好きな子がいた
好きな子がいる。
ずっとずっと昔から知っている少女。
ずっとずっと昔から一緒にいた少女。
そして、ずっとずっと昔から好きな少女。
小さな頃から家が隣で、家族同士の仲もとても良かったからだろうか。二人は物心着いてからすぐに一緒に遊ぶようになり、それからもずっと一緒だった。
小学校も、中学校も、どうしてか高校も一緒になった。
お互いに心のどこかで意識をしていたのだろうか。
何をするにも、どこにいくにも、どうしてか一緒だった。
お互いのことを誰よりも理解していたし、お互いのことを何よりも把握していた。
中学校の悪友たちからは「お前ら夫婦みたいなもんじゃん」「付き合えよ、ていうかまだ付き合ってないの?」とか、そんな言葉ばかりをかけられていた。
その言葉に、悪い気はしていなかった。
むしろ、その言葉を言われるたびに照れ隠しの仕草を見せていたように思う。
けれど、僕の方から一歩を踏み込むことはしていなかった。
どうしてだろうか。ずっとずっとチャンスはあったのに。
何でだろうか。それまでに何度も何度も言うことはできたはずなのに。
だから、こんな思いをすることになったのだろうか。
そんなことを、考える。
◆
それは、今にも雨が降ってきそうな放課後のことだった。
梅雨はとっくに通り過ぎたはずなのに、黒々とした分厚い雲が視界の端から端までを覆い尽くしていて。
それが見えているのに、美化委員の仕事のせいで僕は変えることができないでいた。
(早く帰りたいんだけどな……っ!)
地味に重たいゴミ袋を、歯を食いしばりながら運んでいく。
目的地は中庭にあるゴミ収集場。正門のすぐ近くにあるから、僕の教室からはそれなりに距離がある。
これしか残っていなかったからとはいえ、こう言う時は貧乏くじを引いたものだと考えてしまう。
がしゃり、と少し錆びついた扉を開いて中に両手で持ってきたゴミ袋を放り込む。
これで仕事は終わり。あとは今もきっと教室で待ってくれているあの子に声をかけて、一緒に帰るだけだ。
そう、思っていた。
ふと、野球部の掛け声につられて校庭の方へと視線をそらす。
こんな今にも雨が降りそうな天気の中でよくもまああれだけ走り回れるものだ。あれだから、運動系の部活は入らなくて良かったものだと心の底から思う。
そんなくだらないことを考えながら、視線を教室へ続く道へ戻そうと動かして。
それを、見つけてしまった。
正門から敷地をぐるっと囲っている壁の内側に植えられた何本もの木の陰に、一対の影が立っていた。
そのうち一つは多分、僕と同じくらいの大きさだろう。
そして、もう一つはどうしてだろうかとても見覚えのあるような気がする影だった。
気のせいだ。
そう、頭の隅っこで何かが叫んでいた。
見るんじゃない、そのまま教室に戻るんだ。
そう、どくどくと高鳴り始める鼓動が必死に制止していた。
だけど、ああ。
今でも僕はその瞬間を覚えている。
どうして、あの光景を僕は見てしまったのだろうか。
知ることがなければ、何も知らないままで彼女と一緒にいることができたかもしれないのに。
木の陰で、見慣れたポニーテールが揺れていた。
その髪をまとめているのは、いつだったか僕がプレゼントした髪留めだった。
そして、二つの影は僕が見ているなんて全く思いもしないで今ひとつに重なろうとしている。
ずきり、と心臓の辺りが痛みを発していた。
喉元がひくっと妙な呻きを上げたような気がする。
決定的な瞬間が訪れようとしたまさにその時、僕は視線を切って後者の方へと全速力で走り始めていた。
見ちゃいけない。そう脳みそが体に命令していた。
どこでもいい。何でもいい。とにかく遠くへ、あの光景を見ることのできないどこかへ。
ただ、それだけが僕の頭を占めていた。
「ぜいっ、ぜいっ……」
急な全速力に、呼吸はまるで追いついていなかった。
爆音を立てて鳴り続ける鼓動に反して、校舎の中はひどく静かなままだ。
誰もいないんじゃないかと錯覚するほどに静寂で包まれた空間で、僕は息を整えながらほんの僅かに余裕を取り戻した思考を進め始める。
あれは、本当にあったことなのだろうか。
いきなり、僕の頭は核心をついてしまう。
どう逃れようとしてもダメだ。どうしてもそれだけが考えの全てを侵食して、それ以外の何もおぼつかないようになっていく。
