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「―――い、た……」
ヘレンはくらりと歪む視界を、頭を振りなんとかやり過ごしながら身体を起こした。そしてガタガタとした揺れがないことに気づく。
「おや、起きました?」
「……くりす、とふぁー……ここは、どこ」
「飛ばしに飛ばしてますからね。あと数日もすれば貴女の故郷に帰れますよ」
「っ……」
「急ぎに急いだせいで、何頭も馬を潰しましたし、散財ですよ。まぁ、これで私の幸せが確約されるのであれば安いものです」
クリストファーはにこにこと笑いながらヘレンに話しかけた。そして外の誰かに小声で何かを話しかけると、またガタガタと揺れだす。
身体がぐらりと揺れ、倒れこみそうになる。それをクリストファーが支えた。
「っ、アマリーはっ……」
はっきりとした意識があるうちに、ヘレンはずっと気になっていたことを聞いた。ヘレンが捕まったのも、アマリーが捕らわれていたからだ。
ヘレンが彼の手の中にある以上、アマリーに用はないはずだ。自警団が何とか見つけてくれていたらいいとヘレンは神に祈った。
「あぁ、あの頭の足りないお嬢さん。元気にしているんじゃないですか」
「……どういうこと」
「私も知りませんからねぇ。知り合いに預けたんですよ」
「っ、知り合いって……!」
「まぁ、私の個人的な、イイ知り合いですかね。もう二度と会うことはないでしょうけど」
クリストファーの言葉に、ヘレンの頭は真っ白になった。
知り合いに預けた。どんな?クリストファーの、イイ知り合い。それが真っ当な関係でないことくらい、ヘレンにも分かった。
「っ、どうして……!」
「おやおや、どうして? 面白いことを聞くんですね。彼女は私のことを知っているんです。貴女を捕まえてはいさよならってわけにもいかないでしょう? まぁ、そのうち何も分からなくなってヨクなるんじゃないですかね?」
「なんて、ことを……!!」
ヘレンは目の前の男が、同じ人間とは思えなかった。どうして、そんな酷いことが出来るのだろうか。
「あはは、それを貴女が言います? そもそも、貴女さえ彼らと関わらなければ、彼女はそんな目に遭わなかったでしょうに」
「……え」
「だって、そうでしょう? 貴女がバーゲンムートで大人しくして、くそ野郎の元に行っていたら、あの娘は何も知らないまま、幸せな頭であの家にいられたでしょうにね。それに、バーゲンムートに貴女の幸せがあったかもしれないというのに。今起こっていることすべては、貴女の所為ですね」
「…私の、所為…?」
「そうそう、貴女の所為」
本来のヘレンの頭であれば、そんなことはないと言い切れたかもしれない。バーゲンムートにいれば、ヘレンに明るい未来はなかった。それにそもそもアレックスの元に行くつもりなど欠片もなかった。
だが、この時のヘレンは冷静ではなかった。何度も薬品によって眠らされていたヘレンは、クリストファーの言葉が正しいように聞こえてしまった。
自分が彼らの元に行かなければ、アマリーが攫われることもなかった。世話になったヴィノーチェ家に、迷惑をかけることもなかった。
「だ、って……私、私……ただ…」
「貴女さえ、我慢していればよかったのに。そうしていれば、貴女のご両親も、カレン嬢も、弟も、もしかしたら貴女も、幸せだったかもしれないのに。ヴィノーチェの面々だって、面倒事を抱え込まなくても済んだかもしれない」
「私、さえ……?」
「そうそう。貴女の所為で、あのお嬢さんは死ぬよりも辛い目に遭うでしょうねぇ…、そんな目に遭わせた貴女を、一生許さないでしょうね。使用人をそのような目に遭わせた貴女を、ヴィノーチェの面々は許しますかねぇ?」
冷静に聞いていれば、クリストファーの言葉はおかしなものだ。そもそもヘレンの所為なのは確かだが、アマリーをそのような目に遭わせたのはクリストファーだ。ヘレンに非などない。だが、この時のヘレンにはそうは思えなかった。
ガタガタと体が震え、目の前が真っ暗になるような気がした。
結局、ヘレンには何もできない。それどころか、疫病神のようなものだったのだろうか。…病に罹ったまま、祖母の家にいるべきだったのだろうか。
助けて、それすら言うことが、今のヘレンには罪のようにすら思えた。
茫然とするヘレンを見て、クリストファーは満足そうに笑みを浮かべた。嫌いな女が絶望する姿というのは、なんと甘美なのだろうか。
クリストファーにとって、女はサーシャだけだ。それ以外は女ですらない。だが、そのクリストファーが初めて嫌いだと思った女が、ヘレンだった。
自分のことばかり考える彼女は、まるで自分のようだった。
(だから苛つくんだよねぇ…)
自分と似たような考えを持つ彼女は、自分よりも恵まれた環境にいた。家族に愛され、ちゃんとした教育を受け。少なくとも、その日の食べ物に困ることも、物を盗んで大人に殴られることもない生活を送っていた女。捕まって、気持ちの悪い人間の慰みになることのない、安定した人生を持った女。
正直に言えば、そんな人間など腐るほどいる。その誰もを、クリストファーは憎んだことなどなかった。逆に言えば、その経験を経てサーシャと出会えたのだとすれば、必要なことだったのかもしれないとクリストファーはある意味感じていた。
