【コミカライズ】捨てられた「完璧令嬢」はグレることに致しました!
「ひどいですわ、カティア様!」という涙声と共に紅茶をかけられた。
バシャッと顔やドレスに飛沫が飛び散る。カップの中身は冷めていたため火傷こそしなかったものの、制服やテーブルの上に置いてあった愛読書はひどく汚れてしまった。
――ここは貴族の子女が通う王立学校。
中庭には噴水が設置され、生徒たちがおしゃべりを楽しめるようにテーブルやベンチが設置されている。公爵令嬢であるカティアは庭園の片隅で読書を楽しむのを日課にしていた。
昼休みは他の生徒たちとの交流があるため、放課後、迎えの馬車が来るまでの三十分間がカティアにとっての至福の時間だ。しかし、今日は闖入者が現れた。
ずんずんと肩を怒らせて歩いてきたのは男爵令嬢のアイリ。……近頃、カティアの婚約者である王太子スティーブにやたらと親しく話しかけている女生徒だ。
「ごきげんよう、アイリ様。そのような怖い顔をしてどうなさったの?」
カティアの挨拶に返事もせず、彼女は開口一番「スティーブ様と別れてください」と言った。
「……意味がわかりませんわ」
「カティア様はスティーブ様を愛していらっしゃらないという話を聞いたのです。王家と公爵家が決めた政略結婚で、お二人の間に愛はないと。そんな冷え切った結婚をするなんてスティーブ様がかわいそうです」
「政略結婚などそういうものでしょう。あなたは違うというのですか、アイリ様?」
「当たり前です。わたしだったら婚約者が風邪で寝込んでいたら心配でお見舞いに行きます! カティア様は見舞い状ひとつ出さないのでしょう?」
「ああ……」
スティーブはしょっちゅう風邪をひく。
なんとかは風邪をひかないというが、子どもの頃から月に一度は風邪をひくため、よほど寝相が悪いのかもしれないと思っていた。……ともかく、そんな頻度で風邪をひくものだから、見舞い状や花は持ってこなくてもよいと王妃様から言われているのだ。
「スティーブ様は『カティアは冷たい女だ』と。わたしのように心根の優しい女性と添い遂げたいとおっしゃってくださったのです!」
「……そうですか」
開いたままの本のページに栞を挟んだカティアは立ち上がった。
「では、スティーブに直接側妃にして欲しいと頼んではいかがです?」
「なっ……」
アイリの顔がカッと紅潮した。
「側妃ですって……!」
「だってこれは王家と公爵家が取り決めた婚姻ですもの。愛がない結婚なのは当たり前ですし、だからと言って私が勝手に婚約破棄することはできません」
貴族の娘なら当たり前のことを述べただけだが、スティーブに熱を上げているらしいアイリは逆上した。立ち去ろうとしたカティアに紅茶をかけたのだ。
そしてなぜか加害者側のアイリが顔を覆ってワッと泣き出す。
残念なことに周囲に他の生徒は見当たらず、カティアの侍女もまだ迎えには来なかった。面倒ごとに巻き込まれたカティアはうんざりとしてしまう。
「ひっく、ひっく……わたしは本気でスティーブ様をお慕いしているのに……」
「ですから、そういった話は殿下にして下さるかしら。そもそも、婚約者のいる男性に横恋慕をするなんて許されないことです。貴女のしていることは他の貴族から非難されてもおかしくない行為であり、本来であれば恥ずべきことで――」
「――どうしたんだ、アイリ!」
さらに最悪なことにスティーブがやってきた。
彼の目には紅茶を被った婚約者――ではなく、ぽろぽろと涙をこぼすアイリしか映っていない。アイリがスティーブの胸に飛び込んだ。
「これはいったい何事だ、カティア」
スティーブが冷たい視線をカティアに向ける。
カティアは肩を竦めた。
「……アイリ様は殿下の事をずいぶんと慕っておられるようですわ」
「ひっく、ひっく……。わたし、スティーブ様を愛しているんです……。なのにカティア様はわたしは恥ずべき女だと、ひどいことを言ってきて……!」
涙声でスティーブにしがみつくアイリと、呆れたようにその様子を見ているカティア。
