六話:混迷の霊殿
富士地下の霊虎の拠点を離れ、ひとまず地上に出る。羽衣の胸元を緩め、久しぶりの新鮮な空気を、大きく吸い込んだ。ロクはそのまま上空まで昇っていく。止まることなく上へ上へと、富士山頂の上空にまで昇ってきた。
ちょうど陽が落ちる瞬間。富士の山峰は雲の上にあり、夕陽はその雲海の中に隠れていくところだった。すべてがオレンジ色の世界。美しく雄大で厳かで、まるで心が洗われるような景色。
ひとたび噴火が起これば、この景色も失われる。富士山の形状も変わってしまうのだろう。多くの人間が死んでしまうことは大きな問題ではあるが、この日本の象徴ともいえる景観を失うことも、歴史上においての分水嶺になるかもしれない。『噴火前の富士山』などという写真が、日本の観光ガイドや教科書なんかに載せられて、失われた美しい情景に落胆にする社会の様子が、手に取るように容易に想像できる。だからこそ、霊虎の人為的というか霊為的な噴火で失わせてはならない、守らなくてはならないと、強く想ってしまった。
「なあ、ロク」
「なんですか?」
「僕の部屋に寄ってくれないか?」
ロクは早く霊殿へ戻りたかったのだろう。すこしだけ間を置いて僕の要望に応えた。
「そうですね。……ええ、そうしましょう」
「すまないな。早く戻りたいところ」
「いえ。わたしにとっても、その方がいいかもしれません。霊殿には連絡とわたしの記憶も送っておきましょう」
「うん。わかった」
※ ※ ※
―― 霊殿 ――
「大王様、キャス姉さんから連絡が来ました!」
「そうか! して、なんと」
「キャス姉さんもタカさんもご無事のようです」
「そうか。よかった……。じき戻ってくるのであるな」
「それが……、下界のタカさんの住処に立ち寄ってから戻ると……」
「ふむ……わかった。まあ、よい。なにか準備でもあるのであろう」
「あと、霊虎拠点での様子を記したレコーダーも送ってくれました」
「うむ。では、幹部連中に作戦会議室に集まるよう連絡せよ」
「わかりました」
どうなっておるか気が気でなかったが、ひとまず無事が確認できただけでもよしじゃ。ロクとタカが命を賭して得てきた情報である。ワシらで分析を進めて、有効な手立てを考えてやらねばならんし、それがワシらのしてやれる報いでもある。なんとしても、これまでの屈辱を晴らしてやるのじゃ!
ほどなくして、皆が集まる。シャルとサルメ、ナムチとアルタゴス、リツネとそれに、ティルミンも同席した。シタハルが準備を整え、皆に向かって言う。
「記録はかなり長いです。ちょうど富士の地下にいた三日分丸々あります。八倍速から十二倍速程度で、適宜変更して再生します。会話などは等倍速に戻しますが、それ以外でよく見たいところはおっしゃってください」
―― 数時間後 ――
「記録は以上になります」
シタハルは静かに言った。ワシはテーブルに顎を乗せたまま、考え込む。が、それはこの場に居る全員が同じように頭を抱えておる風じゃった。重苦しい雰囲気の中、ティルミンが口火を切る。
「なにを揃いも揃って難しい顔をしているのですか? 霊虎の戯言などに惑わされてはなりません。わたくしたち霊殿の使命は、霊界と下界、つまりは人間と下級霊とのバランスを保つことにあります。このバランスの元に、わたくしたちを含めたこの世界が、未来永劫に継続できるのです。悩みが入る余地など皆無です!」
「その通りじゃ。その通りなのじゃが、心の中になにか、引っかかるものがあるのも事実じゃ」
「あなたも、キャスミーの心の揺れにあてられているだけです。そのキャスミーは恐らく、タカにあてられているのでしょう。タカが変わらないのであれば、霊虎討伐から外さなくてはなりません」
