十六話:苦しみを胸に、抱えたまま前へ
その日の午後、霊界に初めての雨が降った。アルタゴスの仕事の早さには全く頭が上がらない、驚嘆の限りである。が、本人曰く『元々、雨を降らせてみたいと考えたときがあって、すでに方法論はあったのですよ』ということらしい。さらに今回は、何か予定されていた工場の建設が打ち切りになり、資材が余っていたため、すぐに砂鉄集積場が建設できたのだそうだ。それにしたって、である。下界のIT企業や建設会社なんかがアルタゴスの存在を知れば、引く手数多だろうよ。
窓辺から雨の降り注ぐ様をぼんやりと眺めていると、心配そうな声色でシャルが連絡を寄こしてきた。霊殿裏手にある丘の上で、ロクが雨に打たれているらしい。僕が丘に向かうとシャルもついてきた。丘のふもとに着くと、その頂上にロクの姿があった。遠目に見やるその姿は、直立不動で顔を天に向け、両の手のこぶしを握り締め、寂しさと悔しさに体を震わせているようだった。僕は視線をそのままに、シャルに話しかける。
「なあシャル」
「はい……」
「お前はたった一人で、今のロクと同じ、いやそれ以上の想いを抱えていたんだろう?」
「………………。」
返事がないシャルに顔を向けると、その目頭から一筋の涙がこぼれ落ちていた。シャルはロクの方を見やり、僕の顔を見てはいなかったが、僕はすでにシャル以上に涙を流していた。ロクの姿を見て、手からこぼれ落ちるウワハルを思い出し、その後に見せたシャルの乾いた表情を思い出すと、自然に涙が流れ出ていた。
「その気持ちはとても大切なものというか、何にも代えがたい崇高なものだと思うんだ」
「………………。」
「だから、心の奥底に押しとどめたり、なかったことにしたりする必要はないと思うぞ」
「………………、はい…………」
「心の痛みを知るお前だからこそ、あの医療現場での僕を救えたのだし、今からロクを救うんだ」
「……は……い…………」
「霊だろうと人間だろうと、死を悲しむ想いが無意味なもんか! 悼む気持ちが無意味なもんか! 救いたいという想いが無意味なもんか!」
「はい………………」
「僕は、お前がとてつもなく心豊かな、感情豊かな霊であったことに、心から感謝しているぞ。ありがとうな!」
「いえ……、わたしの……方こそ、ありがとう…………ございます」
「よく……、これまで、よく頑張ったな……」
シャルは泣き崩れる。それまで静かに、一生懸命こらえて嗚咽していたのだが、声をあげて泣いた。僕はシャルの横に屈みこみ、シャルの頭をなでながら言う。
「この次からは、……いや、今もだな……。お前だけじゃないぞ。僕も、ロクも、一緒に泣いてやる。だから、困ったときは、辛いときは、苦しいときは、心の奥底に封じ込めんじゃなくて、ちゃんと言えよ」
「はい……、う、うっ……」
「ロクを迎えに行こう」
「まだ……うっ、涙が……う、止まらなくて……う、うっ」
「そのままでいいさ。そのまま行ってやろう。一緒に泣いてやろう。一緒に雨に打たれてやろう」
僕はシャルの手を取り、丘の頂上に向かう。歩み寄る僕らに気付いたロクは、僕らの中に飛び込んできた。そして三者で肩を寄せ合い、声をあげて泣いた。
僕はこのとき、ようやくにして、完全にタガが外れた。今までは、ロクのためや、シャルのためや、言仁のためや、いろんなことのために、どうしても自分が折れるわけにはいかなかった。気を張り続けなくてはいけなかった。けれど、今は気持ちを緩めていいんだと気付くが早いか、堰を切ったようにいろんな感情が溢れ出てきた。
ウワハルの体がどんどん小さくなり、
どんどん霊圧エネルギーが失われていく、
あの状況が鮮明に思い出される。
自分の無力さをイヤというほど思い知らされ、
しかもそれは絶望と共に、
まるで永遠に続くかのように僕を責め続けた。
悔しさと無念さと、無力さと絶望が交錯する。
傍らで泣き崩れている二柱とは違って、僕だけは、悲しみに声をあげて泣くのではなかった。止めどなく涙が溢れては来るのだけれど、涙はボロボロとこぼれ落ちてくるのだけれど、それは絶望に打ち拉がれて胸がぽっかりと空いた、空虚な涙だった。