スティーブは腐っても王族だ。
被害者のようにアイリは泣きわめいているが、こっちは紅茶をかけられているのだ。男爵令嬢が公爵令嬢に紅茶をかけ、あまつさえ婚約者のいる王太子を愛していると口にするなどどうかしている。さすがにアイリを窘めるだろう……と思っていたら。
「そんなにひどいことを言ったのか、カティア!」
「……はい?」
「きみはいつもそうだな。そうやって冷めた目で人の事を見下す。さぞやアイリ相手にもお得意の『正論』で冷たく当たったんだろう」
……なぜかカティアが責められている。
「幼い頃からきみは性格が悪いと思っていたんだ。確かにきみは品行方正で頭も良く、次期王妃となるにふさわしい令嬢かもしれない。しかし、周囲から完璧令嬢などと呼ばれ続けて傲慢になってしまったのではないか? 人の心がないようなきみと一生を添い遂げたいとは思わないんだ」
「……それで、アイリ様を正妃になさると?」
「ああ、そうだ。アイリは確かに身分は低いが、心から俺の事を慕ってくれる優しい女性だ。カティア、きみとの婚約は破棄させてもらう!」
「ぐすっ……スティーブ様ぁ……」
「行こう、アイリ」
スティーブはアイリの肩を抱くと立ち去って行った。
(だから、王家と公爵家が決めた婚姻だから、私やあんたが勝手に破棄できないんだってば……)
一方的かつ馬鹿馬鹿しい理論に茫然としてしまう。
そしてふつふつと怒りが湧いてきた。
(傲慢。性格が悪い。人の心がない。国母にふさわしくない、ですってぇぇぇ……!)
こちらこそスティーブのような短絡的で病弱なお馬鹿はごめんである。
しかし、公爵家の娘として、そして目をかけて王妃教育を施してくれた現王妃に報いたいとの思いで、日々勉学や社交に精を出していたというのにこの言われよう。
返せ、私の十年間。
っていうか「見舞いに行かない」んじゃなくて「行けない」のよ。スティーブの公務の穴埋めを私がしてやってたのよ。それを知らずにアイリといちゃいちゃしていたかと思うと腹が立って仕方がなかった。
(グレてやる。こっちに過失はなんにもないんだから、『完璧令嬢』の名を返上してやる――!)
……迎えに来た侍女は紅茶を滴らせながら怒り狂うカティアの姿に恐れおののいていた。
◇
「ごきげんよう。……聞きまして? スティーブ様とカティア様の件……」
「婚約破棄なさったんでしょう? カティア様ほどの完璧な淑女が……、信じられませんわ」
「なんでも、陰で男爵令嬢のアイリさんのことを虐めていらしたとか……」
ひそひそと噂話に忙しい令嬢たちだったが、すぐ側でふわりと香った高貴な匂いに思わず振り返ってしまった。
摘みたてのバラの香りはカティアが好んでつけている香水の匂いだ。
悪口を聞かれてしまったとハッと口を噤んだ令嬢たちは唖然とした。
「カ、カティア……様……?」
「あら、ごきげんよう。イリスさん、マレーネさん」
他の生徒たちも驚いた顔でカティアを見つめている。
なんと彼女は男装姿で登校してきていたのだ。
(ふふっ、自由に生きるってなんて楽しいのかしら!)
カティアはスキップでもしそうなくらいうきうきとした気持ちで登校していた。
昨日、「グレてやる!」と心に誓った通り、完璧令嬢の名を返上して反抗的に生きてやろうと思ったのだ。人目を気にして楚々と振る舞ってきた十年間をぶち壊しにされたのだから、これからは好き勝手にやらせてもらう。
婚約破棄されたとメソメソするのは性に合わないし、かといって平然としていたらスティーブの言う「人の心がない女」説がもっともらしく思われてしまうだろう。
だったらいっそ変人令嬢とでも思われた方がましである。
手始めに男子用の制服を着て登校してみた。
――大人しい淑女の印象を変えたかったのだ。皆が婚約破棄されたことよりもカティアの変わりぶりに驚いているのを見るのは気分が良かった。
いつもは丁寧にカールしているブロンドはひとつにくくってサッと背中に流し、きっちりと上まで留められたシャツにタイを結んである。
万が一教師に咎められたら?
