旅の道連れ
「神父さま〜!!わたしって化け物なの?」
私の足元を駆け抜けて老齢の男に泣きつく角を持った少女。
目には零れそうなくらいの涙を浮かべて、勢いよく飛び付く。
背中にはマントのような翼膜が生え、その下からは尻尾が覗いている。
左手は鱗に覆われていて、正に化け物と呼ぶに相応しい姿だった。
村に居た頃の、小さくて幼い私の姿だった。
そんな私を優しく受け止めて、抱き上げる男。
今にも溢れそうな涙を優しく拭って、頭を撫でている。
「おお、ステラ。何か悲しいことでもあったか?」
「旅芸人の人たちが来て、芸を見せてくれるって言ったから見に行ったら、化け物は立入禁止だ、って!」
そう言ってギャンギャンと、泣き喚く小さな私。
このときの私は、自分が皆と違うことが嫌で嫌で仕方なかった。
角や鱗のせいで、化け物呼ばわりされて何をするにも仲間はずれだった。
そんな私の泣き言を聞いてくれるのは、小さな教会の神父だった。
総白髪で、腰も曲がっている老人だった。
獣人を忌み嫌う教会の人間でありながら、私にも他の子たちと同じように優しかった。
家族のいない私の親代わりの人でもあった。
「いいかい?ステラ。自分を価値のない人間だと思ってはいけないよ。この世に意味なく産まれてきた者はいない。皆何かしらの役割があるんだ」
「やくわり?」
「そう。その者にしか出来ないことだ。お前にもあるんだ。獣人も人間も関係ない」
「私のやくわりってなぁに?」
「それはお前が見つけるのだ。簡単な事ではない。かくいう私も未だに見つけられていないのだ」
一緒に探そう。
そう、優しく笑ってくれる彼が、初めて私を普通の人間扱いしてくれた人だった。
温かい、私が人間として過ごした時間だった。
戻りたい。
二人で教会の扉を潜るのに続こうとして、私は自分の身体が全く動かないことに気がついた。
どれだけ手を伸ばしても二人には届かない。
声を発しても音にならない。
背後を振り返れば、どこまでも続く暗闇。
すべてを飲み込んでしまいそうな深い闇に全身が恐怖した。
「ドコへ行ク?」
暗闇から声がした。
男とも女とも判断できない不気味な声。
「オマエハ悪魔ト契約シタ、穢レタ存在。二度ト戻レナイ」
暗闇から伸びてきた黒い手が、私の手を掴んだ。
子どもみたいな細い腕の癖に振り払えない。
抵抗するだけで全身が痛い。
引き摺り込まれる。
「オマエ、モウ逃ゲラレナイ。永遠ニ苦ルシム。ククク…!楽シミ楽シミ!」
笑い声が響き渡る。
前方から、背後から、足元から、頭上から。
どこから聞こえるのか分からない。
ゲラゲラゲラゲラ…!
次第に大きくなる笑い声に頭が割れそうだ。
ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!!!!!!!!
「ッ!!」
意識が現実に帰って来た。
寒くないのに全身がガタガタと震えて、何もしていないのに息が乱れる。
「……夢か」
「随分と魘されていたな。悪い夢でも見たか?」
ニルが手に大量の果物を抱えて立っていた。
口や手を果汁でベタベタにしながらする美味そうに咀嚼する姿は、平和の一言に尽きる。
「昔の夢を見ただけよ」
「それは興味深い。どんな夢だった?」
「…魔法使いと契約したことを後悔するような夢だったわ」
「案ずるな。契約者に後悔はさせない。それよりも何か食べた方がいい」
「…ありがとう」
投げ渡された果物を受け取って一口齧る。
確かな歯応えと、程よい甘さの果汁が瑞々しい。
冷や汗まみれで水分を失った身体には丁度いい。
「ほら。もっと食べろ」
「ちょ、ちょっと。そんな一気に渡されても食べられないわよ」
食べたそばから、次から次へと押し付けられても、口は一つしかないのだ。
「昨日は、足りないと言ったから沢山持ってきてやったのだ。遠慮するな」
「昨日?」
「魚。食べすぎたからな」
「それでも、その量は多過ぎるわ」
結構な量食べたが、ニルの腕の中にはまだまだ大量の果物が残っている。
とても二人では食べ切れない。
それに、果物は傷むのも早い。
干せば良いだけだが、それには手間も時間も掛かる。
「いらないなら俺が食べるから問題ない」
そう言ってニルは腕の中の果物を一気に口に放り込んだ。
一つ一つがかなり大きいので、かなりの食いごたえがあるはずだが、そんなもの関係ないと言わんばかりに次々に果物が消えていく。
手品かな?