「なにを申すか! これまでの功績ももちろんじゃが、今のこの情報ですら、タカが居てのものであるぞ!」
「それは百も承知です。ですが、もしここにタカが居なければ、誰一柱として、こんなバカげたことで頭を悩ましたりしないでしょう。霊虎の言葉でひとつ共感できることがあるとすれば、人間の行動はここのところ目に余る、ということぐらいです。確かに少しばかり人間には制裁が必要であろうところに、タカという人間がこの霊殿に来たことによって、皆が間違った思考に陥ってしまっているのです。わたくしたちがこのことを見誤ってしまっては、この霊界を含めて、世界は崩壊してしまいます。そのことを忘れてはなりません!」
ティルミンは審判所の長であり、その言葉は重いものじゃ。普段であれば、そのひと声で皆が躊躇なく動く。じゃが、それでも此度は、皆一様に険しい表情を崩すことはなかった。タカの所為というのも、確かに一因としてあるやも知れぬが、それだけではのうて、やはり皆がそもそも持っておる感情があるが故、何かを迷わせ決断できずにおるのじゃ。タカの所為だけにしてしまうのは、むしろ反発心を呼び起こすだけというものじゃ。
「霊虎を討つ、討たんは、ワシが責任を持って決断する。じゃが、決断をしてからの準備では後手に回ってしまう。富士の地下トンネルは十一本のうち五本を塞いだ。霊虎が取り除くにせよ、新たに掘るにせよ、放置するにせよ、討つとなれば力を取り戻す前の今が好機じゃ。討つとなればどう攻めるのか? 今はまずそのことをしっかりと考えようぞ。よいか!」
「「「はっ!」」」
「では、霊虎の防御網の対策、これについてはどうなっておる? アルタゴス、救出作戦を検討している段階から考えておったな」
「はい。霊虎の防御網は、戦闘時に使用しているものと同じものを、あの大きな範囲に展開していると考えられます。そこで、霊虎の防御網を突破するために作った武器の考えを取り入れまして、突破を可能にする大きめの盾のような破城槌を検討しております」
「ふむ、なるほどのぅ。よし、進めて参れ!」
「はっ、わかりました!」
「ナムチ、奪われない回復薬の開発はどうなっておる?」
「はい。現在、二面から進めてございます。ひとつは、錠剤そのものを改良しまして、時間コントロールをします。例えば、一時間後に錠剤の溶解が進み、回復が始まるといったものです。これにより、戦闘が時間を意識したものに変わります。五十分あたりで最大のエネルギー攻撃を仕掛け、十分後に回復という具合でございます」
「ほぅ。戦略を立てる必要があるのぅ。開始早々の十分程度でエネルギー切れになった際はどうするのじゃ?」
「その場合が問題なのですが、エネルギーに余裕がある霊柱との相互共有や、タカさんの回復に頼らざるを得なくなります」
「ふむぅ。課題ではあるのぅ。で、もう一つは?」
「はい。こちらは薬そのものの改良になりますが、製造十時間後に自己分解し消滅してしまう構造にすることです。仮に奪われたとしても、よっぽど霊医学に精通していない限り十時間以内に回復薬を解明し、製造できるレベルまで分析することは不可能です。実際には製造して戦闘現場に赴くまでに数時間は経過しますので、事実上戦闘開始から七時間後ぐらいに消滅することになります。奪われて消滅するまでに服用された分は回復の効果を与えてしまうことになりますが、製造されてしまう危険性はなくなります」
「うむ。両方を併用することは可能であるのか?」
「はい。それも視野に入れまして、実際の運用に適した時間にそれぞれコントロールが出来ればと開発を進めてございます」
「あいわかった。はようテストできるようにせい!」
「心得ました」
