。雪の日の翌日の空には虹がかかっていた。
虹の橋を渡っていくことはできるだろうか?そう思いながら、愛は目を閉じた。露文の高橋教授の『戦争と平和』の講義だった。どんな眠りよりも心地よい眠りを、教授の静かな落ち着いた声が誘い出してくれる。未来もこうして夢のうちに終わるのかもしれない、とかすかな意識の中で、愛はいつまでも思い続けた。その時愛は、眠り続ける永遠少女だった。王子を夢見て、誰からもどこからも離れたところで眠り続けるばかりだった。
雪の薄片が一片、空中に舞った。そして、道に落ちて溶けてなくなった。
完
2作目です。途中から思ったように筆が進まなくなって、非常に苦労をした覚えがあります。どうか温かい目で見つめてください。