校則には「制服を着用せよ」と書いてあるが、女子が男子用の制服を着てはいけないという文言はどこにもないと言い返せばよい。なんという反抗的行動。
だが、カティアの服装について咎められることはなかった。交流があった令息令嬢たちは皆ぽかんとした顔でカティアを見つめるばかりだ。
(みんな驚いてしまって言葉もないのね。学校創立以来の問題行動かもしれないわ)
……カティアは気づかなかったが、実際はカティアの男装姿があまりにも似合いすぎて誰も批判できなかったのだ。肌の露出は一切ないパンツルックだというのに、美人のカティアが着ると色気があり、物語の中から抜け出してきた美青年のようであった。
そして昼食。カティアはいつもナイフとフォークを使用するメニューを選んでいた。素手で掴んで大口を開けてかぶりつく食べ物なんて言語道断、外で地べたに座って食べるのも品がないと思って、これまでは我慢してきた。
「ホットサンドをください」
人気のメニューを頼んだカティアは庭園のベンチに座ってかじりつく。
(なるほど、良く考えられているわね)
薄切りにしたパンに具材を挟み、両端はプレスしてしっかりと焼き目がつけられているため、片手で食べられる上に美味しい。忙しい時の食事にぴったりだ。あるいは、友人同士でおしゃべりしながら食べたい食べ物だ。
さあっと心地良い風が吹き、カティアの長い髪が背で揺れる。
やたらと視線を感じたが、カティアが振り返ると周囲の人間は皆一様にサッと目をそらした。
(公爵令嬢が一人でパンをかじっているなんて信じられないのでしょう)
どうやら自分は独りぼっちでも苦に思わない性格らしい。食事を終えたら本を読む。のんびりと自分のためだけに時間を使えばよいというのはなんて贅沢なのだろう。
……悠々と食事をとったカティアに声をかけるべきか否か迷う生徒たちが大勢いたことにはやはり気づかなかった。
「カティア、どういうことなのっ⁉」
放課後。親しくしていた公爵令嬢アデリーンに声を掛けられたカティアは、彼女の亜麻色の髪を飾るどぎついピンク色の髪飾りに目が行ってしまった。
あなたは悪くないだの、アイリは図々しい女だのと捲し立てるアデリーンを無視し、カティアは髪飾りを指さした。
「アデリーン、この髪飾り、ダサいわよ」
――変化その3。言いたいことははっきりと言うことにした。
「だっ、ダサい……⁉ これは、グレース様からの贈り物で……珍しい宝石が使われた高価な物でっ……」
「前々から思っていたけれど、あなたの婚約者はあまりセンスがないわ」
これまでのカティアは波風を立てないように無難な発言しかしてこなかった。アデリーンのつけている髪飾りが怪鳥のようなデザインだったとしても「個性的な髪飾りね」くらいで済ませただろう。
ショックを受けるアデリーンの髪に、庭園に咲いていた白いデイジーの花を挿してやる。やっぱり思った通りだ。
「グレース様はあなたの魅力をわかっていらっしゃらないわよね。アデリーンの髪色だとこちらの方が似合うわ。……ほら。可愛い」
「かっ、かっ、カティア……⁉」
カティアが微笑みかけるとなぜかアデリーンは真っ赤になった。周囲にいた女生徒たちもなぜか顔を赤らめている。
(……何かおかしなことを言ったかしら?)
カティアは気づかなかったが、男装のカティアはあまりにも見目麗しく王子様的挙動が嵌りすぎていたのだ。
「カティア様、良かったらお昼をご一緒しませんか?」
「こ、これっ。わたしが焼いたクッキーなのですが、受け取っていただけませんか?」
「もしご都合がつけば、一緒に勉強しません?」
一週間後。なぜかカティアは女生徒たちにモテモテになっていた。
(なぜ……?)
