七話:汚名丸出しの長ったらしい定冠詞
家に着いた。久しぶりの我が家だ。カレンダーを見ると、四月も終わろうとしていた。テレビをつけると、ゴールデンウィークに向けた天気予報をやっている。四月になっていることは端末の表示でわかっていたのだけれど、カレンダーというアナログなもので改めて見ると、時間の経過を再認識させられてしまう。ロクと出逢ってから、一ヶ月と一週間が経過していた。
部屋を見渡すと、霊殿に砂鉄爆弾が撃ち込まれた時に立ち寄り、ロクがコーヒーを注いでくれたグラスがそのまま干からびていた。ベッドもぐしゃぐしゃのままだった。あれから十日。でも、その時は少し立ち寄っただけで、ほとんど何もしていない。その前はというと、さらに一週間前、初めて霊界に向かう前の日の夜である。まだ二週間ちょっとしか経っていないのに、もう何年も前のことのように思えた。それほど、いろいろなことが起こり過ぎ、変わり過ぎていた。
「埃っぽいな。簡単に掃除をするよ」
「あ、じゃあ、わたしもお手伝いしましょう」
僕らは、いろいろ考えなくちゃいけない。今回は、自ら進んで積極的にというよりは、強制的に無理矢理にでも考えなくてはいけない。
イヤなことというか、面倒なことというか、厄介なことを考えるには、掃除はちょうどいい。頭の中が整理できず混乱しているときに、物理的に整理し綺麗にすることで、バランスを保つことができるのだ。見方によっては現実逃避とも受け取られかねないが、意外とこの方法は有用で、バランスが取れている方が思考にスムーズに入れるし、理路整然と精神的に安定して進めることができるのだ。だからこの場合、考えを巡らしながらうわの空で掃除をするのではない。先に、とにかく清掃整理整頓を集中して行い、物理的な方を片付けてしまうことこそが重要なのである。
どうやらロクもこちら派らしい。それこそ一心不乱に黙々と掃除を進めていた。窓を開け、埃を落とし、片付けをし、掃除機をかけ、布団をはたく。食器を洗い、トイレを掃除し、風呂を掃除し、ゴミをまとめる。一人でやれば三時間コースであったが、二人とも素晴らしい集中力と手際の良さで、一時間もかからなかった。
掃除がひと段落したところで、僕はようやく口を開く。
「ロク、何か食べようか?」
「そうですね。わたしも慢性的なエネルギー不足でしたので、ぜひ食べたいです」
冷蔵庫を開け漁ってみたのだが、二週間を過ぎた今となっては、すべてが消費期限を過ぎてしまっていた。くそうっ! ここにもまだゴミがあったか! と残念に思うと同時に、トラヤロウが「これだから人間は!」と言っている姿が浮かんでしまった。富士の地下拠点では、消費期限ギリギリの廃棄処分の食材が有効に使われた食事ばかりであったのだ。
「ダメだ、ロク。何も残ってないよ」
「そうですか。お買い物に行くか、外で食べますか?」
「それもイマイチ気が進まないんだよな……」
「そうですね……」
「ピザでも頼もうか」
「ピザ?」
「あれ? 食べたことなかったか? 持ってきてくれるぞ」
「へぇ、ずいぶんと良心的なんですね」
端末で注文サイトに行くとロクがのぞき込んでくる。自分も選びたいと言い出したので、端末ではやりにくく、結局パソコンを立ち上げて一緒に選んでいった。というか、僕はまるでお店の人であるかのように説明をしなくてはいけなかった。
「ハラペーニョってなんですか?」
「それは辛いヤツだ。青唐辛子だな。唐辛子だから、ピリッとした辛さだ」
「カマンベールというのはなんですか?」
「チーズの種類だな。味はシンプルなんだけど、なんだろう、シンプルだからかな。わりと人気があるんだよ」
「イベリコ?」
「それは豚の品種だな。確かスペインとかポルトガルとか、ヨーロッパの方の豚だよ。美味しいとされているけれど、僕はどちらかというと鹿児島黒豚の方が好きかな」
「シュリンプ?」
「えびのことだよ」
「特徴はないの?」
「うん。まあ、強いて言えば『小さなえび』の総称だな。えびの種類を限定しないから、お店にとってはすこぶる都合のいい呼称だよな。『えびといえばブラックタイガーだ』なんてすかしたことを言う輩を、丸ごと煙に巻くことができる便利な単語だよ」
「ふぅん。チーズや豚にはとても細かな名称を使うのに、えびにはいい加減なんですね。えびに失礼です」
「ハハハ。えびは品種によって値段の格差が激しい上に、漁獲量による変動も大きいからな。そういうものはなるべく固定せずに、その時に安く仕入れられるものを使えるようにしておきたいんだろうさ」
「えびはピザ屋さんにとっての儲けどころということですね。……これは? モツァレラ? モッツァレラ?」
