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正直に言って、手を出すのは間違っているとノアにも分かっていた。だが、どうしても理解してほしかった。
そして同時に、なぜ彼女が理解してくれないのか、分からなかった。
自分だけではなく、たくさんの人が彼女を心配していることを。
彼女には、いくら言葉を重ねても理解してくれない頑なな部分がある。それは分かっていた。でも、自分が、家族が、自警団の人間がいくら言葉を重ねても、彼女は理解してくれないのだ。
まるで、自分は軽い存在だとでもいうように。
もちろん、ヴィノーチェ家に仕えてくれている使用人誰一人として、その存在を軽いと思ったことなどノアにはない。だが、どうしても貴族と平民という身分差において、ある程度の格差は存在する。むしろそれを理解せねば、貴族としてはやっていけない。
ヘレンは、それを分かっていて、理解していない。
貴族社会というものがある限り、どうしたって貴族と平民の価値観や背負っているものは異なる。遠い未来、別の国でその格差がなくなることもあるかもしれないが、今ではない。
だからこそ、ヘレンの自分を軽んじるその行動にノアは苛立った。
…さらに言うのであれば、自分が好意を寄せている人間が、簡単に自分を犠牲にするその精神が理解できなかった。少なくとも、ノアはそう思っていた。ノアは、家族に大切にされている自覚がある。だからこそ、自分を犠牲にするのは最終手段だと思っている。
だがヘレンは違う。
ノアには、それが酷くもどかしく感じた。
だから。
「愛しているよ、ヘレン」
言葉を重ねるしかない。聞き飽きられたりしても、信じてもらえずとも、理解できずとも。それがノアにできることだろう。
頬が薔薇色に染まるヘレンを見て、ノアは心が高ぶるのを感じる。そのような表情をするということは、彼女も同じ想いを自分に持っているからだろうと信じて。
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「では、今回の件はアレックスが噛んでいるということは間違いないのね?」
「はい。ゼニアさんに救われなければ…彼は私で欲を発散しようとしていました」
「なんてこと……!」
翌日、ヘレンは祖母と父とノア、そしてミーシャと五人で今に至る経緯を話していた。カロリアンにいたヘレンを見つけ出したクリストファーという男。そしてその主である女性。その女性と関係を持っているアレックスのこと全てを、だ。
カレンには悪いが、彼のやっていることは犯罪に等しい。例え実行犯が別の男であったとしても、彼がそういったことを平然とすると社交界で流れれば彼の居場所はなくなる。
「そんな男のもとに、カレンが……!」
「…お父様、私はカレンにも言いました。アレックスがマイヤー家の資産しかあてにしていないと。カレンは愛されているのではないとも。でもそれを信じなかったのはあの子です」
「ヘレン……お前は妹が心配ではないのか?」
「ドナルド。貴方がそれを口にするの?」
「っ……」
ドナルドの非難するような言葉は、エリザベスによって一蹴される。実際にそうだ。ドナルドは自分やジャクリーヌのことばかりを考え、子供たちに対して誠実な行動をしてこなかった。そのツケが、今こうして表面に出ているだけの話なのだから。
「カロリアン貴族の一人として言うのであれば、ヘレン…さらにはアマリーという使用人に手を出したことは正式に抗議できるでしょう。例えこの国で使用人に関して沈黙するところがあったとしても、カロリアンではそうではないので」
「それにカロリアン自警団である我々がヘレン嬢の救出にあたったということは、あまり公にはしたくないことでしょう。…自国の民すら守れない自警団、とバーゲンムートの自警団が言われても甘んじていられるのであれば別ですが」
ミーシャは酷薄な笑みを浮かべながら言う。そんなミーシャにふるりと震えたのはドナルド一人だけだった。
「では、どうされますか? 自警団の方と話をするように手配をした方がよろしいですか?」
「そうだな……彼らの出方というのも気になるしな」
「わかりました。ロドリゲス、手配を」
「かしこまりました、ヘレンお嬢様」
「アレックスはどうするつもりなの?」
「そこが一番の問題ですね……」
正直に言って、アレックスを失脚させることは不可能に近いだろう。アレックスも曲がりなりにも長い歴史を持つ貴族の一人。そして彼は法を犯してはいない。今回で唯一捕らえることができると思われるのはクリストファーだけなのだ。
「それにヘレン嬢が会った女性というのも気になりますね」
「サーシャ、と名乗っているのを聞きました。……多分、上流階級の人間かと思います…」
「サーシャ、ね。私の伝手を使って調べてみましょう」
「ありがとうございます、お婆様」
祖母の伝手を使えば、そう遠くないうちに彼女のことは分かるだろう。そのまま芋づる式にクリストファーのこともわかるだろう。
「…カレンは、カレンはどうするんだ…?」
ドナルドの問いに、誰もが言葉を窮した。
「……離婚…するのは難しいわね」
