17
「貴女が、ヘレン?」
「……」
「返事くらいしなよ」
「っ」
髪を引っ張られたヘレンは、薄暗い中顔を上げさせられる。そこには、薄い紗で顔を覆った女性がいた。
「こら、クリストファー…そんな無体なことをしては駄目よ」
「はい」
女性がそう言うと、クリストファーはすぐさまヘレンの髪の毛から手を離した。くらり、と脳内が揺れる。
「ごめんなさいね、私に免じて、赦してちょうだい」
「…あ、なた、は…」
「私? あぁ、言っていなかったわね。私はサーシャ。クリストファーの主よ」
色気が見染み出る声音に、ヘレンはぞわりと肌を粟立たせた。そして、クリストファーが言っていたことが本当だったのだと理解した。
バーゲンムートに入ったヘレンは、アレックスの元へすぐに連れていかれるのだと思っていた。しかしクリストファーはアレックスの元へは向かわなかった。そして連れてこられた小さな屋敷で、その女性と対面していた。
どうして彼女が自分に会いたいと言ったのか分からず、ヘレンは困惑した表情を浮かべた。
「ふぅん…可愛らしいわね。妹さんとは少し違った感じだわ」
「サーシャの方が何億倍も美しいよ」
「ありがとう。でも、この子も磨けば光ると思うわ」
「…そう?」
クリストファーはサーシャと名乗った女性の膝に頬を預ける。その姿はまるで猫のようだ。
「急に呼び出して悪かったわね、ヘレン。クリストファーは貴女に酷いことをしなかったかしら?」
「私がそんなことするわけないよ、サーシャ」
「っ、どの、口がっ…」
クリストファーの言葉に、ヘレンはつい反論しそうになる。しかしうまく口が回らなった。
「あらあら…クリストファー、貴方、彼女に何かしたの?」
「…酷く取り乱しがちだったから、落ち着いてもらえるように薬を処方したんだ」
「まぁ…可哀相に…。クリストファー、やり過ぎては駄目よ?」
「わかっているよ、サーシャ。でも、あの男…アレックスの頼み通りに連れてきたんだ。私を褒めて」
「ふふっ…いい子ね、クリストファー…」
サーシャはクリストファーの頭を撫でた。その光景だけ見れば、甘えん坊を甘やかしているだけのものだろう。だが、ヘレンにはその光景が異常に見えた。
「ヘレン…手荒なことをしてしてしまったことは謝るわね。でも、アレックスが貴女のことを心配していたのよ。それに妹さんも。貴族の娘でいる以上、礼儀は通さないと駄目よ?」
「れい、ぎ…?」
「そう。家出なんて以ての外よ? ちゃんと話していれば、こんなことにはならなかったのに…」
「っ、あなたに、なにがっ」
サーシャの言葉は、ヘレンの気に障った。彼女に、ヘレンの何が分かるというのだろうか。ちゃんと話そうとして、聞いてくれなかったのは向こうだというのに。そんなヘレンに、クリストファーは怒気を向けた。しかしそんなクリストファーを、サーシャはあやすように宥める。
「駄目よ、クリストファー。…でも、良かったわね、ヘレン」
「…?」
薄い紗越しに、彼女が微笑んだのがわかった。
「貴女は求められているのよ? 人として、これ以上の幸せって、あるのかしら?」
「―――ぇ…?」
「家出した貴女を、探している人がいる。そして、求めている人がいる。それって、とても幸運で幸せなことなのよ?」
「………なに、を…?」
彼女の言葉は、まるで甘い毒のようだった。じわじわと、少しずつ染み込んでいくような、そんな毒に。
「普通、貴族の娘が家出なんてしたら、居なかったことにされるわ。でも、貴女のご両親も、妹さんの旦那さんも、貴女を探していたわ。とても、大切に思われているのね?」
そんなことないと、ヘレンは心の中で叫んだ。大切に思っているのであれば、どうしてあのような真似ができたのだと。
必死に頑張ってきた娘を、どうしてあのように絶望させることができたのだと吐き捨ててやりたかった。あの頃の自分が、どれほど惨めで、悲しくて、苦しい思いをしたのか。
「あらあら、納得していないお顔ね? でも、誰にも必要とされていない絶望を、貴女は知らないでしょう? ねぇ、クリストファー?」
「…サーシャ、それは意地悪だよ」
「うふふ、貴方も少しおいたをしたからね? でも、思ったよりフツウの子…。アレックスもどうしてこの子が欲しいのかしら?」
「そんなの知ったことじゃないよ。でもサーシャ、頑張ったんだから当分の間は私のことだけを見てくれるよね?」
「えぇ、勿論よ? それに妹さんは妊娠したそうだから、アレックスも当分の間こちらには来れないわ」
「…そのまま来なくなればいいのに」
「まぁまぁ、甘えん坊な子ね」
ヘレンは、二人の会話であることに気づいた。
「…カレンが、妊娠…?」
「あぁ、そうよね、知らないわよね? そうなの、カレンちゃん、御子を授かったのですって。その間、アレックスは外出を控えるそうだけど、その間の繋ぎでも欲しかったのかしらね?」
「妊娠する前からアイツは欲しがってたでしょう? 色好きなんだよ、あの男は」
「ふふっ本当にクリストファーはアレックスが嫌いなのね?」
「当たり前だよ。私のサーシャに寄生する害虫なんだから」
ヘレンは、自分がいない間にそこまで時間が経っていたのだということを改めて理解する。半身とも呼ぶべきカレンが、あの男の子を。それは、ヘレンにとって衝撃的な事実でもあった。
