五話:虹色は正義が使うもの
川の中、僕と怨霊ロクは蛇と戦っている。二対一だ。今聞くべきことではないのはわかっていたが、思った瞬間に聞いてしまっていた。
「なあ。あいつ、蛇だよな。霊蛇ってのは、やっぱり元は蛇だったってことか?」
「なんじゃ、えらく余裕じゃな、人間」
うっかりしていた……。今は怨霊ロクの方だった……。
それはちょうど、仲のいい友達と、初めて一緒に行動しているヤンキー(この場合、仲のいい友達とヤンキーは友達である)と三人で並んで歩いていて、仲のいい友達に話をしたつもりがそいつは反対側に居て、間違ってヤンキーの方に話しかけてしまっていた……、という気まずさと後悔と、同じ類のものだ。
こういう場合はあれだ、そのまま何事もなかったように話し続けるのが正解だ。
「まったくその正反対だ。蛇のお化けなんか初めて見るからな。しゃべってないとどうにかなってしまいそうだ。で、どうなんだ? 元が蛇ならば、そこまで賢くはないだろう?」
「ふん、小賢しいな。まあよかろう。
蛇の霊じゃからといって、元も蛇ということはないぞ。他の動物であったり、元が神だったりもするしな。それよりも、元が人間ということの方がもっとも多いんじゃがな。今目の前にいるアレも元は人間かもしれぬな。以前、女に化けて獲物を摂っておったからな」
「なんかいろいろツッコミたいことがあるんだが、とにかくアイツはバカじゃないってことだな」
「そういうことじゃ。ヌシはしっかりと逃げ回っておれ」
逃げ回るといっても、水の中である。この川は確かに大きな川ではあるが、本来なら水深一、二メートルといった程度のはずだ。しかし空間も歪められているのか、水の中はまるで海のように深かった。深かったというよりも、底が見えなかった。ただでさえ泳ぎが苦手なのに、僕の足が人魚の尾にでもならない限り、蛇の水中移動に敵うはずもない。
だが、今は怨霊ロクが僕の味方である!
怨霊ロクは不敵な笑みを浮かべて、霊蛇と対峙していた。あの憎悪の塊が自分に向けられたものではないと、こうも頼もしいものなのかと、感心せざるを得ない。
(まったく、なんてさもしいヤツだ。僕という人間は)
少しばかり自己嫌悪にあったが、今は目の前の敵が優先だ!
ロクが言っていたのをいいことに、僕も調子に乗って「下級ヤローがぁあ」なんてほざいてしまったが、その図体は、僕や怨霊ロクの軽く二倍以上あった。力も相当なもので、掴んでいた僕の足を折ってしまうぐらいは造作もない、引きちぎることも余裕なのではないかと、さっき掴まれたときに十分に体感させられていた。
怨霊ロクには遠く及ばないが、怨念も相当なものである。僕はすでに怨霊ロクの憎悪の塊を知っているので、霊蛇の怨念には吐き気がするくらいで済んでいるが、初心者だったら絶望感に卒倒しているだろう。
(あれ? ロクは相手が脳筋でも大丈夫なのか?)
と思うや否や、
「なめるでないぞ、小僧。そこでよく見ておれ」
はい、大船に乗った気でいます……。
ロクがツメを伸ばす。指の長さの五倍以上はある。
霊蛇に切りかかる! 目で追うことが不可能なほどの早い動き!
喉元を、どこまでが喉でどこからが胴なのか全くわからないのだけれど、とにかく喉のあたりであろう所を切り裂く。
よしっ! 決まった!
そう思われたが、霊蛇はあえて身を切らせるその機会を窺っていたように、ロクを尻尾で捕まえた。
霊蛇の首をよく見ると、不相応に綺麗な色の鱗でガードされて、かすり傷程度だった。霊蛇はとぐろを巻き、ロクを縛り上げる。ロクは苦しそうな表情を見せ、ギリギリと食いしばる口元から気泡が漏れる。巻き付いた霊蛇の胴体が、じわりじわりと動き、きつくきつく締め上げていく。蛇は自分より大きな獲物でも、内臓を破壊し、骨を砕く。ロクは苦悶の表情になり、声にならない悲鳴を上げた。
「ロク!!」
これでは大船どころか、難破船だ。
何とかしなければ! 僕に何ができる。
霊蛇に攻撃など効くはずもない。
ならば、僕にできることは一つだ!
