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Everlasting  作者: 水無月
見えぬ先
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7



 本当に、いい子だと今でも思っている。


 ドナルドは書斎で手を組み合わせながら深くため息を吐いた。理由はただ一つ。双子の姉であり、長女であるヘレンのことだった。

 ヘレンとカレンが生まれた時を、ドナルドは今でも覚えている。初めての出産で疲れ切った、美しい妻のことも。アンドレアスは、二人が生まれた時にそっくりだった。


 正直に言ってしまえば、ジャクリーヌがこの年で妊娠するとは夢にも思わなかった。授かってとても嬉しかった。侍医に高齢での出産は母子ともに命がけだと言われ、本気で悩んだが、ジャクリーヌが何が何でも生みたいと言ってくれた。そうして生まれた我が子は、目に入れても痛くないくらいに可愛く、愛しさが溢れた。さらに男児。マイヤー家の跡継ぎだと柄にもなく狂喜乱舞した。


 双子も生まれたばかりのアンドレを可愛がった。特にヘレンは、母と弟の体調を気にしてくれて、休まる時間をと妹のカレンにも言ってくれていた。

 なんていい子だ。

 そうだ、そもそもヘレンはとてもいい子だ。親の期待に応えるべく毎日頑張っていた。講師陣からもヘレンのことはよく聞いており、とても評判がよかったので鼻が高かったのを覚えている。現状を保てば、確実に試験に合格できるだろうとも。


 そこまで考えて不意に、これからのヘレンをどうしようということに思い当たった。


 マイヤー家には男児であるアンドレアスが生まれた。つまりヘレンが跡継ぎになることはない。しかし今の今まで、跡継ぎとするべく普通の令嬢では行われるはずの無い教育を施していた。

 努力家だったためか、ヘレンは両親の期待に応えるように日々頑張っていた。それに、自分たちは歓喜した。ヘレンであれば、誰もが認める女伯爵になれるだろうと。だからどんどん期待をし、頑張るように言った。


 五歳から始めさせたそれらで、ヘレンは確実に知識を蓄えていった。それこそ、同い年の子たちの中であれば上位に食い込めるだろうと思うくらいに。

 しかしそれらは、親である自分たちがヘレンに望み、叶えてほしいと願ったものだ。ヘレン自身(・・・・・)が自ら行動を起こしたわけではない。

 そして、最後に褒めたのはいつだろうかと、気づいてしまった。


 ―――どうして、気づかなかったのか。


 ドナルドは頭を抱えた。

 カレンはいずれ嫁に行くことを前提としたため、ある程度の婚約者候補を見繕っている。しかしヘレンは、婿を取らせる予定だったので次男三男しか見ていない。しかし次男三男ともなれば、よくて長男の補佐をすることによって屋敷に住めるか、あるいは平民として生きるかだ。苦労が目に見えている。

 ドナルドは、可愛い娘に苦労をさせるつもりなど全くないのに。


 もっと趣味になるようなものをやらせればよかったと、いまさらながらに後悔している。そうすれば、勉強しない時間をそれにあてることもできただろうに。

 しかしヘレン専属の侍女に話を聞くと、ヘレンは少しの時間でも勉強や鍛錬を行っているらしい。難しい本を読み、模擬剣を振るい、馬術の技術を上げていると。

 ……それらは、貴族の嫁に必要なものではない。

 教養は問題ない、しかし花を生けることも、刺繍をすることもヘレンは大してやっていない。カレンのほうが百倍もうまいだろう。

 そうしてドナルドは、自分たちがどれだけヘレンを縛り付けていたのかを理解してしまった。


 ―――恐ろしくなった。


 幼いあの子に、家を継ぐのが誉れだと教え込み、五歳から教育を始めさせて、やりたいことを聞いたこともない。今思えば、ヘレンへのプレゼントは、教育に関するものだけだ。ペンや教科書、紙。間違っても女の子が喜ぶものではない。しかしヘレンは、目を輝かせながらそれらを見ていた。

 本当に嬉しかったのだと思えれば、ここまで悩まなかっただろう。しかし、カレンにあげた人形を、羨ましそうに見ていた。それをドナルドは知っていた。それでいて、あげなかった。……気づかなかったふりを、したのだ。


 だからだろうか。

 ドナルドはヘレンに何も言えなくなってしまった。勉強を止めなさいとも、続けなさいとも。好きなことをしなさいとすら、言えなかった。だって、可愛がっていると思っていた娘が、好きなことがないと答えたら。今まで勉強しかしていないから、何も知らないと言ったら。


 大切だからこそ、言えなくなってしまった。

 もし、いまさらと言われてしまったら?

 もし、なに虫のいいことを、と言われてしまったら?

 自分の人生を弄んだと、思われたら―――?


