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はぁっ、はぁっ、と。
自分の上がった息がうるさい。
どくどくと心臓が耳元にあるかのように大きく鳴る。
それでも、足を止めることはしない。
叶うならば馬を手に入れたかったが、爆走する自分を見れば他人の記憶に残る可能性を考え、隠れながら走り続けていた。
「っ、さー、しゃ……」
今も目を瞑れば思い浮かべられるその人の艶やかな姿。
彼女の言葉を信じたくない反面、裏切られたのだ、切り捨てられたのだと自分の心の柔らかい部分が泣き叫んでいる。
どうして、どうしてと何度も自問自答する。サーシャは、犯罪行為は駄目なのよ、と言っていた。だが、これまでにクリストファーは何度も行ってきた。サーシャには言っていないが、彼女が知らないはずがない。
なのに、どうして、今になって。
「っ…!」
足がもつれ、転ぶ。土が口の中に入った。それは酷く不味くて、どこか懐かしくすら感じられ、泣きたくなった。
クリストファーは疲れや薬の後遺症からか、すぐに立ち上がることができなかった。だが、そのおかげで少しだけ冷静になることができた。
「…きっと、サーシャの、ところに行けば…」
何とかなるはずだと思う。だって、自分はサーシャに尽くしていたのだから。そのサーシャが、自分を捨てるはずないと理由もなく確信していた。サーシャには自分が必要だと、絶対的に思っていた。だって、ずっと傍にいて、愛でられていたのだから。
「きっと、おれが、逃げるのを、信じて、るんだ…」
クリストファーは天啓のようにそう思った。そうだ、それしかありえない、と。
きっと、これも天が自分に与えた試練なのだ。ヘレンを連れ去ったことだけでは、足りなかったのだ。そう考えると、不思議と足に力が入った。どこからか力が漲ってくる。
クリストファーは忘れていた。サーシャに言われたこと全てを。
そして知らなかった。彼にとって全てともいえる彼女に、すでに忘れられていることを。
*******
「ミーシャ様、当てはあるのですか?」
「なんとなく」
ミーシャは言葉少なに男に返す。ノア達に言っていなかったが、クリストファーの行くところなんて一つだけだろうとミーシャは思っている。
そしてこれからどうするか、とミーシャは考えた。正直、先回りをするのが一番いいのだろう。だが、ミーシャ個人としては、それをしたくないという思いもある。だが、先回りをしなかった場合の最悪を考え、そしてそれをヘレンやゼニアに知られたら、とも思う。
「…迷うな」
ノアも、きっとクリストファーの行き先などある程度想像がついているのだろう。彼が逃亡してまで行きたい場所なんて、限られている。
「とりあえず、三人はアレックス・ファフニールの元へ」
「はっ!!」
「残りは私と行動する」
「かしこまりました」
ミーシャには、女の勘ともいうべきか、クリストファーがどこに行くのか想像がついていた。彼の性格を考えれば、ますますそうとしか思えないほどに。
ミーシャは用意した馬の手綱を引いた。愛馬が小さく心配するかのように鳴いた。
「大丈夫…」
ミーシャは安心させるように首筋を撫でると、集合させた男たちに向かって声を張り上げた。
「分かっていると思うが、生きて捕らえろ。カロリアンの民に手を出しておいて、逃げられるはずがないとその身に叩き込め!」
「「「は!!」」」
アレックスの屋敷へと向かう男たちは野太い声で返事をすると、馬を蹴り駆け出した。残った男たちは、ミーシャの指示を静かに待つ。その様子に、バーゲンムートにいる人材も悪くないなと思いつつ、ミーシャは壮絶な笑みを浮かべた。
「諸君、これから何が起ころうとも、他言無用だ」
「わかりました」
金で雇っただけの関係性だが、多額ということもあって口は堅いだろう。まぁ、万が一漏らそうものなら…。そう考えたのが表情に出ていたのか、男たちがぶるりと身を震わせた。
「よろしい。ならば向かおうか」
サーシャ・ウェードルの元に。
幾日経過したのだろうか。クリストファーはふらふらになりながらも歩き続けた。食事は木に生っている実を食し、水は井戸を見つけて最低限飲んだ。いつもは綺麗にしていた身なりだが、ぼろぼろでかつての姿とはかけ離れている。だが、それでもクリストファーは必死に歩き続けた。
そうして。
「さー、しゃ……」
何年もいた屋敷が見える。いつもと変わらないそれに、クリストファーは違和感を覚えることはなかった。
クリストファーはいつもと同じように裏口から誰にも見つからないように屋敷へと入り込む。しん、とした廊下が、酷く懐かしくて、どこか怖いと思った。そこでようやく、何も変わっていないことをおかしいと思い始めた。
どうして自分がいなくなったのに、何も変わっていないのだろうか。
「クリス……?」
「!」
考え込み始めそうになった瞬間、背後から声をかけられてびくりと肩を跳ねさせる。
「っ…ピーターか」
「どうしてここに…」
「何を言って…、戻ってきたに決まっているだろう?」
クリストファーがそう返すと、ピーターは表情を歪めた。まるで、どうして戻ってきたのだと言わんばかりに。
