夜闇と供にさらん
閑散とした夜である。闇が地上世界を包み込むかのような世界。月は出ず、生きとし生けるもの全てが巣穴に潜るかの様な闇であった。
都心といっても端の某地区に建つマンションの一室にほのかなスタンドの光があった。唯一闇を照らすその下に「彼」がいた。そそくさとあれは入ったか、これは入ったかとバッグを漁っている様である。
「下着よし。」 「替えの服よし。」 「軽食よし。」
そして、
「100万円よし。」
「彼」の小声が部屋に小さく響いた。
全ての準備が整った。いよいよ、この忌々しい家から逃げる時だ。そう「彼」は心で語った。
「彼」の家は代々熱心な神の教徒であった。毎週神に対して懺悔し許しを乞うた。しかし「彼」は神を疑う者であった。それは「彼」の両親からしたら筆舌に尽くし難い程の神への冒涜であり、一族の恥であった。
逆に「彼」からしたら地上の厄災を鎮めるもせず、地上の争いに介入しようとしない神に対して怒りと侮蔑の念があった。
「彼」はバッグを持つとスタンドを消し廊下に出ようとした。今更ながら、誕生した時より過ごしたこの忌々しい部屋にも自分の魂が移ったかの様で心寂しくあった。
しかし、賽は投げられた。「彼」は木目調の扉をギィィッ、と慎重に開けて廊下に出た。床も木であったので「彼」が歩くたびにギシギシいった。ふと目の前に2つのビー玉の様なものが現れた。それはゆっくりとこちらに向かってくる。「彼」は恐れ慄き、後ずさった。しかし、その正体はすぐにわかった。我が家の愛猫である。
「そうか、お前だったか。」思わず声が漏れて「彼」は焦った。しかし、誰も起きていない様で、「彼」は幸運さに安堵し、自分の軽率さに苛立った。
愛猫の目は透き通った目で「彼」を見つめ、また「彼」も愛猫を見つめた。その透明な目の中から「彼」は自分の未来を見た様な気がした。するとプイッと女が男を振るかの様にして首を振り、真っ暗な家のどこかへ消えて行った。
後味が悪いような感じがしたが、何かが吹っ切れた様な気がして、こうしてはいられないと「彼」は玄関へそそくさと向かった。履き慣れているスニーカーを履くと、ゆっくりと音が鳴らないよう鍵を解除し、外へ出た。
扉の向こう側の世界は無の境地でありながら、「彼」の全てを受け入れてくれているかの様に冬なのに暖かく、「彼」を誘った。
階段を下り、地上に足をつけた「彼」はスゥゥゥッと空気を吸い込み、ハァァァーーーッと吐いた。蒸気が出て、空中に靄をかけるも次第に消えていくその様はまるで今までの鬱憤が溶けていくかの様であった。
そして、彼は歩み始めた。まるで格子が開いた犬の様に。
どこへ行けば良いのやらまるで分からぬ羊の様に。
その日は、暗闇であった。新月で一片の月光もない地上には、彼のコツコツという足音のみが小さく響き渡るのみであった。