33
いつも噛り付いていた机。
剣術を習った屋敷の中庭。
マナーを教わった小ホール。
馬で駆けた丘。
よくいた書庫。
そのどれもが、懐かしかった。
エリザベスは、思ったよりもちゃんと話し合いをしている息子家族を見て、内心でほっとしていた。ジャクリーヌやカレンの言葉には一瞬言葉を発しそうになったものの、ドナルドがちゃんと諫めてくれたおかげで何とかなりそうだった。
正直、今までのこの家のことを考えれば問題はほぼ解決していないに等しいだろう。だが、少なくともヘレンにとっては大きな一歩になるとエリザベスは思えた。
「…ドナルド、ジャクリーヌ。二人はこれからは私と共にアンドレアスの教育をしっかりすること。ジャクリーヌ、ドナルドからある程度の話を聞いているわ。そこの部分も含めて話し合いましょう。カレン、貴女はこちらで出産なさい。…アレックス殿については、これから色々と話し合いましょう」
「わかりました」
少しだけ不安そうに自分を見てくるアンドレアスとカレンに対して、エリザベスは安心させるように笑みを浮かべた。それで二人の不安が取れるとは思っていないが、やらないよりましだろう。
正直、年で最近まで体調を崩していた自分にどこまでできるのかはわからない。だが、夫亡き後に自分のことばかりを考えて息子夫婦のことを何一つ顧みなかった自分への罰なのだろうとエリザベスは思っている。
人によっては成人した息子がしっかりしないからいけないという人もいるだろうが、エリザベスにはそう思えなかった。
「…お祖母様…」
ヘレンが心配そうに自分を見てくる。きっと自分の所為で、と思っているのだろう。優しい彼女だから。
「大丈夫よ、ヘレン。ドナルドもジャクリーヌもいるわ。貴女は、貴女の幸せを考えなさい」
「っ…はい」
ヘレンも、カレンも、アンドレアスも。自分にとっては可愛い孫でしかない。誰が、子供や孫に苦労ばかりさせたいと思うか。
「ドナルド、ジャクリーヌ。少し厳しくなるかもしれないけれど、ちゃんと色々と話し合って、これからのことを決めましょう。頼りにしているわ。カレン。貴女は生まれてくる子のことを考えなさい。大丈夫。みんな貴女の傍にいるわ」
まだまだ死ねない、そうエリザベスは思った。
******
「ゼニアさん、具合は如何ですか?」
「ヘレン嬢。大したことはないですよ。隊長のしごきの方がもっときついくらいです」
ヘレンは家族で話し合った後、ゼニアが休んでいる部屋へと訪れていた。自分の所為で傷ついたのだから、気にするのは当然だろう。傍にはミーシャもいた。
「ミーシャさん…この度は色々とご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした…」
ようやく落ち着いたこともあって、ヘレンはミーシャに向かって腰を深く曲げ謝罪した。本来、彼女たちはカロリアンの民を守る自警団だ。それなのにヘレンを救うためにわざわざここまで来てくれた。
ヘレンは、自分がもっとうまく動いていれば、と思ってしまう。だが、それと同時にこうでもしなければ家族とちゃんと話し合う機会もなかっただろう、と。
「いいえ、ヘレン嬢。お気になさらないでください。私たちは来たくて来たのですから」
「ミーシャさん…」
ミーシャの男気溢れる笑みに、ヘレンは少しだけ肩の力を抜いた。
「……カロリアンの女性が、どうしてミーシャさんを大好きなのか、すごくわかりました」
「そうですか? それならばヘレン嬢も私を好いてくださっていると勘違いしてしまいますよ?」
おどけるように話してくれるミーシャに、ヘレンは言葉にしないながらも心の深いところで感謝を告げた。
「ミーシャさん、ゼニアさんに怪我を負わせてしまい、本当にごめんなさい…。私にできることであれば、なんでも致します」
「―――なんでも?」
その瞬間、ミーシャの瞳が光ったように感じたが、ヘレンの気のせいだろうか。
「なら、カロリアンに戻ったら私とデートしてください」
「…でーと、ですか?」
「えぇ」
なんだ、一緒に出掛けるくらいか、とヘレンは安請け合いする。それを知ったノアが後日、嫉妬することなんて露にも思わずに。
ミーシャのお願いを何の疑問も持たずに快諾し、そして部屋を出ていくヘレンの後姿を二人は見送った。そして扉が閉じられると、ゼニアは仕方のない人だと言わんばかりにミーシャを見た。
「ノア様が知ったら怒りますよ?」
「あはは、気にしなくていいよ。とりあえず今はヘレンにカロリアンに置いて一番信頼できる立場が私であるということを刷り込みたいからね」
悪い笑みを浮かべながら言うその人に、あぁ、本当に気に入っているのだなとゼニアは思う。そしてそれも致し方ないか、と。
「だってね、ゼニア。ヘレンは、私の為に怒ってくれたんだよ。あの、貴族で守られることしかできないご令嬢が、だよ? ぞくぞくしたね」
ほの暗い感情をその瞳に浮かべるミーシャを見て、これをカロリアンの女性が見たらどうなることか、とすら思った。が、結局そんなミーシャも素敵という未来しか見えなかった。
「私はね、ゼニア。女性は基本的にどんな子でも可愛いと思っているんだ。性格が悪かろうとなんだろうと、ね。ただ、好みっていうのはあるんだよ」
「そうなんですか、初めて知りました」
「だろうね。今まで私のお眼鏡にかなう子なんていないと思っていたからねぇ」
「……それが、ヘレン嬢ですか?」
ゼニアの質問に、ミーシャは笑みで返してきた。