先ほどまで考えていたことが吹っ飛び、きっとピーターは自分が戻ってこなければ良かったのだと思っているのだろうとクリストファーは思った。自分が戻ってくれば、サーシャの愛情が自分に向いてしまうから。
「ふん、私はサーシャの一番だぞ。私がいなくなれば、サーシャが困るからな」
「……」
そう言えば、ピーターは憐れむように自分を見る。どうして、そのような目をするのだろうか。自分がいなくなればいいと思っているのではないのだろうか。
「…サーシャはどこに?」
「…、…部屋に」
憐れむような表情は一転、いつもの無感情な表情に戻ったピーターは、一瞬言い淀むもののそう答えた。出来れば身綺麗にしてから行きたいが、それよりも自分の安否を知らせるのが先だろう。それから綺麗にしても遅くはない。
サーシャと会える、そう思っただけで今までの疲れが吹っ飛んでいくようだった。
クリストファーは、劣悪な環境から救い出してくれたサーシャを、唯一としてしまった。もし、これでピーターやその他の人たちと関係を築いていたのであれば、違った結果が待っていたのかもしれない。
「サーシャ」
「…? だれ?」
「私だよ…帰ってきたよ…」
「…まさか、クリストファー?」
サーシャは、いつもと同じように気だるげに葡萄酒の入ったグラスを傾けていた。それに背後から声をかければ、彼女にしては珍しく驚きながら勢いよく振り返る。
あぁ、いつもと変わらず、サーシャは美しかった。…だが、少しも憔悴した様子がないのは、どうしてだろうか。自分は彼女に会う為に、彼女の元に戻るために、必死だったのに。
「クリストファー…」
「サーシャ」
サーシャはふらりと立ち上がると、クリストファーから距離をとった。
「? サーシャ…?」
「…どうしてここに居るの?」
「―――え?」
サーシャは、心底不思議そうにクリストファーを見る。まるで、いるはずのない人間を見たかのような反応のそれに、クリストファーは茫然とする。
どうして、距離をとるのだろうか。どうして、良く戻ってきてくれたね、と抱きしめてくれないのだろうか。サーシャが必要としていると思ったから、戻ってきたのに。必死になって逃げてきたのに。
「クリストファー、あなた、どうしてここにいるの? カロリアンに移送されたのではなくて?」
「サーシャ…? 何を言っているんだ? サーシャにはおれが、必要だろう…?」
「クリス…あなた、やってはならないことをしたのよ? 罪は償わなくちゃ、いけないでしょう?」
「あれはアレックスの所為だ!! あの時もそう言っただろう!? サーシャ、おれは、サーシャの為に…!」
「私の…? いやだ、あれは、あなたが勝手にしたことでしょう?」
全く悪気の欠片もないその一言に、クリストファーは足元が崩れ落ちるような気がした。自分は彼女を愛していて、全てで、そして彼女も自分を愛しているはずで…。
そしてようやく、どうしてピーターがあのような視線で自分を見ていたのか、わかってしまった。
「さーしゃ…サーシャは、おれを、愛してる…?」
「? お気に入りだったわ?」
「―――」
彼女は、自分を愛してくれていると思っていた。だから、ずっと傍に置いてくれているのだと。お気に入り、というのは、愛情の表れなのだと。子の成せない行為が、愛の深さなのだと。
でも、違ったのだ。
「さーしゃ、サーシャ、おれ、おれは、貴女と、ずっと、一緒に、幸せに……」
「クリス?」
何も、考えられなかった。今までどうやって息をしていたのかすら、わからない。ヘレンをアレックスに引き渡せば、サーシャは自分だけを見てくれるはずだと思っていた。今までのように多数の男と関係を持たないはずだと。
―――今更考えれば、どうしてそのように思えたのだろうか。
彼女はいつだって、社交界において華々しい男性関係を噂されているというのに。自分というものがあっても、それは変わることなどなかったのに。最近はアレックスを気に入っていたから、彼と一緒にいることが多かっただけなのに。
「おれ、おれ、サーシャと、幸せに、なりたかった……」
頬を、何かが伝っていく。何だろうか。
「クリストファー…今まで十分幸せだったでしょう?」
「……」
自分と、サーシャの幸せが違うことに、クリストファーは初めて気づいてしまった。
「―――」
熱に浮かされたような、そんな感じがする。ふらふらとクリストファーは歩き始め、サーシャへと近寄った。
「クリス? こっちにこないで」
「サーシャ……」
涙で、前が見えない。嗚咽が漏れる。
「こっちに来ないでと言っているでしょう!! ピーター! ピーター!!」
「どうして…!!」
どうして、自分が目の前にいるのに、他の男の名を呼ぶのだろうか。
クリストファーは、何も分からなくなった。何一つ、まともに考えられない。机の上にあったカトラリーを手に取る。
「何を…何をするつもり…?」
「サーシャ…サーシャ…」
そうだ。
自分のものにならないのであれば。
クリストファーの内にある何かが、黒く囁く。
「こ、来ないで…!! ピーター! なんで来ないの…!?」
あぁ、他の男を呼ぶこの唇には、お仕置きをしなければと、ふんわりと思う。だって、自分はサーシャを愛しているのだ。愛した人の唇が、自分以外の名を呼ぶなんて、赦せるはずがない。
「愛しているよ、サーシャ」