次期王妃でもないカティアと仲良くしたところでなんのメリットもないはずなのに、なんなら変貌前の完璧令嬢のときよりも慕われていた。
女子生徒だけではない。
「おーい、カティア! 明後日の馬術大会、一緒に観戦に行かねえ?」
なぜか、男子生徒たちからも声がかかるようになった。
今誘いに来たのは地方伯爵家の三男で、卒業後は王立騎士団への入隊を希望しているというエリク。黒髪に琥珀色の瞳を持った甘い顔立ちの青年だが、完璧令嬢の時には一切交流はなかった。
はじめはフリーになった公爵令嬢を慰めるふりをして近づき、婿入りをしてのし上がろうとでも考えているのかと思ったが、今のところエリクにそう言った素振りは見られない。今の誘いもデートならお断りだが……。
「隣のクラスのルークとマリエッタも一緒なんだ。二人の兄貴も出るらしいし、カティアのところも従兄が出場するんだろう? せっかくだからみんなで行かないか?」
身分はさほど高くないが、人づきあいが得意で活発なグループのリーダー的存在らしい。
カティアが「行くわ」と言うと、周りの女子生徒たちも「私も行こうかしら」とそわそわしだす。婚約破棄されたからグレてやる! と奇行に走っているつもりなのに、すっかり学園生活を謳歌する集団に成り上がっていた。
◇
「チッ、なんだよ。カティアの奴……!」
当然その様子を面白くないと思っているのはスティーブだった。
婚約破棄されたせいで自暴自棄になり、奇行に走っているらしいカティアを見るのは気分が良かった。アイリを正妃にするためにはカティアには「正妃にふさわしくない」言動を取ってもらった方がありがたい。
性格が悪く、冷たいカティアに愛想を尽かして婚約破棄をしたとスティーブは周囲に吹聴していた。両親――国王夫妻はスティーブをこっぴどく叱りつけたが、カティアの奇行ぶりは両親の耳にも届いているはずだ……。なのに……。
「なんであんなに人気が出ているんだよ」
特に、身分が低めの貴族たちからは絶大な支持を得ていた。
これまではお高く留まっているように見えたが、親しみやすい性格で一気に好感を抱いたらしい。
また、女生徒たちからは王子様のようだとも囁かれている。婚約者以外の男と二人きりになるのはタブーだが、カティアは女。男装したカティアに微笑まれたり勉強を教えてもらったりするのは疑似恋愛気分でどきどきしてしまうと話題で、ファンクラブまでできてしまった。
「……まるでこっちが悪者じゃないか。あいつの化けの皮を剥がしてやる」
ごそ、とポケットを探ったスティーブが取り出したのは昆虫を模したおもちゃだ。子ども騙しだが、ぱっと見は本物に見える。
(あいつ、虫が嫌いなんだよな)
子どもの頃からカティアは完璧令嬢と大人たちから褒められていた。
そんなカティアにも苦手なものがある。十歳の時、ガーデンパーティーで飛んできたカナブンがカティアのドレスに止まったのだ。
「キャアッ」と悲鳴を上げた姿は珍しく、スティーブが追い払ってやるとほっとした顔をしていた。あの時、スティーブは初めて彼女に対して優越感を抱いたのだ。
(ガキっぽいと笑いたきゃ笑え。だけど、出来が悪いと言われ続けてきた俺にとって、カティアはコンプレックスの塊なんだ)
だからこそ、純粋に自分を慕ってくれたアイリに夢中になった。
愛くるしい笑顔で「さすがです」と言われると自尊心が満たされた。素直な性格で「知らなかった」と何でも知識を吸収し、些細なことを「すごいです」と褒めてくれる。
カティアに贈り物をした時とは違い、何を贈っても「センスがいい」と喜んでくれ、くだらないスティーブの話も「そうなんですね」と優しく受け止めてくれる……。
(そんなアイリと幸せになるためにはお前が邪魔なんだ、カティア!)
木の陰からスティーブは虫のおもちゃを投げた。
狙いあやまたず、女生徒たちに囲まれながら楽しそうに渡り廊下を歩くカティアの頭にぽとりと落ちる。
「キャーッ!!!」
一緒にいた令嬢たちは悲鳴を上げた。
「か、カティア様の頭に大きな蜘蛛がっ……!」
さあ、醜態を晒せ、カティア!
醜態を……。
「――皆様落ち着いて。ただのおもちゃですわ」
醜、態を……?