「どちらも同じだな。それもチーズの品種だよ。弾力があって美味しいチーズなんだけどな、できれば生で食べたいチーズかな」
「ふーん。じゃあ、今、聞いたものを全部」
「えっ!? 全部? そんなには食べられないだろう」
「せっかく説明を聞いたんだもの。試してみたいじゃないですか」
「とりあえず入っていればいいか?」
「そうですねぇ。しょうがないですねぇ。まあ、いいですよ」
そこからはもう大変である。四つの味が楽しめるピザに入っているかどうかとか、どうしても入っていないものはハーフハーフでアレンジしたり、その上さらに、サイドメニューまで食べてみたいと言い出し、注文するまでに四十分以上もかかってしまう始末だった。
「なんだか、便利そうに見えて、思った以上に時間がかかって不便ですね」
「お前の注文が多いからだっ!」
「それで? いつ来るの?」
「三十分後ぐらいかな」
「とてももどかしい時間です」
「まあ、掃除の前にでも頼んでおくべきだったかな」
「あー、なるほどぅー。じゃあ、やっぱり史章の失敗ですね」
どうにかして、僕の所為にしたいらしい……。まあ、来るまでの辛抱だ。コーヒーでも淹れて待つとしよう、と準備していると。
「で、史章はどうするの?」
「うん、それな…………。まだ何も考えられていないんだけどな」
「そうなの? わたしは炭酸がいいかなぁ」
「そっちかよ! というか、コーヒーしかないぞ」
「ええっー! 炭酸がいい!!」
「ふぅん。今から買い出しのために外へ行ったんじゃ、出前をした意味がないしな……」
大慌てでピザ屋に電話をして、ドリンクも追加でオーダーする羽目になった……。これはどうやら、富士の地下拠点での質素な食事の反動が来ているようである。まあ僕も実際、あそこでの食事は飽きてしまっていたし、せっかくなのでふんだんに楽しむことにしよう。
結局準備していたコーヒーはまた後にすることにして、以前買い置きしていたハズとパントリーを探していると、カップスープのコーンポタージュが出てきた。これでピザの美味しさも増すというものである。準備万全で待っていると、ほどなくしてピザが到着した。
「すごーい! こんなにアツアツで来るんですね! あー、もう、いい匂い!」
「そうだな。あったかいうちにいただこう!」
久しぶりに食べるピザは、しかも粗食の日々を過ごした後のピザは、極上に旨かった。本当は食べながら、これからのことについて話し合おうなどと思っていたのだが、もうそんなことはすっかり忘れてしまうほどに、食べることに没頭していた。
当然、ロクも大喜びの大はしゃぎだった。あっちに手を出し、こっちに手を出し、まあちゃんと一ピースずつは平らげていたから問題はないのだけれど、それはもう想像通りのピザを楽しむそれをしていた。
「うーーーーん! 美味しいぃ!」
「喜んでもらえて何よりだよ」
「霊殿にも届けてもらえないかしら」
「さすがに無理だろう。そもそも霊殿に人が入れないんだから」
「そうかぁ、残念ですねぇ」
「どうしても食べたいときは、持ち帰りをすればいいさ」
「そうですね。それにしてもコーンポタージュもいけますけど、炭酸もすごく合います。大正解でした!」
「そうだな。ピザってのは不思議な食べ物でな、二、三を除いて、ほとんどの飲み物が合う食べ物なんだよ」
「へぇ。その二、三ってのはどんな飲み物ですか?」
「基本的に和食に合う飲み物だな。暖かい緑茶、日本酒とか焼酎とか、そういったものかな」
「あー、なるほどぅ。日本酒とかお酒はわかりませんが、緑茶はわかります。けれど、……ねぇ、史章」
「なんだ?」
「お酒、飲んでみたいです」
「…………。買いに行かないとないぞ……」
「買いに行けばいいじゃないですか」
「買いに出たくないから、出前にしたのに?」
「食べたら、すこし元気も出てきました!」
「ピザが冷めてしまうじゃないか」
「温めなおせばいいじゃないですか」
「…………」
実際僕もピザを食べて少し元気になっていて、買い出しに行くのが億劫ということはなかったし、ピザを温めなおせば済む話だということは、わかっていた。わかっていたのだけれど、今日は大きな宿題があるのだ。ここで飲んでしまえば、何も考えることなくワイワイ楽しんで終わってしまいそうな気がしたのである。ゆっくりしている時ならば別にそれでもいいのだが、僕の宿題は早く結論を出さなくてはいけない。しかも結論を出した後は、すぐに準備を始めないといけないのだ。時間的余裕はなかった。
けれどロクはお酒を飲んだことがなく、いつか飲ませてやりたい、一緒に飲みたいという思いを抱き続けていたのも事実で、今という二人きりの状況は絶好の機会でもあった。しかも霊殿ではなく、僕の部屋である。周りに気兼ねしないでいいということにおいても、数少ないチャンスのようにも感じた。