ロクとシャルの大泣きする姿を見て、こいつらに悲しい思いをさせたのは僕の所為だと思った。だからといって、あの時こうしていれば良かったというような、正解を見つけることもできない。自分のできる最善は尽くしたとは思っているけれど、それではなにも救えなかったのだ。
シャルが下した鉄槌も思い起こされる。僕が助けた霊の中には、迷惑に思っているヤツもいたんじゃないか? そう考えると、僕はなんてことをしてしまったのだろうと、何もしないでいた方がよかったのではないかとさえ思ってしまう。救ってほしいと願う霊を救うことができず、そのまま死なせてほしいと思う霊を延命させてしまったのだ。アベコベにも、チグハグにもほどがあるってもんだ。
ボクハイッタイ、ナニヲシテイルンダロウ……
言仁に向かって『現世には現世の、霊界には霊界の乗り越える厳しさがある』などとエラそうなことを言った。わかっていないのは、言仁じゃなくて、僕だ。ここの住人でもない僕が、一番バカなことをやっている。カレー事件のときに、自分自身に自重しろと誓ったのに、結局もっと酷いことをやらかしてしまった。また、取り返しのつかないことをやってしまった。
あれ? もしかして、この霊界急襲のきっかけを作ったのは、この砂鉄爆弾を招いたのは、僕なんじゃないか? 天叢雲剣を手に入れたりしたから、霊虎は攻撃を仕掛けてきた。その天叢雲剣を手に入れようと言ったのは僕だ。そうしなくちゃいけなくなったのは、僕が幽体離脱をできなかったからだ!
アア、ナンテコトダ、ボクコソガ、コノサイヤクノゲンキョウダッタ!!
そう考えてしまって、そう気付いてしまって、僕の中にあるもの何もかもすべてが崩壊していきかけたその瞬間、ロクが飛びついてきた。僕はへたり込んで座っていたのだけれど、ロクは僕の右腕に抱き着いてくる。続けて、シャルが左腕に抱き着いてくる。
「史章。あなたは無力なんかじゃありませんよ。間違ったこともしていませんよ。それに、この霊界に爆弾が落ちたのも、決してあなたの所為ではありませんよ」
「タカ、ごめんなさい。わたしが言ったのは可能性の話だけだったんです。本当に『やっと死ねる』と思ったのに救われてしまった、なんて霊はいませんよ。それにもし仮に、そう思う霊がいたとしても、救ったことが間違いだったなんてことはないんです。絶対にないんです!」
「史章、ごめんなさい。わたしたちがあなたに甘え過ぎてしまっていました。いつの間にか、知らないうちに、こんなにも傷だらけになっていたのですね。わたしはあなたのすぐ傍にいますから」
「わたしも、お傍におります、タカ」
ロクとシャルが傍に来て、言葉を投げかけてくれたおかげで、僕を支える芯みたいなものが崩れ落ちることだけは免れたのだけれど、それでも気分が晴れるというにはほど遠く、心は沈んだままだった。ロクの顔も、シャルの顔も、真っ直ぐに見ることができなかった。本当は、ここで笑顔を見せ、ありがとうと言ってやらねばならないのに、そんなことは全くできなかった。伏せた視線の先に、雨と一緒に玉のように流れていく砂鉄があった。
「少し……、少し時間をくれ…………」
長い時間をかけてようやく絞り出した言葉はそれだった。
そして、そう言ってしまうと、完全に脱力してしまった。
僕の姿勢は崩れ、仰向けに倒れる。
ロクとシャルは、一瞬僕を支えようとしたが、
そのまま自分たちも仰向けに倒れこんだ。
そして、そのまま雨に打たれた。
また両隣で、思い思いに泣いていた……。
心はぽっかりと穴を開けたままではあったが、
こうして寄り添ってくれている二柱は、
とてもありがたい存在だった。
※ ※ ※
少し落ち着いたこともあって、悪い思考、悪い発想だけが次々と押し寄せてくるようなことはなくなったのだけれど、それでも希望に溢れるような明るい未来へ繋がる思考なんてのは、今の僕には遥か遠くの彼方にあって、永遠に辿り着くことは出来ないものだった。だから、そのうち考えることに疲れてしまった。疲れてしまって、もういいやと僕の中で投げ出してしまったとき、ちょうど雨が上がった。