「本当に、ノア様に出会う前に出会っていたらなぁ……。あの子は今は何もできない子だけれど、磨けば光ると思うんだよね。私の手自らで輝かせたいと思ってしまうよね」
「……」
ゼニアは初めて知るミーシャの性癖と呼ぶべきかもしれないそれに、苦笑を浮かべた。男でそう言っていたら気持ち悪いとしかゼニアには思えないそれも、ミーシャだと何故か許してしまう。相手がヘレンなせいもあるのだろうが。
「それは、自分にも一枚かませてほしいくらいですね」
小さな世界しか知らなかったヘレンは、カロリアンの一部を知った。それでも、まだ狭いだろう。それを、自分たちで丁寧に教え、開花する彼女はどれほど輝くのだろうか。
「あぁ、本当に口惜しい…。ヘレン嬢がノア様に惚れてすらいなかったら、私のところで養うのに…」
ミーシャの唇から熱い吐息が零れる。今まで、その吐息で落ちなかった女性はいないと言われるそれ。そしてミーシャは暫く何かを考えていたようだが、切り替えたのか、一度大きく深呼吸するとゼニアを見た。
「ゼニア、私はこれからあの男の移送の為に人手を手配してくる。怪我人のお前と私だけでは何かが起こっても対処しきれないかもしれないから」
「はっ!」
「今後の予定だが、ノア様とヘレン嬢と共にカロリアンに帰還する。一緒にあの男も移送するが、距離を置く。お前はノア様の警護を。私は中間で指揮を執る」
「かしこまりました」
もうじき、ここを離れるという言葉にゼニアはようやくかと内心で安堵の息をついた。悪くはない。だが、どうしても居心地がいいとは言えなかった。やはり慣れ親しんだ場所に帰りたいと思ってしまう。
表情に出したつもりはなかったが、ミーシャにはバレバレだったのか、苦笑を浮かべながら自分を見ている。
「帰りつくまでが任務だからな。油断しないように」
「はっ!」
隊長であれば拳骨一つのところ、ミーシャは言葉で自分たちを締め上げてくれる。脳筋たちもそこに気づかない限り恋人はなかなかできないだろうと思い、そしてきっと奴らが気付くことはないのだろうともゼニアは思った。
「ノア様、夜分に失礼します…。少し、よろしいでしょうか?」
「ヘレン?」
同日の夜、ヘレンはノアに用意された客室へと足を運んでいた。ヘレンの声に、ノアは不思議そうな声を上げながらも扉を開けてくれる。
「どうした? 今日は疲れているだろう? 早く休んだ方がいいんじゃないのか?」
自分たちの話をロドリゲスから聞いていたのだろう。ノアは気遣うように声をかけてきた。
「いいえ、そこまでは…。よければ、少し歩きませんか?」
「私は構わないが…いいのか?」
「はい」
自身の屋敷で、さらに言うのであれば人目があまりないとしても男女が連れ添って歩く意味をヘレンは知らないわけではない。だが、どうしてもノアと話したかったのだ。
「…君がいいのであれば、ぜひ」
ノアもヘレンの覚悟のようなものを感じ取ったのか、外套を着てくると言い、一度室内に戻る。そしてすぐさま戻ってきてヘレンに片腕を差し出した。
そうして二人は、ヘレンが長年住んでいたマイヤー家をゆっくりと歩き出した。
「ここは?」
「私が、当主になるために勉強をしていた部屋です」
「―――小さい机だな」
「ここは、私がサブリナ夫人にマナーを教わっていた場所」
「ここは、私が剣術を教わっていた場所です」
ヘレンは、自分が常にいた場所をゆったりと歩いた。どうしてかは分からない。だが、ノアには知って欲しいと思ったのだ。
しかしもう何年も前のこと。ヘレンのいた名残など残っているはずもない。だが、その一つ一つに真剣に目を向けてくれるノアに、ヘレンの心の内にあったしこりがほぐれていくような感じがした。
「―――頑張っていたんだな」
「―――はい」
そう。自分は頑張っていた。あの頃は先の見えない道のせいで、全然頑張れていないと思ってしまったが、今は違う。あの頃の自分は、確かに頑張っていた。
それを、両親よりも先に、自分が認めてあげなければいけなかったのだと、ヘレンはようやく気付いた。認め、慢心しなければ良かったのだと。
月明かりの下、ヘレンたちは中庭に立っていた。さわさわと風が木々を揺らす。もう、案内するところはなかった。
ヘレンはちらりとノアの横顔を盗み見ようとして、ノアが自分を見つめていることに気づき一瞬で頬を紅潮させる。
「……ここまで案内してくれた意味を、聞いても?」
「……」
どうしてだろうと、ヘレン自身が自問自答する。そして、思いつくままに言葉を零した。
「……きっと、もうここには、戻ってこないと、思ったから、でしょうか…」
「ヘレン、それは……!」
それを口にして、ヘレンは勢いのままにノアを見上げた。緊張からか、瞳が潤んでいくのがわかる。
「……ノア様、私、と…」
そう続けようとしたヘレンの唇に、ノアが人差し指をあてた。どうして止められるのかと見つめると。
「その先は、私から―――」
ノアは一度深呼吸すると、ヘレンの真正面で膝をつく。ヘレンの左手をとり、その薬指に口づけると。
「ヘレン・マイヤー嬢。私と共にカロリアンで、私の妻として、共に生きてはくれないだろうか」
「っ……」
ヘレンはすぐに返事をしようと思ったのに、体が勝手に動き、ノアへと抱き着いていた。そして小さな声で、言葉を詰まらせながら是、と言った。
ヘレンの言葉を聞いたノアが、ヘレンを強く抱きしめる。
そんな二人を、夜空にぽかりと浮かんだ月だけが優しく照らしていた。




