186 信仰の矢、放たれし時
神域に、不気味な風が吹いていた。
地脈が軋み、空間が歪む。
それは、世界が“裁定”という名の歯車へと変貌していく音だった。
女神セナムーンさんの姿はすでに人ではなかった。
光と神威に包まれたその存在は、魂の裁定機構そのものであり、
その声すら、もはや命あるものの言葉とは思えなかった。
「再構成は始まる……魂は秩序に還され、理想の世界が形作られる……」
イブさんが前に出る。
その姿は儚くも神聖で、まるでこの世に芽吹いた初めの祈りのようだった。
「私は、あなたに滅ぼされるために目覚めたわけじゃない。この世界を、誰かのために生きるために——目覚めたの」
イブさんの言葉が空間を揺らす。
だけどセナムーンさんの意思は止まらなかった。
「不完全な自由意志は世界を蝕む。あなたの存在が均衡を崩す前に——刈り取らねばなりません」
それは、セナムーンさんではなく裁定機構としての応答だったんだろう。
「くっ……!」
カインさんとユダさんが身構える。
実はこんなやり取りがされていたことを私は知らなかったーー
◆◇◆◇◆◇
《……聞こえるか、アダム殿》
ユダの意識が深層で震えていた。念話の異能を限界まで絞り込み、女神の検知を必死で避けていたからだ。
返ってくる気配がある。
《聞こえている。何が起きた、ユダ》
《世界が——崩れる。セナムーンが、機構に飲まれ始めています……お願いです。あなた達も、ここへ》
アダム、イサク、ヤコブ。
かつて女神に従った者たちが、迷いを抱えながらも歩を進めてきていたーーー
◆◇◆◇◆◇
「間に合ったか……」
アダムが低く息を吐いた。
「これは、見届けるべき戦いです」
イサクが言う。
「ずっと心に引っかかっていた。それが今、問われているのなら——目を逸らすわけにはいかない」
ヤコブは押し黙ったまま、静かに頷いた。
ソロモンさんが一歩前に出た。
「ようやく、役者が揃ったな。なら……あとは、残った者がそれぞれの答えを出すだけだ」
そのとき、ずっと沈黙を貫いていた男がいた。
それはーーーダビデ。
彼はただ、空を見つめていた。
まるで、誰にも見えない何かと向き合っているかのように。
その視線の先にあるのは、主なる神——ヤハウェなのだろう。
誰もが沈黙している中で、彼だけが立ち上がった。
そして、ゆっくりとセナムーンさんを見据え、静かに語った。
「我らが信じる神は、選別などしない。裁かず、試さず、ただ共にあろうとされるお方だ。それが、我が主——たとえこの身が塵に還ろうとも、私はその御名を離れない。
あなたがそれを否定するなら——この矢で、私は信仰を放とう」
その言葉に、空間が静まった。
誰も動かない。
誰も、息を呑むことすら忘れていた。
それは、戦いの号砲ではなく、信仰の宣言だった。
だけど、それこそがこの世界を変える、最も強い力だった。
そして——
女神との、最終決戦の火ぶたが、今、切って落とされたのだった。