それから、どれほどの時間が過ぎただろうか。
腕時計を見下ろせば、ぶちぶち文句を言いながらゴミ袋を運び始めてからまだ十分ぐらいしか経っていないらしい。
精神的には、もう何時間も経っているような気がしていた。
「……戻ろう」
ぼそりと、僕は誰に言うでもなく呟いた。
そうだ、教室へ戻ろう。あれは僕のただの見間違いで、もしかしたら今も少女は教室で待ってくれているかもしれない。きっとそうに違いない。
むしろ、そうであってくれ。
そう、半ば祈るように考えながら、僕はトボトボと教室への道を歩き始めた。
やかましいとすら思える運動部の掛け声とは裏腹に、校舎は異常なほどに静かなままだ。
コツコツと靴跡を立てながら、僕は教室前の廊下を歩いていく。その音を聞いて教室から「遅いよ、早く帰ろう」と言いながら彼女が顔を出すんじゃないかとほんの僅かな期待を抱きながら。
けれど、そんな期待は期待のまま砕け散った。
教室には誰もいなかった。
少女のカバンすら残ってもいなかった。
置いてあるのは、僕のカバンだけで。
それ以外は、もうすでに影も形もなくなってしまっていた。
ぎり、と奥歯が嫌な音を立てる。
いつの間にか、掌が震えるほどに握り締められていた。
まだだ。
彼の脳みそは囁く。
まだ、それだけで決まったわけじゃない。もしかしたら、待ちきれないで一人で先に帰っただけかもしれない。
そんな、甘いささやきに乗せられて僕は自分のカバンを手に取る。
それからどうやって帰ったのかは記憶に残っていない。ゴミ収集場の向こう側の風景をもう一度見てみる勇気は、僕にはなかった。
電車に乗って数駅向こうの駅で降りる。
普段から見ている景色だというのに、全く知らない場所に来てしまったようだ。異世界に飛ばされたとしたら、こんな感覚なんだろうか。そんな的外れな感想を抱くくらいに、僕の思考はトチ狂い始めていたように思う。
今日の朝も通ったはずの、けれどまるで見覚えのないような感覚でいつもの交差点を通り過ぎる。
ここを通り過ぎれば自分の家はすぐそこだ。
そして、少女の家もすぐそこのはずだ。
ドクン、と心臓が再び強く鳴り始める。
チャイムを押すだけなのに、どうしてか押そうとしている指が震えていた。また口の中でミシリ、と嫌な音が響く。そうでもしないと吐き出してしまいそうだ。
ぴんぽーん、と間の抜けたチャイム音が響いた。
心臓が張りさけるんじゃないか、と錯覚するほどの数瞬を置いて、ガチャリと音を立てて玄関の扉が開かれる。
出てきたのは、少女の母親だった。
指の先から感覚が薄れていく。けれど、まだだ。まだ、可能性はある。
もしかしたら、家の中にいるのかもしれない。
そんな儚い幻想を抱いていた。
「あら、あの子ならまだ戻ってきてないわよ?」
そして、その幻想は何気ない一言で完膚なきまでに叩き壊されることになった。
「あ、そうですか。先に帰ったみたいだから、ちゃんと着いてるか心配で」
「ごめんね、いつも。まあ、あの子のことだから友達と遊びに行ってるんでしょ」
「はは、かもしれませんね」
そんな会話を、普段通りの表情で行う。
……普段通りの表情に、できていただろうか。
僕の心配を察してくれたのだろうか、未だに空を覆い尽くしていた黒雲からついに雫が溢れ始めた。
それに、「あら」と少女の母親が慌てたような顔になる。
「いけない、洗濯物を取り込まなくちゃ。もしあれなら、こっちで待ってても大丈夫よ?」
「いえ、大丈夫です。携帯で連絡も取れるんで」
「そう? じゃあ、またね」
小さく手を振り、少女の母親は急ぎ足で家の中に戻っていった。
良かった。きっと、まだ見られずに済んだかもしれない。
ぽたぽたと、Yシャツの襟元に水滴がこぼれ落ちていく。雨はまだそんなに勢いがある訳でもないのに、おかしいな。どこからこんなに降ってきたんだろう。
そうぼんやりと考えている間にも、雨はどんどんどんどん勢いを増していく。
それでいい。これなら、きっと誰にもバレないから。
自分の家は隣にあるはずなのに、随分と遠くにあるような気がした。
家のドアを開けると、中で家事をしていた母親が急いでバスタオルを持ってきてくれた。「ありがと」と一言だけ告げて、その顔を見ることもできないまま僕は浴室へとさっさと歩いていく。