「それなのに、私と同じように自分のことばっかり考えて…気持ち悪いにもほどがある」
茫然としているヘレンに、自分の言葉は届かないだろう。
ヘレンは、ずるい。クリストファーはそう思っていた。せめて、自分と同じように醜い自分を認めているのであれば、ここまで酷いことは……しなかったかもしれない。だが、彼女は自分がまるで真面目で清廉潔白であるかのように振る舞おうとするのだ。
それが何より、クリストファーを苛立たせた。
「それに比べて、サーシャはなんて素敵なんだ…!」
サーシャは、素晴らしい。クリストファーは本気でそう思っているし、事実そうだ。夫を亡くし、世間の荒波に揉まれ、それでも彼女は美しく微笑む。その清濁全てを飲み込んだ笑みは、あまりにも美しくて女神を見間違うほどだ。
彼女は、目の前で勝手に絶望している女と違って、汚い自分を理解している。それを認めたうえで、サーシャは綺麗に微笑むのだ。クリストファーにとって、サーシャは唯一の光だ。
かつて世界に絶望した自分。人間の欲望に晒され続け、自分に綺麗なところなどどこにもないと思った自分を、サーシャはその笑みで受け入れてくれた。汚いところなど、誰にでもあるのだと言いながら。
その時の妖艶な笑みを思い出し、クリストファーは滾りそうになる自分を必死に抑えた。
「……カレン嬢は気にすらならないんだけどね…ヘレン、君は駄目だ。私の琴線に何もかもが触れる」
双子の妹だというカレン。彼女は、クリストファーにとって女ではない存在だ。彼女がアレックスに傷付けられようがどうなろうが、知ったことではない。だが、同じ家に生まれてここまで異なる性格になると、逆に面白いとは思った。だが、それだけだ。
「大嫌いだよ、ヘレン。本当に」
クリストファーは早くサーシャの腕に包まれたいと思いながら、彼女へと思いを馳せた。
*****
「エルサ様」
「お帰り、トンクス。ノアは?」
「はい。ミーシャ様とゼニア様と準備をしておられます」
「そう。私がいない間に色々と動いてもらって助かった」
「いいえ、お気になさらず。それに私の教育が至らずに大変申し訳ございません」
「うん。そこはお前の非もある。三か月は減給だ」
「はい」
結局、その日のうちにヘレンたちの足取りが掴めることはなかったため、トンクスはアマリーたちを連れて屋敷へと戻っていた。憔悴した状態のアマリーたちに優しい声をかけるつもりはなく、帰りの馬車の中はまるで葬式のようだったのは言わずもがなだろう。
「ターニャ様方は…?」
「あぁ、あの子たちにもある程度は説明している。子供といっても、ヴィノーチェ家に生まれた以上、ちゃんとした情報を以てして考えさせなくてはならないからね。……それにしても、ヘレンも随分やらかしてくれたね。あれだけ頼るようにと言い聞かせていたはずなのに、あんな行動を取るとは…。あの子のこと、買い被りすぎたかな?」
トンクスは、冷めた目で話をするエルサに首を横に振った。
「一応、行かないと決めてはいたようですから。そのあとのアマリーの行動に問題がございましょう。それにクリスという男の行動が早すぎます。きっと、ヘレン様の取られる行動を予測していたんでしょう」
「だとしても、だ。ヴィノーチェの名前を背負わせるには、あまりにも頼りない」
「それはこれから教育をすればよろしいのでは?」
「まぁ、そうだね…。トンクス、いやにヘレンの肩を持つね。何かあったのかい?」
「ノア様が、ヘレン様を妻にされたいと」
「―――ノアが!? あの子が、自らそう言ったの!?」
トンクスの言葉に、エルサががたりと椅子から立ち上がった。確かに、エルサはノアとヘレンが一緒になったらいいと思い、そのような言動をとっていた。しかし、ノア自ら明確な言葉はなかったのだ。
「それは…ヘレンのことをいいパートナーとして?」
「いいえ、惚れていると、しっかりと聞きました」
「へぇ、そう、へぇ…。なら、本格的にヘレンを迎え入れる用意をしないとね」
エルサは一瞬で落ち着きを見せると、椅子に座り直し、にやりと笑った。
「とりあえず、戻ってきたらヘレンにはお仕置きだな。勝手なことをして…。いくら使用人を助けようというのがあったとしても、独りよがりな行動は面倒事を産むことを徹底的に叩きこまないと」
「そのほうがよろしいでしょう」
トンクスはエルサの言葉に同意をする。そして次の瞬間、エルサは当主としての凛とした表情をした。
「―――ノアは、アマリーたちには会わなかったみたいだね」
「はい。彼女たちの処分は当主であるエルサ様が決めるべきであり、今のご自分では感情的になりそうだから、と仰っておられました」
「そう。案外冷静だね。よかった」
妻にしたいとノア本人が望んだ女性が、彼女たちのせいで連れ去られたことに腹を立て、何かしているのではと危惧したようだった。しかし、トンクスの知るノアはそのようなことするはずもなく、冷静に当主であるエルサに任せた。
そのことに満足したのか、エルサは二人を呼ぶようにトンクスに言う。
トンクスはエルサの命令に一礼し、音もなくその場を後にした。




