184 果実の目覚め
神域の空が、わずかに揺らいでいた。
深奥に封じられた繭——イブさんの魂が、確かに動いたのだ。
ソロモンさんは指輪をかざしながら、結界の構造に慎重に干渉していた。
薄く撓んだ空間に、ひとつの通路が作られようとしている。
私は隣でじっと見つめながら、小さく問う。
「ソロモンさん……本当に、大丈夫なんですか?」
「大丈夫かどうかはわからない。けれど、やるしかない」
ソロモンさんは指輪に意識を集中させながら、ぽつりと語りはじめた。
「イブの魂は、もともと『選ぶこと』を知った存在だ。だから彼女が目覚めれば、他の魂も——眠っていた自由意志を思い出す。だがそれは、この世界の根幹を揺るがす行為でもあるんだ。この世界の魂は、セナムーンによって管理され、循環する仕組みによって保たれている。それは秩序と安定をもたらすけれど、同時に選ぶ自由を封じ込めてしまう構造でもある」
私は、はっと目を見開いた。
「つまり、イブさんが目覚めると……?」
「魂の支配構造が壊れ、世界全体が不安定になる。それを恐れて、女神は『魂の再構成』を行おうとしているんだ。魂そのものを塗り替えることで、全てを無に帰し、管理し直す……それは、救済なんかじゃない」
「だから、女神に従うことも、完全に拒むことも、どちらも正解ではないんですね」
ソロモンさんの視線が、静かに光の繭の先へと伸びた。
「だからこそ、必要なんだ。彼女に選ばせる道を——自ら目覚めるかどうかを、彼女の意思に委ねる道を」
私はその言葉に、胸を強く打たれた。
(選ばれるんじゃない。自分で選ぶんだ)
その瞬間、空間が光に包まれた。
淡い輝きが、結界の奥からあふれ出す。
イブさんの魂が——目覚めようとしている。
***
神域の中心部、祭壇の上。
詠唱を進めていた女神が、何かを感じ取って動きを止めた。
「……来たのね」
彼女の視線の先に、ゆっくりと立ち上がる光の果実。
かつて選んだ者として封じられていた魂——イブさんが、そこに姿を現していた。
彼女はまだ幼子のような光をまといながら、まっすぐ女神を見つめていた。
「どうして……止めようとするの?」
その問いに、セナムーンさんはわずかに瞳を細めた。
「あなたが目覚めれば、この世界は壊れる。循環も秩序も消え、魂たちは行き場を失うでしょう」
「でも……生きていたいって、思ってしまった。この光の中で、誰かに触れたいって、そう思ったの」
イブの言葉は、まだ曖昧で幼く、けれどどこか強い響きを持っていた。
セナムーンさんのもとに、ソロモンさん、カインさん、ユダさん、そしてダビデと私が集まった。
「世界の破壊者を呼び起こしたつもり?」
セナムーンさんの声は静かだったが、そこには確かな怒りが含まれていた。
ソロモンさんは一歩前に出て言う。
「いいえ。私たちは、何も呼び起こしていない。ただ、彼女に『選ばせた』だけです。自由とは、秩序に反する毒ではありません。それは未来を生む根。希望を見つけるために必要な力です」
セナムーンさんの表情が、かすかに揺らいだ。
「あなたたちは、本当に……彼女に世界の命運を委ねるというの?」
私は小さく頷いた。
「選ぶことが、どれほど苦しいかは、私たちが一番知ってます。でも、それでも……選びたいんです。誰かに従うのではなく、誰かを裁くのでもなく。自分の意志で、生きたいから」
静寂の中、イブさんが両手を胸の前で重ねた。
「わたし……誰かを壊したくて目覚めたわけじゃない。
でも、誰かを守りたいと願ってしまったの。
それだけじゃ……いけないのかな」
セナムーンは、初めて沈黙した。
それは、神に似た存在が心の中で迷いを抱いた、ほんの一瞬だった。
次に彼女が何を選ぶかは——
この世界そのものの未来を決めることになる。