冷静に蜘蛛を掴んだカティアはこちらを振り返った。
「何か御用ですか? スティーブ殿下」
気づかれていたことに動揺する。カティアは平然とした顔で続けた。
「女生徒たちと歓談中に虫のおもちゃを投げ込むなど、いたずらにしては度が過ぎていますよ」
「なっ……、お、俺はそんなことをしていない!」
「あら、それは失礼いたしました。ちょうど校舎の窓ガラスに、殿下が何かをこちらに投げつけたのが見えていましたので」
女生徒たちは白けた目をスティーブに向けた。
冷ややかな氷の視線にたじろぐ。
「昔の私でしたらこんなものを投げつけられたら悲鳴を上げていたでしょうね……」
「そ、そうだな。お前は虫が苦手だったもんな」
「――とっくに克服致しましたけれどね。公務の際に虫が出たくらいで大騒ぎできませんもの。それと、スティーブ殿下。私とあなたはもう婚約者ではありません。『お前』などと呼ぶのはおやめくださいませ。……さ。皆様、驚かせてしまいましたね。大丈夫ですか?」
女生徒たちに爽やかに微笑みかけたカティアは立ち去ろうとした。
やはり可愛げのない。なんという厭味ったらしい女だ。
「ま、待て! カティア……! ぶっ!」
追いかけようとしたスティーブの鼻の頭に飛んできた何かがくっついた。
おもちゃではない。
本物の大蜘蛛だ。
「~~~~~う、うわああああっ! とってくれ!」
パニックになったスティーブは大慌てで首をぶんぶんと振った。ぴょん、と地面に着地した蜘蛛は迷惑そうに茂みにすばやく隠れる。
「……ぷっ」
その情けない姿に誰かが吹き出し、連鎖反応のように笑いが広がっていた。
くすくす、くすくす。笑われたスティーブの頬はカッと紅潮し、「くそっ!」と吐き捨ててその場を去った。
◇
「あらあら……」
子どものように走り去っていくスティーブを見送りながら、カティアはため息を吐く。
スティーブは素直な男性だ。
王家の人間として厳しく育てられてきた彼はあまり勉学も武術も得意ではなかった。普通ならそこで屈折しそうなものだが、彼はできないことはできないと言うし、一丁前に見栄も張るし、なんというか……腹芸が苦手な人なのだということは幼い頃から思っていた。
スティーブに対して愛があるかと問われれば、ない。
どちらかというと出来の悪い弟を教え導かなくてはと言う姉のような使命感でスティーブに接していた。婚約破棄されて腹は立ったが、だからといってもう一度婚約者の立場に返り咲きたいかと言われるとノーである。
(でも、今ので元婚約者としての情も消え失せたわね……)
両親も国王陛下も揃ってカティアに考え直して欲しいと嘆願しに来たが、本人があの調子では復縁なんて無理だろう。
「……皆様、私は用を思い出しましたので、先に教室に戻っていてもらっても構いませんか?」
女子生徒たちを校舎に帰し、カティアは渡り廊下の脇に植えられている木に近寄った。
「スティーブに蜘蛛を投げたのはあなたでしょう、エリク」
「……あ、バレた?」
悪びれもしない声が頭上から振ってくる。
枝葉は二階まで届いており、空き教室の窓は開いている。
カティアのいる下からは葉が邪魔になっているせいで空き教室の窓辺に誰がいるかまではわからないが、上からは下の様子が丸見えだろう。
ちょっと待ってね、と言ったエリクは窓から木の枝に足をかけ、軽々と地上に降りてきた。
「たまたま上から見えたので助太刀してやろうと思ったんですよ。俺たち、友達でしょう?」
「友達……になった覚えはないけれど、ありがとう」
人懐っこいエリクなら、喋ったことのある人は皆「友達」というかもしれない。
「いやー、しかし、ひどい野郎だよなあ。おもちゃとはいえ、女の子に虫を投げつけるなんて」
「貴方の目から見て、彼は次期王太子失格かしら?」
「いやいや、俺、そんな偉そうに言える立場じゃありませんしー」
「あら、そうなの? では、地方貴族の三男のふりをしてこの国の学校に潜入しているのは何が目的ですか、トナリノ皇国のエーリク皇子?」
「…………」
エリクはちょっぴり驚いたように目を瞬く。
「あれ? いつから気づいていたの?」
「馬鹿ね。自分の周囲にいる人間の素行調査をするのなんて当たり前のことでしょう? 特に、スティーブとの婚約破棄後に近寄ってきた人間ならなおさらよ」
自分を害する人間がいるかもしれないと警戒するのは当たり前のことだ。
カティアを慕ってくれている者たちの多くは純粋な気持ちからだが、不穏因子になりそうな人物がちらほらいることも把握している。こういうところがスティーブ曰く「可愛げのない」所なんだろう。
