23
泣いてしまいそうだった。それ以上に、心は軽かった。
「……あいす、る…?」
父は、呆けたようにそれを口にした。確かに、昔は家の為に婚姻を交わすのが当然で、恋愛婚なんてほぼほぼあり得ないと思っていた。両親のような関係性を築くのは、不可能だと気付いたのはいつだっただろうか。
だが、今のヘレンは違う。
今のヘレンは、ノアという人に対して愛情を持っている。そして相手も、幸運なことにヘレンに対して愛情を示してくれている。
「その方と添い遂げられるのかは、わかりません。ですが、幸運なことに想いを寄せてくださっています」
「……カロリアンの人間か」
「そうです」
「……相手は貴族なのか」
「今それに答えるつもりはありません」
「―――ならん!!」
「お父様?」
簡単に許可を貰えるとは思っていなかったが、父の血走った眼を見て、ヘレンは恐怖を抱いた。まるで、正気を失ったような、そんな表情。
「ヘレン、お前はマイヤー家の長女だ!! 貴族の長女として生まれた以上、家の為に尽くすのが当然だ!」
ドナルドは立ち上がるとヘレンの腕を掴もうとした。
「おやめください!」
そんなドナルドの腕を振り払おうとするゼニアに、ドナルドは狂気を孕んだ目で睨みつけた。しかしそれに屈するゼニアではない。
「いくら御父君だとしても、横暴すぎでは?」
「貴様に何がわかる!! それにここはカロリアンではなくバーゲンムートだ! ここで私に手を出してみろ! 正式に国に上げて抗議させてもらう!」
「っ……」
しかし流石に国家間のことを持ち出されてしまうと、ゼニアは動けなくなってしまった。そしてそれを口にした父に、ヘレンは嫌悪感を抱いた。
「どう言われようとも、私はこの家を出ます」
「許さん!! お前が出ていったら、マイヤーはどうなる!?」
「私をここに縛り付けようとするのはやめて!! お父様がアンドレアスをしっかりと教育すればいいだけの話でしょう!? 嫌われたくないからって私を使おうとするのは止めて!!」
どう見ても、父ドナルドは正気に思えなかった。そんな時、扉が来訪者の音を告げる。
「―――あなた? 何か……へ、れん……?」
「―――お母様」
久しぶりに見る母は、やはり父と同じように老いていて。驚きから瞳が見開かれる。
「あぁ、ジャクリーヌ…ヘレンが帰ってきたんだよ。これからアンドレアスの教育に関してはヘレンに一任しようと思っているんだ」
「どういうこと…? それに、アンドレはヘレンのことを怖がっているわ…」
「あぁ、大丈夫だ。ヘレンがアンドレのことを支えてくれる」
優しい毒ばかりを孕んだ会話に、ヘレンは逃げ出したくなった。父も、母も。何一つ変わっていない。結局、ヘレンが家を出たくらいでは変わらないのだ。
「いいえ、私はこの家には戻りません。その挨拶に来ただけです」
「え…? ヘレン、貴女、どうするつもりなの? 帰ってきたのだから、一緒にいたらいいのに…」
「いいえ、私の幸せはここにはありません」
「まぁ…! 何てことを言うの…!?」
母の驚きと非難が籠った一言に、ヘレンはこの両親は、ヘレンの幸せを考えたことはあるのだろうか、と思った。
「ヘレン、お前がいなければこの家はどうなるというんだ」
「ヘレン、アンドレは貴女のようには出来ないの。貴女が支えてくれるのであれば、心強いわ」
「お断りします。アンドレアスの幸せの為に、私を犠牲にしろというのですか」
「ヘレン! そんなことは言っていないだろう!!」
言っているのも同然だというのに。ゼニアも同じように思っているのか、嫌悪感を露わにしていた。ヘレンは、自分の父が自分たちのことしか本当に考えていないのだと判断する。
「では、どうなさるおつもりですか? 私は結婚もせず、ただただアンドレアスや家のためにいろと? いずれアンドレアスも結婚し、子を儲けるでしょう。その時私はどうなるのですか? そこまで考えていての言葉ですか?」
「「……」」
二人が沈黙することで、考えていないことがわかる。そんな時。
「旦那様、奥様。もうヘレンお嬢様を解放してあげてください」
「ロドリゲス!?」
今の今まで銅像のように沈黙を保っていたロドリゲスが、辛そうな表情を浮かべながら進言してくる。
「旦那様、私は先代よりマイヤー家にお仕えしてまいりました。その時の貴方様の苦労も存じております。そしてお二人に中々子が出来なく、涙したことも」
「……」
「そしてヘレンお嬢様とカレンお嬢様がお生まれになった日のことも、アンドレアス様がお生まれになった時のことも、今でも鮮明に覚えております。その中で、ヘレンお嬢様はこの家で常に気を張られていたことを、お二人はご存じでしたか?」
「そんなはずないわ。だって、家族なのよ?」
「ありますでしょう。だから、ヘレンお嬢様はあのような事態になられてしまったことを、奥様はもうお忘れですか?」
「っ!」
ロドリゲスは深い悔恨を二人に見せる。その表情はいつも毅然とした態度からは程遠く、酷く草臥れた老人のように見えすらした。