「ま、もういいかしらね。面白い子だったら、欲しかったけど、そうでもないから。クリストファー、アレックスはすぐにでも呼んでいいのかしら?」
「そうだね。さっさと引き渡して、私との蜜月を楽しもう?」
「まぁまぁ、気の早い子」
ヘレンには、二人の会話がもう耳に入らなかった。カレンの妊娠のことを、両親は知っているのだろうか。カレンは、幸せにしているのだろうか。アンドレアスは。
今更、逃げていた事実すらも放り出してそのことを考える。
「とりあえず、今日はここで休むと良いわ。でも、逃げ出そうなんて考えないでね? 折角クリストファーが頑張ったのだから」
「見張りがついているからね。五体満足でなくともこちらは構わないんだから」
「クリストファー?」
ヘレンは、茫然としたまま御者台にいたと思しき男に持ち上げられる。
どうして、こんなことになったのだろうか。自分が、全部悪かったのだろうか。クリストファーの言う通り、自分の幸せだけを考えた結果が、これなのだろうか。
どこからか、だから駄目なのよ、と聞こえたような気がした。
******
「ジャクリーヌ!! このままではいけないと何度話し合ったらいいんだ…!」
「あなたこそ、どうして理解してくれないの!? アンドレアスがあまりにも可哀そうよ!」
「ジャクリーヌ、このままではアンドレアスは暴君になってしまう…! そうすれば、領民が反旗を翻すことだってあるんだぞ!?」
「そんなことあるはずないわ!! だって、あの子は正当なマイヤー家の跡取りなのよ!?」
連夜、マイヤー家の主寝室から怒鳴り声が響く。そのことに辟易していたロドリゲスは、ため息を隠しもしないままに廊下を歩く。
現在、仕えているマイヤー家は混沌と化していた。
長男であり唯一のアンドレアスの教育に関してのことが主たる原因だった。
「父さん」
「ゲオルグ、まだ勤務中だ。執事長と呼びなさい」
「申し訳ありません…。ですが、このままでいいのですか!? 僕たちに出来ることはないのですか…?」
「口を慎め、ゲオルグ。私たちはあくまでもマイヤー家に勤める一使用人でしかない」
「ですがっ…!」
現状を憂いているのは彼だけではない。侍女頭であるマリリンも、時折似たようなことをロドリゲスに零すのだから。
「エリザベス様にいらしていただいた方がよろしいのでは?」
「大奥様の体調が芳しくないことくらい知っているだろう」
「ですが、このままでは…」
そんなこと、息子に言われずとも知っている。しかし、本当にどうしようもないのだ。ヘレンを探して使用人を辞めたマリは、現在オルト夫人の元にいることは夫人からの連絡で知っている。叶うならば、マリがヘレンを見つけ出して戻ってきてくれないだろうかと夢想したが、そんなにうまくいくはずもない。
そして、彼女を追い詰めた一人でもある自分に、どのような顔をしてそれを口に出して望めというのだろうか。
「ゲオルグ、我々に出来るのは、今まで通りお仕えすることだけだ」
「っ…僕は、そんなの嫌だっ!!」
「ゲオルグ!」
本来、アンドレアスに専属執事として付くはずだった息子は、未熟だからということを言い訳に未だに断っていることをロドリゲスとて理解している。それほどまでに、アンドレアスの我儘は酷くなっていた。
原因は簡単だ。次期当主として厳しく育てたい当主であるドナルドと、待望の息子であるアンドレアスに厳しくしすぎることを厭う夫人であるジャクリーヌの所為だった。
「せめて…ヘレン様がお戻りになられれば…」
「ゲオルグ、それは禁句だ。それにあそこまでヘレンお嬢様を追い詰めたのは我々も一緒だと何度も言っただろう」
「だけど!!」
「それにお嬢様がお戻りになられたとして、どうするという? アンドレアス様が次期ご当主なのは絶対なのだぞ」
「……」
言葉にこそしないが、ゲオルグの考えていることくらいロドリゲスにもわかった。だが、それは非人道的な一手だ。
「ゲオルグ、お前の言いたいことくらいわかっている。だが、私たちに出来ることは主人一家をお支えすることだけだ。そこを履き違えるな」
「…はい」
納得のいっていない表情だったが、何とか落ち着かせることは出来たようで、ゲオルグは渋々その場を後にした。
しかし、ゲオルグの心配だってロドリゲスは理解してるつもりだ。このままでは、マイヤー家はまず間違いなく終わる。それが領民によるものなのか自滅なのかはわからない。だが、このままでは確実に一貴族としての務めを果たせないと判断された国から切って捨てられることだろう。
「―――?」
不意に窓の外にちらちらと光が瞬いていることにロドリゲスは気づいた。しかし夜も遅い時間、庭師が仕事をしているようにも思えない。
屋敷の外とはいえ、素性の知れないものがいるのかとロドリゲスは警戒する。
しかし一人で行って、事件が起こってはならない。ロドリゲスは別れたばかりのゲオルグを探しに行く。ある程度武術の心得があるとしても、一人で確認するなんて使用人としてあってはならない。
何事もないのが一番だが、確認しておくに越したことはないだろう。
ロドリゲスは自衛のための武器を取りに行くべく、その場を後にした。