「地方伯爵家の三男で、騎士を目指しているとおっしゃっていましたよね。ですが残念ながら思いつく限りの殿方は該当しませんでした。あなたのおっしゃる伯爵家は確かに家庭事情が複雑で、正妻以外の子どもも大勢いると聞きました。その辺りの情報をうまく改ざんして、伯爵家の三男エリクなる人物になりすましていたんでしょう?」
つらつらと語るカティアにエリクは苦笑した。
「それから……」
「まだあるの?」
「ええ。幼い頃に私たち、会っていますよね?」
「!」
今度こそエリクは驚いた顔をした。
「覚えているの?」
「朧気ですけど。父に連れられてトナリノ皇国のパーティーに参加したときに、遠目で会釈をし合いませんでした?」
あのとき、スティーブも一緒だった。
彼はトナリノ皇国の貴族に褒めそやされて上機嫌になっていたが、カティアは知り合う大人たちの顔を記憶するのに忙しかった。相手の顔と名前を覚えるのは外交の基本だと教え込まれていたのだ。スティーブの代わりに自分が任務を全うしなければと必死になっていた。
そんな時、大人たちの影からひょっこりと顔を出した少年の姿が印象に残ったのだ。
直接の挨拶は出来なかったが、どこかの貴族の子どもだろう。後になって父に尋ねてみると「末のエーリク皇子ではないか」と教えてくれたのだ。
「堂々と留学生として入学していないということは何か事情がおありなのですね?」
「まいったなあ……。きみ、本当に頭の回転が速いね。俺は、一年限定でこの国に滞在しているんだ」
「一年限定……?」
「そう。お嫁さんを探そうと思って」
へらっとエリクは笑う。
「国内の有力貴族やめぼしい諸侯の王女は兄上たちが娶ってね。どうやら俺は好きな相手と結婚できそうなんだ。――幼い頃に見た優秀な令嬢が忘れられなくて、ダメ元でこの国にやってきたんだ。あれだけしっかりとした立ち居振る舞いのできる公爵令嬢ならとっくに婚約しているだろうし、無理だろうなあと思いつつも、成長したきみに一目会いたくてやってきてしまった」
そうしたら、「完璧令嬢」として近寄りがたい存在になってしまっていた。
とても地方貴族の三男坊が声を掛けられるような相手ではなくなってしまっていたのだが……。
「やっぱりきみって面白い。婚約破棄されて自棄をおこしたつもりなんだろうけど、元々の性格が真面目なんだろうね。ただの親しみやすい令嬢になっていて、ますますきみに惹かれたよ。思いがけずきみに近づけて良かった。それから、きみには申し訳ないけれど……あの王太子と婚約破棄してくれてほっとした。彼と一緒になっても苦労する未来しか見えないしね」
「そ、それはどうも……?」
「やっぱり俺、きみが好きだ。カティア、俺の元に嫁いできてくれない?」
さらりと告げたエリクは片手を差し出した。
カティア様素敵です! かっこいいです! 王子様みたいです! とこの数日間女生徒たちからちやほやされてきたが、やはり本物の皇子様は何気ない仕草でも様になる。カティアは大いに戸惑った。
「えと……、私、婚約破棄されたばかりですし……」
「そうだね。しばらくはごたごたするだろうけど、早く決着がつくように俺も尽力するよ」
「男装などしているおかしな令嬢ですが……」
「可愛いし良く似合っているよ。もちろん、スカート姿も可愛いと思っていたけれど、今のようにのびのびと暮らしているきみの方が何倍も可愛い」
にこにこ笑ったエリクに詰め寄られる。
爽やかな青年だと思ったが、危険をはらんだ猫のような目はまさしく皇族らしい底知れなさを持っている。そのいたずらっぽい微笑みにカティアはどきりとしてしまった。……そもそも、男性相手にときめくなんて初めてのことかもしれない。
「……『完璧令嬢』もそんな顔をするんだね」
「ど、どんな顔ですか⁉」
「世界一可愛い顔だよ。返事は今すぐじゃないから、ご両親とも話し合ってもらっていい」
そして余裕ある態度でカティアから離れる。へなへなとその場に崩れたカティアは顔を抑えてしゃがみこんでしまった。
可愛げがないだのクールだの言われていた自分はどこへやら。
どうやらカティアは『完璧』の皮を被れない相手と出会ってしまったらしい。
突然の求婚に驚きつつも、嬉しいと思ってしまう自分がいた。親同士の決めた結婚でもなく、自分が頑張らねばとプレッシャーをかけられるような関係でもなく、純粋に心ときめける相手と出会えたのだから。
◇
数年後――。
トナリノ皇国では末の皇子がまさかの下克上で皇帝位についた。
その傍らには美しくも聡明な皇妃がいつもいて、二人はいつ見ても仲睦まじく「完璧な夫婦」として国民たちの憧れの的になった。
一方、王太子スティーブはと言うと……。
過酷な王妃教育に耐え兼ねたアイリが逃げ出し、新たな婚約者を探すも年頃の令嬢たちからは断られ続け、ずいぶんと婚活に苦労するはめになったらしい。
おしまい