魔法使いとはこういう生き物なのだろうか…。
あまり深く考えるのはよそう。
私は荷物から地図と方位磁針を取り出す。
おおよその現在地を割り出して、進路を確認する。
「食べ終わったならそろそろ出発するわよ」
「ああ、準備完了だ」
「もう食べ終わったの?」
「いや、残りは後で食べる」
そう言う割に、手には何も持っていない。
そもそも、腰から提げている小さなポーチしかニルは持っていない。
「魔法道具の一つだ。物体を極限まで小さくして収納する。便利だぞ?」
「…昨日、持ってた荷物たちもそれの中に?」
私の疑問に気がついたのかニルが得意げに説明しだした。
昨晩、ニルは何も無い空間から大荷物を取り出したように見えたが、そういうことか。
「この中は、時間の流れが止まっていてな。放り込まれた物質はこの中に入れている間、一切状態が変化しない。つまり、果物は腐らない。熱々のスープを放り込めばいつでも出来立てが食える」
「へぇ…」
便利なものだ。
世界中の商人が欲しがるだろう。
荷物も減らせて、物も劣化しないとは…。
魔法使いは恐ろしい奴だと思っていたが、こういった便利な技術を持っているとは、何かが違えば、魔法が普及した世界になっていただろうに。
「生き物が誤って入ると、時の流れはないのに、意識だけが残る生地獄と化すがな」
「……」
前言撤回。
魔法使いはやはり恐ろしい。
そんな危険物を持ち歩いているとは。
これでは、いくら便利でも普及しない。
「君の荷物も預かろうか?結構重いだろう?」
「自分の荷物くらい自分で持つわ。今までもそうして来たし」
ニルが私の荷物を奪うような奴であるとは、今更思っていない…いや、あるかもしれない。
仮に預けたとして、ニルがポーチを無くすようなことがあれば、私達は一文無しの貧乏人だ。
それに、自分の旅荷物は自分で持つのが旅人だ。
キッパリと断って、私は歩き出した。
普段、次の国が近くなると期待感と不安感でいっぱいになる。
料理は美味いのだろうかとか、治安はいいのかとか、獣人である私を入国させてくれるだろうかとか。
その間、私は終始無言で歩き続けた。
今までは。
「ステラ。君は何年旅を続けているんだい?」
「6…7年かしら。あんまり意識してなかったわ」
「ステラ。あの国は何が特産品だろうか?」
「確か、乳製品じゃなかったかしら」
「ステラ。料理はどうやったら上達する?」
「…色々あるけど、第一は火加減よね」
「ステラ。そろそろ昼餉の時間だ」
「さっきの果物あるでしょ?」
「ステラ。あそこに美味そうな鹿が」
「狩らないわよ?」
ステラ、ステラ、ステラ……。
ニルがずっと私の名前を呼ぶから、今日一日ほとんど口が動き続けている。
おかげで、水の消費がいつもより早い。
「アンタ、いつもこんなにお喋りなの?」
「鬱陶しいかい?黙れと言うなら黙るが?」
「いや、単純に気になっただけよ」
私が何気なく発した一言に、ニルは顔色一つ変えずに淡々と聞いてきた。
鬱陶しい、別にそう思ったわけじゃない。
「一人旅をしていると話し相手がいなくてな。久々の会話に少々盛り上がっていた」
「アンタは旅を初めてどれくらい経つの?」
「確か昨日で半年経った。本が奪われた直後に村を出たからな。魔法使いは日夜、魔法の研究のための議論を繰り返す。昨日まで会話相手がいなくてな。こうすると心が落ち着く」
そうしみじみと呟く様子に私は既視感を感じた。
村を出た頃の私に似ている。
慣れ親しんだ、場所を離れると懐かしい思い出が蘇ったりするものだ。
そして、無性に帰りたくなる。
旅荷物など全部放り出して、おかえりと迎えられたくなることがある。
村で碌に会話相手もいなかった私でもそう思ったのだ。
共に、研究に励んだという仲間がいるニルがそう思うのも無理はないだろう。
「そう。ただ質問に答えてばっかじゃ、会話とは言えないでしょ?次は私が質問する番よ」
「どんと来い」
「探してる本ってどんな見た目なの?」
そういえば、本を探すことは了承したが、外見を知らねば探すに探せない。
昨日は人間に戻れるという話に浮かれていたが、よくよく考えれば無用心すぎた。
判断能力の鈍った頃に商談を迫る詐欺の手法に似ている。
危険な悪魔の契約はしたので、人間に戻すというのは嘘ではないと信じたいが…。