「シタハルよ、おヌシは霊虎討伐の作戦を立案せよ。むろん、アルタゴスの武器開発やナムチの回復薬開発も作戦に大きな影響を及ぼす故、緊密に連携を取るようにな」
「はい」
「メンバーは今回のトンネル封鎖作戦に参加した面々と考えて、それぞれの力量も頭に叩き込んでおけ、よいな!」
「はい! ……あのぅ」
「なんじゃ?」
「タカさんは……」
「もちろん含めよ。ティルミンの話はあくまでもタカが反意を示した場合のものでしかない。ワシはその可能性はほとんどないと思うておる。じゃから、フルに組み込むようにせよ」
「はっ!」
「ティルミンもよいな」
「ええ、それは問題ございません」
「よし! では、皆すぐにとりかかれぃ!」
さて、ひとまずは取り繕ったが、一枚岩とはいかんのぅ。さて、どうしたものか。しょうがあるまい、一肌脱ぐとするかのぅ。まったく…‥やれやれじゃ。
※ ※ ※
ああ、もう。ロクも、タカも、何をやってるんでしょう……本当にもう。いや、でも今回はロクとタカを責めるのは酷というものでしょうね。もし、わたしも目の前で、霊虎のあのような姿を見れば混乱したかもしれません。とはいえ、ティルミン様にあのような発言をさせてしまうのは、さすがによろしくない状況です。
ふぅ。ちょっと会いに行ってみましょうか……。いやでも、二人きりで居れる数少ないチャンスに邪魔をするのもなぁ……。ホント、面倒なんだから……。
と、そんなことを考えていると、サルメが話しかけてきました。
「ねぇー、シャルちゃーん」
「なんですか? サルメさま」
「タカくんとー、キャスミーはー、付き合ってるんだよねぇー」
「ええ、まあ……、恐らく……、そういうことになるかと……」
「うーん。返事がぁー、中途半端ぁー。まぁ、いいかぁー。あんまりー、いちゃいちゃしてなかったけどぉー、二人の意見はー、合致してると思うー?」
「さぁ、どうでしょう。合ってるとは思いますけど……。ところで、付き合ってるかどうかってのは、関係ないですよね」
「シャルちゃん、まだまだだねぇー。関係あるよぉー」
「どこがですかっ!」
「付き合ってなかったらー、バラバラでもいいけどぉー、付き合ってるのにぃー、バラバラはダメでしょー。マズいでしょー。深刻でしょー」
「あー、なるほど……」
「ぷぷぷー、シャルちゃん、チョロいねぇー。ホントは関係なーい。ぷぷぷぅー」
ケタケタと笑うサルメが、なんだかとても腹立たしいです。まったく……。
「で、それがどうかしましたかっ」
「ぷぷぷー、怒ってるぅー。ま、それはー、置いといてぇー。キャスミーのねー、記憶映像が終わった時点ではー、バラバラのぐちゃぐちゃなんだよねぇー」
「そうなんですか! じゃあ、今、擦り合わせしてるんでしょうか……」
「たぶんねぇー。ティルさまもー、当然わかっててー、その上で、あー言ってるからー。そのぅー、なんというかぁー、ちょっと不安なんだよねぇー」
「……わたしは、……わたしはタカに、本人がイヤといわない限り、参戦してもらうべきだと思っていますから」
「うん。ボクもー、同じだよぉー。だからもしもー、ティルさまを説得しないといけないときはー、シャルちゃんもー、協力してねぇー」
「ええっー! ……わ、わかりました。……わ、わたしなんかで、お、お役にたっ、た、立てれ、立ち、た、立てますでしょうか?」
「フフフー。シャルちゃんも面白いねぇー。大丈夫だよぉー。シャルちゃんは長いからー、ティルさまの信頼ぃー、なかなか厚いんだよぉー」
「あ、ありがとう……ございます」
「じゃあー、その時はー、よろしくねぇー」
はぁ、なんだかうまく丸め込まれたような気がしてなりませんが……、仕方ありません。二人がどうなのか心配ですし、ちょっと様子を見に行きますか。