貴族社会に一番長く身を置くエリザベスがぽつりと零した。今回の件に関して、アレックスは直接手を下したわけではない。ヘレンに対する暴挙こそあれど、男女格差のはっきりしているバーゲンムートでは、実刑に処すことはないだろう。
「今、あの子はアレックスの子を妊娠しているんだぞ…!?」
そしてそれも一つの問題であった。アレックスの子が男女どちらであれ、ファフニールの血を引いていることは確かなのだ。その子供は、ファフニールの跡取りということになる。さらにいうのであれば、アレックス自身はカレンと別れるつもりはないということだ。だからこそ、カレンの不安になるようなことを止めようとして、ヘレンを探させた経緯はこの場にいる誰もが理解していた。
「……ファフニール前伯爵とお話しするほかないと思います」
ヘレンはそう提案した。
「アレックスの今までの所業を説明し、彼に対する処罰は前伯爵に一任するのが一番かと。結局、同じ伯爵家というだけで彼のことに対する決定権を何一つ持ち合わせていませんので」
「ヘレン…! それではカレンはどうするというんだ!?」
「カレンも同じ貴族の娘。覚悟して結婚したのでしょう?」
冷たいといわれるかもしれないが、それがバーゲンムートにおける貴族女性の在り方だった。カレンはお茶会に出て初めて知ったようだが、ヘレンはサブリナからも聞いていて少しだけ貴婦人たちの生活を知っていた。
てっきりカレンも知っているのかと思ったが、そうではなかったらしい。だからといって、今更どうこう言っても仕方のないことだが。
「しかしあの子は…お前のように強いわけではないんだぞ?」
「ドナルド。ヘレンだって同じです。だけどそう在れとしたのはあなた達でしょう? そしてヘレンの弱さを見なかったことにした結果、ヘレンがあのようになったと何度言わせるつもり?」
心配げな表情をしながらもなお言い募るドナルドに、エリザベスは冷たい言葉で返した。その言葉に痛いところでも突かれたのか、ドナルドは顔色を悪くしながら黙りこむ。
「ノア殿、貴方のご意見は?」
エリザベスが黙りこくっていたノアに視線をやりながら問う。
「―――正直、こちらの貴族にまで手を出そうとは思っていません。ですが、クリストファーだけは」
「…それならまだ現実的かもしれません」
アレックス。そして上流貴族であろうと推察されるサーシャなる女性。その二人に何かしらの罪を背負わせようとするのであれば、非常に難しいところだろう。もし彼らに罰を与えようとすれば国家間の問題になる。
しかし今回の最もたる被害者は使用人であるアマリーだ。身の危険に晒されたとしても、使用人である彼女の立場上、それを国外の貴族に対して罪を問うことはできない。
ヘレンも同様に被害者だが、ヘレンの場合自国民ということがある。もしそれを言及するのであればマイヤー家の者たちの問題であり、そこにノアは介入できない。
もしこれで正式に婚約者として名実ともに得ていたのであれば話は変わっただろうが、そうでない以上無理なものは無理だった。
「少なくとも彼らに近い人間が罪に問われたのであれば、そしてそれが公に流れれば、彼らにも間接的に罰を与えたことにもできるでしょう」
ノアはそのことをよく理解し、そしてエリザベスも同意を示した。どこの国とて、自国の貴族は守りたいものだ。例えそれが非人道的であったとしても、罰するのであれば自国で、と望むことが多い。逆に、他国でも罰せられることがあるということはそれだけその貴族が大罪を犯したことに直結する。
「ではこれから私はサーシャなる人物を探しますわ。ドナルド、貴方もよ」
「…はい」
「カレンだけど、こちらに戻すことは出来ないのかしら?」
「わかりません…ですが、連絡してみます」
「そうして頂戴。妊娠初期ということもあるし、カレンの体調の問題もあるわ。出来れば実家で療養させたい、安心して子を産める環境にしてあげたいと伝えて」
「わかりました」
「ヘレン、貴女はこれからどうするの?」
「私は……」
ヘレンは正直これから自分がどうすればいいのか分からないでいた。今のヘレンは、ただの一貴族の娘でしかなく、何一つ力を持たない。
「それならば、私にバーゲンムートを案内してほしいと思います」
ヘレンが言葉に窮していると、ノアがそう提案をしてきた。
「エリザベス殿。そしてドナルド殿。今ここで言うべきことではないのかもしれませんが、改めて…。ヘレン嬢を正式に私の妻にしたいと考えております」
「っ」
エリザベスは予め聞いていたのだろうか、驚くことなくノアを見た。しかしそれにドナルドは驚き、言葉を詰まらせる。
「とても喜ばしいことだけれど、ヘレンはそれでいいのかしら?」
エリザベスの言葉に、ヘレンは急な言葉に驚きを隠せないながらも小さく頷く。
「そう……。ノア殿。その返答は少しだけ待っていただけるかしら? でもことがすぐに動くというわけではないでしょうから、ヘレンの生まれ育ったここを知ってもらえると嬉しいわ」
「ありがとうございます」
ノアは綺麗な笑みを浮かべ、エリザベスに一礼する。ドナルドがまるで空気のような扱いだが、今までの彼の行動を鑑みれば仕方のないことかもしれない。
そうしてマイヤー家の一日は過ぎ去っていった。