ニルはポーチから、今朝取ってきた果実を取り出した。
「そういえば、話していなかったか。一目見れば分かるが強いて言うなら黒い」
「黒い?」
「そうだ。真っ黒な表紙に白い古代文字で題名が書かれた見た目はとても素朴な本だ。仕掛けが施されていて、通常は開くこともできない」
「聞くだけじゃ、危険そうには思えないけど?」
「いいや。アレはその場に存在するだけで危険な代物だ。アレには人の心を惑わせる力がある」
「惑わす力?」
「魔法使いの道具というのは大なり小なりそういった曰く付きだ。アレの場合は人間の心の闇を増幅させる」
「なんでそんなモンばっか使うんだか…」
「過去にその力に魅入られた魔法使いは、気が触れて仲間を何人も殺した。その者は元々、思慮深い聡明な魔法使いだった。それを狂気の殺意に駆り立てる力が凌駕したのだ。もし、悪人の手に渡るようなことがあれば…」
「その魔法使い以上の悲劇が起こると?」
「そういうことだ」
その話が本当なら確かに、危険だろう。
もし、盗賊や悪人に渡れば、事件の被害は大きくなるだろう。
もし、暴君が手にしたら、国は暴政に喘ぐだろう。
ニルの言う魔法使いがどれ程の善人かは知らないが、魔法使いでも持て余す危険物というわけだ。
「本なら燃やせばいいじゃない?」
私は単純な疑問をぶつけてみた。
本ならば、破るなり、水に付けるなり、破壊方法はあるだろう。
燃やすのが手っ取り早いと思う。
「何度も試したさ。しかし、あの本は燃えないのだ」
「燃えない本って…」
「魔法道具の中には、破損を防ぐためのまじないが掛かっていることがある。それは、掛けた本人か、定められた解除法じゃなければ解けない。そしてあの本の作者は不明で、解除法もわからない。故に人目の付かない〈恐怖の森〉にて闇の一族が保管するという形に落ち着いたのだ」
「そんな重要な物盗まれるって、アンタたち馬鹿なの?」
「他の一族たちからも批判が相次いだ。それで集落一の魔法使いである俺が探す羽目になった」
「……アンタも災難ね」
集団の代表。
体のいい言葉だ。
要は、誰かに責任を押し付けて、失敗したらソイツのせいにすると……。
人間も魔法使いも考えることは同じようだ。
「むしろ、好都合さ」
ニルは食べ終えた果実の芯を放り捨てながら呟いた。
「魔法使いというのは、学者と変わらない。この世の真理を探求する者だ。そんな学者が狭い集落で、同じ環境で過ごした仲間と議論して、一体何が探求できると思う?」
「"何も"…ね。違う価値観の者同士が語り合わないと、新しい発見はないでしょう?」
「そう。彼らが行っているのは議論ではなく、ただの机上の空論…妄想の垂れ流し合いだ」
仲間に向かってなんという言い草か…魔法使いというのは仲間意識の低い連中のようだ。
共感が持てる。
「世界の実態を知らぬ者が訳知り顔で世界を語る…。俺の集落はそういう連中ばかりで、議論も詰まらない。その癖、人目に付くのを嫌って、村を出ることも禁じられていて、正直時間の無駄だった」
「だから、外の世界に出る"本探し"は好都合だと?」
「如何にも、正に渡りに船ってやつだ」
「世界が滅ぶかもしれないのに、呑気なやつね」
「自分に正直でないと魔法使いはやってられんのでな」
ニルは、楽しそうに笑った。
旅というのは思わぬ、障害にぶつかるものである。
盗賊に襲われるとか、冤罪をかけられるとかはまだ可愛い方だ。
今、私たちの目の前に立ちはだかる危機に比べたら。
「ステラ…俺の目が正常ならだが、今俺たちの前にいるのは"牛"だな?」
「え、ええ。私も"牛"だと思うわ」
逞しい真っ黒い体躯、頭から生える大きくて立派な角。
森を抜けた先に広がる広大な草原に君臨する四足歩行の獣。
私の知識の中で、ソレを分類するなら"牛"が最も適切だろう。
「「デカ過ぎる……」」
男の中でも背の高い方だろうニルよりも大きい。
私なんて、縦に二人並んでも超えられない。
品種によっては人より大きい種も居るらしいが…顔が見上げる位置にあるのはいくらなんでもデカ過ぎる。
しかも、最悪なことに気が立っているのか、鼻息は荒く、目は血走っている。
威圧感が尋常じゃない。
完全に私達を"獲物"として見ている。
果たしてこれは、本当に牛なのだろうか?