……その日のシャワーは心なしか少しだけしょっぱかった。
◆
結局、少女と連絡がついたのはその日の夕方になってからだった。
理由としては単純で、急に友達に誘われたからというもの。理由の説明と謝罪の文章はいつもと変わらないはずなのに、どうしてかとても素っ気なく見えてしまった。
それに、いつも通りの適当な返事を返すだけで、一時間以上かかってしまった。それから少女からの連絡は来ない。
いつもなら、通話の一つくらいしてもおかしくない時間なのに。
かといって、こちらから通話をする余力もない。ドロドロとした思考は全身を蝕んでいるようで、シャワーを浴びた後は指一つ動かすことすらひどく億劫だった。
なのに、目を閉じても眠ることができない。
目を閉じれば浮かぶのは夕方の学校で見た、あの光景。
あの瞬間が、あのポニーテールが、あの髪留めが、重なろうとしていた一対の影が、瞼の裏から離れてくれない。
結局ウトウトとしたまどろみに落ちることができたのは、もう日が登ろうとする時間になってのことだった。
普段よりも数倍増しで大きく聞こえる母親の声で目覚め、鉛のように重たい体を必死に動かして制服に着替える。
フラフラとした足取りで玄関に向かい、弁当だけを受け取って家を出た。朝食は、食べる気になれない。思えば、昨日の昼から今に至るまで何も口に入れてないけれど、空腹の感覚は全くなかった。
そういえば、少女はどうしたのだろうか。
ふと気になって携帯を見てみれば、気づかない間に新しいメッセージを受信していた。
どうやら、委員会の呼び出しで朝早く行く必要があるから、先に出るとのことだ。
(…………どうだか)
へらり、と薄い笑みを浮かべながら、スタンプだけで返事を返す。深々とため息をつくと、ほんの少しだけ頭の中がスッキリしたような気がした。
普段通りの通学路を、けれど普段とは違って一人だけで歩いていく。
一人だけで登校するのはいつぶりだろうか。思えば彼女か僕のどちらかが病気でもない限り、一人で登校することはなかったように思う。
いつも通りの時間に、いつも通りの駅へ。
だいたい席が空いているいつもの場所へ、普段通りに並ぶ。
そこで、はたと気づいた。
目の前に立っている同じ学校の制服を着た少年が、昨日校庭で見た影にそっくりであることに。
ぞわり、と頭の中に真っ黒な感覚が膨れ上がった。
都合のいいことに、少年が立っているのは一番前。……つまり、押してしまえば文句なく線路に落ちることになるだろう。
それは、とても甘美な想像だった。知らずのうちに、口元が歪む。
今ここで目の前の少年がいなくなれば……。
そうだ、きっとあの子は戻ってくるに違いない。
きっとあの子は傷つくだろう。もしかしたら涙も流すかもしれない。
けれど、結局は僕の元へ戻ってくる。そうだ、そうすればいい。それが、一番良い方法だ。
手がピクリと震える。
まだだ。今はまだ早い。今線路に落ちたとしても、誰かが緊急ボタンを押せば電車は止まってしまう。
電車が入ってくる直前のタイミングで押すことができれば、そうすればブレーキは間に合わない。
まだだ、まだもう少し耐えろ。
そう、自分の体に言い聞かせる。
耐え忍ぶこと数分。電車が近づくことを知らせるアナウンスと、チャイムの音が聞こえてきた。
もうすぐだ。もうすぐで電車が視界に映る。
そこでこいつを押してしまえば。
思考が加速する。
一秒の感覚が、一気に引き伸ばされていく。
駅に入ってくる電車の姿がスローモーションで見えた。
今だ。今この瞬間が好機だ。
そう考えたまさにその時、目の前に立っていた少年がこちらを振り返る。
きっとこちらの意図を察したわけではないだろう。もしかしたら電車が入ってくるのに合わせて一歩下がろうとしただけなのかもしれない。
刹那、僕と少年の視線が合った。
「あ」
口から、声が気づかない間に溢れる。
僕は、初めて影の主の顔を間近で見つめていた。
多分顔自体は良い方でも、悪い方でもない。きっと、この少年よりもかっこいいやつはうちの学校にもたくさんいるだろう。
けれど、僕が目を留めたのはそこじゃない。
少年の目は、どうしてか違って見えた。とてもまっすぐで、とても力強くて。どうしてか、引き込まれてしまうような魅力を感じた。