「だいたい、お酒の話を出したのは史章なんですから」
「…………」
「その気にさせた責任を取って頂かないと」
「…………」
「ねぇ、史章」
「なんだよ」
「お酒、飲んでみたいです」
このロクのもう一押しに、負けてしまった……。
「わかった、わかった。じゃあ、すぐに買いに出るぞ!」
「やった……」
どこで覚えたのか知らないが、小さくガッツポーズをしていた……。
近所のスーパーに行き、代表的なビールを数本、カクテルを数本、梅酒ソーダ数本を買い、肴になりそうなモノをいくつかカゴに入れる。ピザを食べているというのもあって、肴もチーズやサラミ、ピスタチオといった、それに合うモノにする。たくさんの酒を買ったわけでもないので大丈夫だとは思うが、念のため『ウコンの源』もいくつか買って帰ってきた。
「うはぁ、ドキドキしますね。初めてコーヒーを飲んだとき以来です」
「ハハハ。そうか、あのコーヒーを飲んだときは、初めて酒を飲むときのような感じだったんだな」
「そういえば、あの時も、この部屋で重大発表をした時でしたね」
「そうだったな。まあ、まずは乾杯しようぜ!」
「ええ。じゃあ、かんぱーい!」
「かんぱい!」
ロクは、恐る恐るビールに口を付ける。が、やはりというべきか、僕の想像通りのなんとも言えない表情をするので、大笑いをする。
「苦かったか?」
「……これの、なにが美味しいんでしょう…………」
「ハハハハハ。初めはそんなもんだよ」
「シャルにこの前聞いたら、『とっても美味しいですよ』って言ってたので、楽しみにしていたのに……。なんだか残念です……」
「あいつ! やっぱり酒好きだったんだ! なにが『炭酸をいただきました』だ!」
「えっ? なに、それ?」
「いや、そんなこと言ってた時があったんだよ。それより、そのビールは僕が飲むから、お前はこれを飲んでみたらどうだ?」
危ないところだった。あの話を詳細にしたら、どうしたって砂鉄爆弾に行きついてしまう……。せっかくの楽しい時間が台無しになるところだった。ロクには、ピーチフィズを渡した。
「あ! これは美味しい!! 桃のジュース?」
「うん、桃のカクテルだよ」
「へぇ、これもお酒なんだ。これをいっぱい買えばよかった!」
それから数時間、極めて最近の昔話をしながら、ロクの初めての酒を楽しんだ。
カクテル三本と梅酒ソーダも二本を飲み干し、少しばかり饒舌になったロクだったが、それほど酔いが回っている様子もなく、どうやら酒には強い方のようだった。霊体にも酒に対する個体差があるらしい。
とりあえず今日の酒はここまでとし、効果があるのかどうかはわからないのだけれど、食事の前に準備していたコーヒーを淹れて酔いを醒ますことにする。僕はいつも通りのブラックで、ロクには一緒に買ってきた牛乳を泡立てて、ラテにしてやった。
「へぇ、コーヒーをこんな風に飲む方法もあるんですね」
「うん、お前には全く関係ないけれど、ラテの方が胃に優しいらしいぞ」
「ふぅん。効果はさておき、わたしはこっちの方が好きです」
「本当はこれをやるのはすごく面倒だから、今度やるときに教えてやるよ」
「んまぁ! 愛するロクのために、毎回僕が淹れてあげるよ、ってならないんですか!?」
「あぁ……、うぅ……、ロク、僕はそういうのがどうも苦手なんだ。気が向いているときは凝ることも出来るんだけどな。いつもやらなくちゃいけない、ってなると途端に億劫になってしまうんだよ。だから、今回みたいなことがあったときは、『ラッキー!』ぐらいに思ってくれると、それはもうとても嬉しいんだけど……」
「お断りします」
「んー……、なんで?」
「だって、それだと、わたしがして欲しいことは、史章の気が向くまで、わたしだけ我慢しなくてはいけないことになるじゃないですか! もう、これから『して欲しいことはしてくれない史章』って呼ぶことにします!」
そういうと、ロクは例の、頬をぷぅと膨らますヤツをした。
「なんだ! その汚名丸出しの長ったらしい定冠詞は……。はぁ……、わかったよ。じゃあ、気が向くように努力します」
「それじゃあ全っ然ダメです! して欲しいことはしてくれない史章」
今度はそっぽを向く。
「かなり気が向くように努力します」
「ダメです! して欲しいことはしてくれない史章」
「とてもかなり、ずいぶんと気が向くように努力します」
僕が苦悶の表情でそう言うと、ロクは下を向いて、クククと笑う。
「まったくもう……、しょうがないですね。じゃあ、それをお願いします」
結局、最後は二人で笑ってしまった。