「ブモォォォォォォオオオオ!!!!!」
牛だった。
規格外な体格はともかく、鳴き声は牛だ。
飼い慣らされたモノではない、野生に生きる屈強な戦士の咆哮に思わず身が竦む。
角をこちらに向けて、突っ込んでくる姿は死を体現しているかのようだ。
私は咄嗟に、隣にいたニルに飛びつくように突き飛ばす。
私たちの背後を、相当な質量を持った奴が駆け抜けた。
背後にあった森の入り口が吹き飛び、土埃が立ち込めた。
「世の中には、人の倍以上ある牛もいるんだな…」
「言ってる場合!?逃げるわよ!!」
「まあ、待て」
呑気に感想を述べる、魔法使いを叱咤して、私は駆け出そうとしたのを、ニルが止めた。
そこには、こちらに向き直った怪物牛と、それに正面から向き合うニルの姿があった。
「この世は弱肉強食。誰に喧嘩を売ったのか、コイツにはキッチリと教育してやる。その命をもってな」
背中しか見えないがその声色は、聞いたことも無いくらい冷たい。
何がニルをそこまで駆り立てるのか。
「アンタ…何する気?」
「折角の機会だ。魔法がどのようなものか見せてやる。瞬き厳禁、刮目せよ!」
高らかに宣言するニル。
そのままブツブツと、何事か呟く。
空気が変わった。
ニルに向かって、ナニカが流れ込むかのような言い表せない感覚を、私の角が察した。
こちらの事情など構わず、怪物牛は自慢の巨体で再度突撃してくる。
二人の距離がドンドン縮まる。
このままではニルがあの質量に押しつぶされる。
あの威力、獣人でも致命傷は避けられない。
まして人間ならば即死だ。
今、コイツに死なれては私は人間に戻れない。
やはり、逃げるしかない。
そう思って、私がニルに駆け寄ろうとした瞬間。
「"焼き尽くせ"!」
ニルが気迫の籠もった声で叫び、掌を牛に向けた。
そして、牛が燃えた。
比喩でもなんでもなく、突然燃え上がりだした。
炎は一瞬にして、牛の巨体を飲み込み、勢いを増していく。
どれだけ暴れて、地面を転がっても炎は衰えることを知らない。
牛は尚も生に執着して暴れ回ったが、やがて力尽きて断末魔を上げた後、動かなくなった。
パキン。
ニルが指を鳴らした。
それだけで、何をしても消えなかった炎があっという間に鎮火した。
あとに残ったのは、真っ黒に焦げた牛の亡骸だけだった。
「これが…魔法」
実際に見るのはこれで二度目だ。
呪文を唱え、超常現象を引き起こす、人智を超えた技術。
私はこの時、初めてニルが恐ろしい魔術師であると実感した。
昨晩までの魔法使いを漠然と恐れる曖昧なものではなく、明確な恐怖。
もし、運が悪ければ昨日あの時、私は問答無用で殺されていたかもしれない。
「ステラ…」
「な…何よ」
ゆっくりと、ニルが振り向いた。
楽しそうに歪む、美しい顔。
本能的に、剣に伸びそうになる手を理性で抑え込む。
「コイツの肉は美味いのか?」
「……」
やっぱりコイツは、怖くないかもしれない。
無邪気に聞いてきたニルに私は、思わず脱力した。