「あの、大丈夫ですか? 僕の顔に何か?」
「え、ああ……ごめんなさい、急に振り向いたからどうしたのかなって」
「一歩下がりたかったんですけど……もう大丈夫そうですね」
そう言って微笑む少年の後ろでは、今まさに電車のドアが開こうとしていた。
その微笑ですら、どうしてか目を話すことができない何かを発している。
(……ああ、そういうことか)
これが、あいつが選んだ理由か。
どうしてか、すんなりと腑に落ちていく感覚があった。
少年の方は、僕にはもう目を止めていなかった。
すでに電車から降りる人の波は途絶えている。少年はこちらに背を向けて扉の方へと歩いていく。
その背を押すこともできたのだろうけど、僕にはもうそうする必要がなかった。
今押したところで怪我をさせるくらいが関の山だろうし……何より、納得させられてしまっていた。
こいつなら、仕方ないのかもしれないって。
◆
それから、少女と少年は正式に付き合いを始めたらしい。
ゴシップに飢えている少年少女によってその噂は瞬く間に広がり、一時期は横から少女を奪われたかわいそうな男として視線を向けられたこともあったがそれも一時期の話だった。
……まあ、中学時代の悪友たちからは今でもたまにいじられることがあるが、その時は容赦無く一発殴っているのでイーブンということにしている。
そして、もう一つ変わったことがある。
「おー、今日も寝坊せずに起きれたんだな」
ボソリと窓の外を見やりながら、僕は呟く。視線の先では、駅の方へ向かって必死に走っている少女の姿があった。
あの日と同じように、少女はそれまで使っていたよりも一本早い電車を使うようになっていた。
理由は単純で、その方が授業開始までの間長く少年と一緒に居られるから、ということらしい。
ただ、たまに起きられる自信がないのか目覚ましがわりのモーニングコールを要求してくるのはやめてほしい。
彼氏にしてもらえよ、と返事をすると「彼にそんなこと頼めない!」と大音量で否定されてしまった。彼には頼めなくて、僕には頼めるその判断基準がよくわからない。
ただ、駅までの道のりを全力ダッシュで走っていく少女の後ろ姿はどうしてか眩しいものを感じて。
「頑張れよ」
そうニヤリと笑みを浮かべながら、僕は届かないであろう励ましを少女の背中に向けて呟いた。
そうそう、このニヤニヤ笑いもあの二人がくっついてからついてしまったクセだ。悪友たちからは「君の悪い笑顔」とか酷評されているが、仕方ないじゃないか。
あの二人を見るたびに、応援したいようなぶち壊してしまいたいような、それでいてこのまま何もせずに観察もしたいような、そんなどうしようもない感情がるらるらと脳みそを駆け巡ってこんな顔になってしまうのだから。
「……さて、僕も学校に行こうか」
ため息をひとつ吐き、学校用のカバンを手に取る。
玄関に向かおうとしたその時、ポケットの中で携帯が震えた。見れば、少女から「合流できた!」との報告が入っている。
「楽しそうなことで」
もうひとつどでかいため息をつき、僕は靴を履き始める。
勘違いされるかもしれないから、と言っているにも関わらず、僕と少女の距離感は以前とあまり変わらない。
僕の方が遠慮するようにしているけれども、少女の方は以前と同じ友達の感覚で接してきてくれている。
嬉しい反面、彼氏に申し訳ないような、けれどちょっぴり黒めな思考がないわけでもなくて。
そんなごちゃ混ぜの感情を処理できず、今日も僕は普段通りの笑みを浮かべる。
「……あーあ、恋人欲しいなぁ」
思ってもないことを口にしながら、僕は玄関のドアを開けた。
周りの奴らが言う気味の悪い笑みを浮かべながら、僕はこれからも学校へ通い続けるだろう。
そして、きっとあのカップルを見守り続けるに違いない。
ニヤニヤと、薄い笑みを浮かべ続けながら。心の中では二人が幸せであることを願いながら、けれど隅っこではどす黒い祈りを捧げながら。
そんなことを考えながら、僕も駅へ向かって歩いていく。
「今日も雨が降りそうだなぁ」
空には、どす黒い雲がかかっていた。
それがまるで自分の内心を反映しているようで、僕はまた薄い笑みを浮かべて歩き続ける。
今頃電車の中からいちゃついている、あのカップルを思い浮かべながら。