ふと、前にも似たような堂々巡りをしたことを思い出した。あの時も絶望の中にいて、人生最大の結論の出ない大難問のように感じていたわけだけれど、あれから十日も経っていないのに、また大難問に直面している。僕はいつからこんなメンヘラになってしまったんだろうと思うと、かすれた笑みがこぼれた。そういえば、あの時ねこ父に助けられたなぁ、などと思い返し、もう一度自分に、声を出して問いかけてみる。
「お前が本当にしたいことは何じゃ?」
そんなのはもう決まっている。そう、僕のしたいことは、もうはっきり決まっているのだ。全然ダメダメではあるけれど、やりたいことだけははっきりしていた。この点において、前回よりもとんでもなく辛い思いをしているのだけれど、今回の方が少しだけマシなところということかもしれない。
左を向く。シャルが目を丸くして僕を見ていた。きっと僕がいきなり阿呆なことを言ったからだろう。今度は自然に微笑んでいたんじゃないだろうか。僕は手を伸ばしてシャルを抱えると、左側に運んだ。霊体の彼女らはそんなに重さはない。非力な僕でも余裕で抱えられる。左側に持ってくると、僕とロクの間に、ちょうどロクの胸の辺りにシャルの顔の高さが来るように、滑り込ませた。手前にシャル、奥にロク、そしてロクとシャルの顔が上下に見える恰好だ。まあ、どちらも驚いた顔をしていた。
「これが、あなたのしたいことなの、史章?」
その言葉に、その言い方に、思わずクククと笑ってしまった。ロクは、僕の頭がおかしくなったんじゃないか? みたいな心配口調だったのだ。まあ、そりゃそうだろうな。
「ごめん、ごめん。僕のやりたいことは、あの黄泉列車のときはロクを守ることだけだったんだけどな、今改めて問い直してみたら、シャルも増えていたなぁ、と思ってな。で、ロクとシャルの顔を一緒に見たくなったんだよ」
「なにそれ…………。わたしの心配を返して欲しいわよ…………」
「ごめんよ。でも、お前とシャルが傍にいてくれて、結局答えはなんにも見つからないけれど、前には、少しは進めそうだよ。ありがとうな」
「あの……、わたしなんかが入って、いいんですか?」
ロクの顔を見ていた目線を下にすると、シャルはぐしゃぐしゃの顔をしていた。まあ、みんな泣いていたわけだから、もともとぐしゃぐしゃな顔なんだろうけれど、もう一度、でも今度は違う涙を流しているようだった。
「もう、さっき僕の心の内を見たんだろうから、わかっているだろう。いいも悪いもないんだ。これは、僕のやりたいことなんだからな」
「そうよ。だんだんシャルが陣地を広げていって、ホントにもうっ!」
「す、すみません、ロク……」
「いいわよ! 特別なんだからね! その代わり、シャルはわたしの班に入りなさい」
プリプリしているロクは、なんというか、一昔前のツンデレを見ているようで、可愛らしいし、つい苛めたくなってくる。
「なんだよ、お前の班って」
「今から作るのよ!」
「あ、あの、大王様に確認をしてみませんと……」
「シャル、その必要はないぞ。ロク、それは却下だ」
「なんでよ!」
「お前はもう既に、僕の班だからだ」
ロクは、ハッとした表情をしたかと思うと、次に嬉しそうな表情を見せ、最後に口を尖らせた。忙しいヤツである。
「そうでした。……でも……いつか、独立してやるんだからっ! 独立して、そのときは史章とシャルも入れてあげてもいいんですよ」
今まで一緒に泣いていた二柱と一人は、今度は一緒に笑っていた。雨が上がった後の霊界は、やはり地上のそれと変わらない仕組みのようで、上空には大きな、大きな虹が架かっていた。
本話にて、第四章完結です!
第五章はすこしゆっくりのペースでの投稿になります。
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どうぞよろしくお願い申し上げます。