 ドナルドは、問題を先延ばしにした。それしか、彼にはできなかった。


 それが一番の悪手だと知るのは、すぐ後のことである。






***





 その日、マリは不思議と変な感じがした。

 いつもと同じ時間に起きて、身支度をして、朝食を食べた。体調を崩しているわけでもない。だというのに、何故だか心がざわついていた。

 そしてその正体は、すぐにわかる。


「お嬢様、おはようございます、マリです」


 いつもと同じように、ヘレンの部屋をノックする。常であれば、ヘレンは早起きですぐに許可をくれるのに、その日に限っては返答がない。どうしたのだろうか。

 しかし、昨日のことを思い出し、仕方のないことかもしれないとも思った。

 両親の言うとおりにしていただけなのに、それを否定される。いや、奥様からすればそんな気はないのかもしれない。だが、あれを聞いたマリですら、一瞬頭が真っ白になった。


「お嬢様、失礼いたします……」


 このままではいつまでたっても埒があかないだろうと判断し、マリはゆっくりと扉を開く。部屋は不思議なくらいに静かだった。


「……ヘレンお嬢様…?」


 何かがおかしいと、本能で感じた。

 そして、ベッドの上にある人影を認め、すぐさまその傍へと近寄る。


「お嬢様、朝でございます……?」


 ヘレンは起きていた。ベッドから上半身を起こし、枕に背を預けている。目も開いている。なのに。


「お嬢様、お嬢様…?」


 視線が、合わない。


「ヘレンお嬢様、どうかなさいましたか、お嬢様!」


 ヘレンはいくら呼びかけても、一切の反応を見せなかった。綺麗な青い瞳は虚ろで、マリを映そうとはしない。ただただぼんやりと虚空に向かっている。


「体調でも悪いのですか? お嬢様、マリです、ヘレンお嬢様っ」


 マリはまるで反応を見せないヘレンに、ぞっとした。どうして、一体何が。

 ヘレンからは、まるで生気というものが感じられなかった。


「へ、ヘレンお嬢様…」


 マリは途方に暮れ、すぐさまマリリンとロドリゲスを呼びに行った。

 早く、早く呼ばなくては。

 早く、いつものように、柔らかい声でおはようマリ、と言ってほしい。いつものように、今日はいい天気になりそうだと微笑んでほしい。

 早くしないと、私の大事な主が。

 ―――いなくなってしまうような気がした。




「ヘレンお嬢様、どうか反応をしてください」

「お嬢様、聞こえておられますか?」


 ロドリゲスとマリリンは、マリが泣きそうになりながら転がり込んでからすぐにヘレンの部屋へと来た。ガタガタと震えながら説明しようとするマリだったが、いまいち要領を得なかったし、何より信じられなかった。だが、二人はヘレンの異常な状態を見て、マリが真実を言っていたことを知り、手が震えるのがわかった。


「あ、あさから、お嬢様、はんのう、してくれなくてっ…なんどお呼びしても、なにも、いって…!!」


 二人が来たことによって緊張の糸が切れたのか、マリはぼろぼろと涙を零しながら説明する。


「風邪をひかれているようでもない、聞こえていない…? 反応もない…? いったい何が…」

「マリ、何故お嬢様がこのようになられたのか心当たりは」

「ひっく…わ、わからない、んです…、昨夜、すこしおちこまれて、いましたけど、普通にお休みのあいさつ、して…」

「落ち込まれていた? 何故」

「っ……お、奥様が、お嬢様に…」

「奥様が? 何か言われたのか?」

「……ゆっくりして、女の子、らしくなればいい、と」

「……なんてことを」


 マリの言葉に、マリリンとロドリゲスも憐憫を浮かべた。屋敷の中で、ヘレンの頑張りを知らぬ者はいない。それを一切合財無駄にも等しいと言うのは。


「それだけか?」

「はい……」


 ロドリゲスは原因が全く分からず、自分たちの手に余るとすぐさま判断した。


「マリリン、君は旦那様に。マリ、念のためハルトマン先生を呼んでくれ」

「「はい」」


 二人は非常事態だからと言わんばかりに駆けていく。いつもであればロドリゲスが注意するが、今はそうも言っていられないだろう。


「ヘレンお嬢様……」


 ロドリゲス、おはようと。柔らかい声が耳元で囁かれたような気がした。




「ヘレン!!」


 寝起きだったのだろうか、ドナルドが寝間着のまま転がるようにヘレンの部屋に入ってきた。縺れるように足を必死に動かし、何とかヘレンのいるベッドへと縋りつく。


「ロドリゲス、何がどうなっている!?」

「私にもわかりません。マリが言うには、朝お部屋を伺った時にはすでにこの状態だったと」

「ヘレン!! ヘレン! お父様だぞ!! ヘレン!!」


 ドナルドはヘレンの腕を掴み、必死に揺らす。何とかして視線を合わせようとしているのだろうが、ヘレンの体はかくりかくりと人形のように揺れ、視線は虚ろのままだった。


「っ…! 医者は…!!」

「すでにハルトマン先生をお呼びしております」

「っ、ヘレン、どうしたんだ、ヘレン…」

「あなた!!」


 がくりとドナルドの首が垂れると同時に、ガウンを羽織ったジャクリーヌが急ぎ足でやってくる。


「ヘレン!? どうしたの、ヘレン、返事をして!!」


 ジャクリーヌはヘレンの頬を手のひらで包み込む。視線は合っているはずなのに、合っていない。不思議なようだが、本当にそれ以外言いようがないのだ。


「あなた…ヘレンはどうしてしまったの…?」

「わからない…今ハルトマンを呼んでいる…」

「あぁっ…ヘレン! だからゆっくりしなさいと言ったのに…!」

「ジャクリーヌ?」

「いつまでも今までのような生活をしていないで、カレンのように過ごしていればこんなことには…」

「ジャクリーヌ、まさか、ヘレンに…? ヘレンに、何を言ったんだ」

「そんなの!! 今までのように頑張る必要はないって、ゆっくり過ごして、女の子らしくなりなさいって」


 ドナルドは愕然とした。自分が恐れて言えなかったことを、妻がヘレンに言っていたという事実に。


「じゃ、ジャクリーヌ…なんて、なんてことを…」

「え…? だ、だって、ヘレンはずっと頑張って来ていたのだし…」


 その場にいた、ジャクリーヌ以外の誰もが、何となく理解した。

 どうして、ヘレンがそう(・・)なってしまったのか。

 理解したくなくとも、わかってしまった。



 ――――ヘレンが、心の底から傷ついたのだと、わかってしまった。




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