―― できるだけロクに近づく! ――
幸い霊蛇は、ロクを縛り上げるために全身を使っている。
僕に攻撃をする手段はないのだ。
それでも霊蛇に悟られぬよう、一旦下に潜る。
そして霊蛇の下方背面から迫り、恐る恐るゆっくりと、背後に張り付いた。
ロクに近づいた。
効果は出たのだろうか。
蛇を目前に、その綺麗な虹色鱗に包まれた皮膚はとても堅そうだった。
これで、僕が締め上げられたら間違いなく即死だ。
「悪魔のような奴のくせに、なんで虹色鱗なんだよ!
虹色ってのは、正義が使うのが相場なんだよ!!」
よくわからないが、怒りがこみあげてきて、気づけば
渾身の力で殴っていた……。
奇跡などということは、ほとんどの場合、起きないものだ。周りがみて奇跡だと感じることのほとんどは、本人の労力・努力が手繰り寄せた結果であって、本人にしてみればやる事がうまくハマったぐらいのもので、やはり自分の努力が結実したと思っているものである。だから、ただ奇跡を願う人に奇跡は決して起こらないのだ。
つまりはまあ、僕には起こらないのだ。
勢いに任せて霊蛇を殴ってみたものの、相手に僕の存在を気付かせるだけで、何の効果もなかった。むしろ、残念なことに僕のこぶしの方が負傷した。蛇は首をくるりとこちらに向けて、僕を食い殺そうと大きく口を開けた。
(あ、)
そう、蛇には巻き付いて縛り上げる攻撃ともうひとつ、噛みついて砕いたり、毒で相手を弱らせる攻撃があった。どうやら僕の人生も終焉の時が来たようだった。
「ようやった!」
怨霊ロクの声が聞こえたかと思うと、霊蛇の巻いたとぐろからするりと抜け出し、そのまま大きく開けた口の中に入っていった。なんというか、自ら食われに行ったわけだが……。
「中から攻撃するってことだよな!」
「いかにも!」
蛇の酸や消化酵素は強烈らしいけれども、大丈夫なのだろうか。早くしないと、溶けてしまう。当の霊蛇はロクをやっつけたとしたり顔で、ターゲットを僕に切り替えた。
怨霊ロクが負けるようなことがあれば、僕など逃げたところで延命できるのはわずか数秒だ。ならば、できるだけ、できるだけロクの近くにいる方がいい! 死なば諸共だ!
霊蛇は僕の体に巻き付く。痛い!
軟弱な僕の体は、もう既に骨が折れているに違いない。
だが、蛇は手を緩めない。
じわりじわりと締め上げられる!
痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!
バキバキと骨が砕ける音がした。
スローモーションで、体の中が壊れていくのがわかった。
血が、体中の穴から噴き出してくる。声をあげることもできない。
意識が朦朧とし、諦めかけたとき、
霊蛇のとぐろが緩んだ。
腹が膨らみ、苦しみ始める。
霊蛇がカッと目を見開いたかと思うと、腹が裂けて、ロクが出てきた。
そして、すかさず蛇に向かって手をかざし、黒炎を放出する!
黒炎は青い炎を上げ、霊蛇を包んだ。
「待たせたな。アヤツの皮が思ったよりも厚くてな。生きておるか?」
「ギリギリ……。でも、さすがにダメっぽい。もう痛みの感覚もないし……。
まあでも、お前が無事でよかった。あとは任せる」
最後に、憎まれ口でも叩いてやりたかったが、もうその気力も失われていた。
至極残念だ。
「バカもの! 寝言は寝てから申せ!」
「?」
「もうヌシの体は治癒しておるぞ!」
「え!? おおう!」
「あまりに軟弱じゃから、少しばかり強度を上げておいたぞ」
「え!? 僕の体になにをしたぁあ!!!!」
「よしよし、戻ったな。心配せんでよい。少しばかり骨密度を上げただけじゃ」
思わず自分の体を見直す。
大きな変化は見られないが……、どうも釈然としない。
おかしなところがないか、水中でシャドーボクシングなどをやってみる。
「いきなり強化人間のようになっていたらどうしてくれるんだ!」
「安心せい。おヌシは根本が貧相じゃからな。断じてそんなことにはならぬ。ワシはもうひと仕事あるでのぅ、ちょっとそこで待っておれ」
怨霊ロクはそう言うと、燃え盛る霊蛇にもう一度手をかざし、今度はなにやら吸収し始めた。でも、あの吸収しているものの正体は、僕にも分かった。
怨念の塊、負のエネルギーだ。
霊蛇はみるみる小さくなっていき、手のひらサイズにまでなったところで、ロクに捕まえられた。立場逆転である。僕は自分の功績でもないのに、ざまあみろと思った。
怨霊ロクはもう片方の手で、印かなにかを結んだのだろうか? 何かを呼び出しているそぶりだ。
すると、
「ぉぉぉおおおおお!!!!」
川の水が割れていく!