「あの時のヘレンお嬢様を思い出すだけで、このロドリゲス、胸をかきむしりたい衝動に駆られます。…もっとヘレンお嬢様と会話をしていたら、ああならなかったのだろうか。もっと旦那様方に進言していれば、奥様に申し上げていれば…どれだけ考えても、後悔ばかりです……。旦那様方は、そう感じたのではなかったのですか」
「ロドリゲス…お前……」
ロドリゲスは俯いていた顔を上げると、ドナルドとジャクリーヌを真正面から見据えた。その瞳には何かの決意が宿っているように、ヘレンには思えた。
「旦那様、これ以上ヘレンお嬢様を傷つけるのはおやめください。そうされるというのであればこのロドリゲス、私のすべてを使ってでもヘレンお嬢様を逃がしてみせます」
「ロドリゲス!?」
それは、事実上退職するといっているも同義語だった。そして、それほどまでに自分のことを思っていてくれたのか、とヘレンは驚いた。別れるとき、ロドリゲスはヘレンにいつか戻ってきてくれたら嬉しい、みたいなことを言っていた。
「幼いヘレンお嬢様が、お二人の期待に応えるためだけに、どれほど頑張っておいでか、お二人は存じなさすぎます。それでは、ヘレンお嬢様があまりにも報われません」
「ロドリゲス……」
ヘレンは茫然とその名を呼んだ。あの頃、両親は確かに見てくれているとは思えなかったが、それでもそうでない人間は屋敷にいた。
ロドリゲス、グリンデル、オルト夫人。その人たちは確かに、ヘレンの頑張りを認めて褒めてすらいた。どうして、そのことを今の今まで忘れられていたのだろうか。
「ヘレンお嬢様…先ほど久しぶりにお嬢様のお姿を見て、このロドリゲス驚嘆いたしました…。かつての貴女様はいつだって張り詰めたような表情をしておいででした。ですが今の貴女様は、昔よりもずっと楽に息ができているようにお見受けできます。……きっと、あちらの国で安心できる場所を見つけられたのでしょう」
ロドリゲスは、孫を見るような目で、ヘレンを見た。その愛情こもった視線に、ヘレンは何故か泣きたくなる。思い起こせば、ロドリゲスはいつだってこのようにヘレンを見てくれていたというのに。
「お嬢様は、いつも頑張りすぎです。もっと、ご自分のことを考えて、幸せになる方法を探すべきです。…そしてそれは、このお屋敷ではできないことでしょう」
「ロドリゲス!! 今まで雇った恩を忘れたのか!!」
ロドリゲスのマイヤー家を否定するような言葉に、さすがのドナルドも怒りを露にする。しかしロドリゲスも同じように怒りを見せた。
「それはもちろん! 先代様には感謝しかございません。ですがご自分の娘一人愛して幸せにできない貴方様には、心底失望しかございません。アンドレアス様のことに関してもヘレンお嬢様に丸投げするような言い方! 貴族としてというより親としていかがなものでしょうか!」
「ロドリゲス! あなた!!」
「奥様にしてもです! 貴女様が今もこうして伯爵夫人としていられるのは旦那様の愛情あってからのことです! 普通子が中々なせねば離縁が普通の貴族社会で、あなた様方はご自身の愛を、感情を優先されていた! そのしわ寄せがお子様方にいっているとなぜお気づきにならない!! アンドレアス様を本当に愛しているのだとすれば、厳しくしてでもご自分方がいなくなった後の世界を生き渡っていく術を与えるべきでしょう!!」
ロドリゲスの言葉に、ヘレンはついに涙を零した。
鬼神のような表情で言い放ったロドリゲスに、ゼニアは今にも拍手を送らんばかりだ。そして怒鳴られた張本人たちは、そこまで言われると思ってもいなかったのか、茫然としている。
言い切ったロドリゲスは息を切らしながらも、ほろりと涙を零した。ヘレンが彼の涙を見るのはこれで二度目だ。しかし両親は見たことがなかったのか、酷く狼狽えはじめる。
「……もっと強く進言していればよかったと、ずっと後悔しておりました。先代から厳しくされていたドナルド様に強く言えずにいた私にも罪はございましょう…。ですが、どうかこれ以上ご自分たちの為だけに誰かを犠牲にするような真似はお止しください…。これでは、誰も救われません…」
それは、長年マイヤー家に勤めていた執事にだからこそ言える言葉だった。そしてヘレンは気づいた。きっと、自分がいなくなった後、ロドリゲスはずっと後悔をしていたのだろうと。愛しているから甘やかすのと、愛しているから厳しくする。それは異なるように見えて本質は全く一緒だ。
子を育てる親というのはその両極端をうまく行き来しなければならない。そしてそれができなくて、子育てに自信を無くしたりしてしまうのだろう。
きっと、正解などない。誰もが模索しながら、成長していくしかないのだ。
誰もが言葉を発せられずにいると、ドアがノックされる。
ドナルドもジャクリーヌも一瞬で憔悴してしまい、誰何することもできずにいた。普通、部屋の主からの許可がなければ扉は開かれることはない。
しかし。
――――ガチャリ
「………い、らい、あす…?」
扉を開いて現れたのは、ヘレンに初恋の甘さと苦さを教えてくれた人。
「―――あぁ……ヘレン。ずっと探していたんだよ?」
イライアス・リンデンベルグはぎらついた瞳に狂気を孕ませながら微笑んだ。