圧巻の光景である!!
「モーセの水割り!」
生まれて初めて見たが、これは感動である。
モーセが来るのだろうか?
もし来たら、モーセは霊界人ってことになるな。あー、なるほど。それならばいろいろな伝説もうなずけるぞ。
あれ? ってことは、キリストも霊界人か! これは、これは。僕はとうとう世界の謎を解き明かしたのかもしれないぞ。
いろいろと期待と夢を膨らませていると、ぼんやりと現れ始めた!
んー、なんか小さい気がする……。
モーセは小さかったのか……。
姿を現したのは……、
ねこだった…………。
※ ※ ※
怨霊ロクはねことなにやら話している。当然僕の知らない言葉だ。まあ、そこはスルーしていい。向こうの事情である。それよりもなによりも、絵面が少しばかり滑稽なのだ。どこからどう見ても、怨霊ロクが小さなねこをいじめているように見えるのだ。別にそれだけなら、どうということはないのだけれど、時々、怨霊ロクがねこにお辞儀をしている。あの怨霊ロクがである。
察するにつまりは、あのねこは恐ろしくエライ、ロクに言わせれば超上級とか最上級ということになる。超・最上級を怨霊ロクがいじめる図、ということを考えると、どうしても僕は激写しておきたい心境にかられる。もしかすると今後先々で、ちょっとした交渉に使えるかもしれない。
一人と一匹に気付かれないように、そろりと電子端末を取り出す。
が、僕の野望はあっさりと打ち砕かれた。電子端末は、ちゃんと水没していた。
僕が地団駄を踏んでいると、一人と一匹がこちらを見た。
一人と一匹は二言三言交わすと、一人と一匹で近づいてきた。
「おヌシよ、一匹はあっておるが、一人ではないぞ。一柱であるぞ」
「あ、ロク、お前また僕の思考を勝手に! しかも、一柱って、むしろ正反対だろ!」
「ヌシ、御前であるぞ」
卑怯な奴だ! まったくもって卑怯な奴だ!!
「初めまして、継宮と申します」
姿勢よろしく、お辞儀よろしく、ビシッと決めてやった。
「ふぉ、ふぉ、あなたが新しい依代ですにゃ。それにしても、あのキャスミーロークをロク呼ばわりとは。なかなか、なかなか、ユニークなお方ですにゃ。期待しておりますにゃ。キャス……、ロクをどうぞよろしくお願いしますにゃ」
「は、はい。不束者ですが、こちらこそどうぞよろしくお願いします」
にゃ、って言った……。
というか、お願い……なのか? 僕がお願いされる側なのか?
僕はあまりにも定型なあいさつに面食らってしまっていた。
「それではお父上、よろしくお願いします」
「うむ、わかった。では息災でな」
「ありがとうございます。お父上こそご息災で」
にゃ、を忘れてるぞ! まあ、それはいいだろう。察するにあの『にゃ』は、きっと僕への配慮だ。それよりもだ。
御前と父上。
この二語が正しければ、ロクは姫ということになる。姫なのか……。
激写できていたとしても何の意味もなかったな……。
そんなことを考えていると、モーセねこは帰っていった。僕は一礼をして見送った。水割りは消え、川は元の姿に、平穏を取り戻した。ようやく、ようやく終わったのだ。
体は怨霊ロクが治してくれたのだが、それでも精神的に疲れていた。
今朝の出来事からまだ十数時間しか経っていなかったが、まるで何日も戦い続けたような疲れだった。
「ロク、帰ろう」
「そうですね。わたしも疲れました」
横を見ると、少女ロクになっていた。しかも、前よりも小さくなっていた。力を極限まで使い果たしたのは明白だった。ただ同時に、たくさんの聞きたいことも増えていた。
が、今は二人とも疲れ切っている。野暮ってもんだ。
「ロク、疲れたろう。中で休んでていいぞ」
「では、お言葉に甘えて……。何かあれば呼んでください」
「ああ、たぶん、大丈夫だ」
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそだ。ありがとう。じゃ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
辺りはすっかり暗くなっていた。
川も街も、いつもどおりだった。
僕は帰路についた。