30
「―――もし、もし、そこのお嬢さん」
「―――誰?」
ジェシカは落ちくぼんだ目を鋭くさせながら声をかけてきた男を睨んだ。そこには、細い目をした男が立っていた。張り付けたような笑みが、ジェシカの癇に障る。
「ジェシカ・アストン元公爵令嬢でお間違いないでしょうか?」
「……名乗らない男に教える名前はないわ」
あの日、自警団に拘束された忌まわしい日。一時的に牢屋に拘束されたジェシカを、下男であった夫が迎えに来た。しかも仕事が終わってからで、時間も遅かった。そのことに、ジェシカは物凄く怒った。どうして自分を優先しないのかと。しかし男はジェシカを怒った。せっかく見つけた仕事を早退するわけにはいかないと。それよりどうしてこんな真似をしたのだと。
酷く、傷ついた。
夫はジェシカを愛しており、ジェシカの全てを肯定してくれるはずの存在だというのに。どうして自分が怒られなくてはならないのだ。
「ジェシカ、僕たちはもう貴族様と関りになってはならないんだ」
「どうしてよ!! 私がこんなことになっているのだって、ノアの所為なのに!」
「そんな御方を裏切ったのは僕たちだ。ジェシカ、僕たちは慎ましく生きていかなくてはならないんだよ」
「どうして!? ノアだって悪いのに! あの時、私をちゃんと愛してくれなかったから!!」
「……ジェシカ、それは…どういうことだ? 僕を愛してくれたんじゃないのか?」
「そんなの! 貴方が私を愛したからよ!」
夫は、ジェシカの言葉に茫然とすると、怒りをあらわにジェシカの手を引っ張った。
「痛い! やめてよ!!」
「帰るぞ。これ以上人様に迷惑をかけるな」
いきなり荒々しい言葉遣いになった夫に、ジェシカは怒りと戸惑いを隠せない。そんな二人を、いけ好かない女が見ていた。
「気を付けて帰るんだよ」
「……この度はご迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした」
「あぁ。奥方をしっかりと教育してくれると助かるかな」
「本当に申し訳ございません……」
「今回の件はアストン公爵にも連絡が行く。心しておくといいよ」
「………はい」
ジェシカは二人の会話の意味が良く分からなかったが、父の名を出された瞬間ぎょっとした。家を勘当された際に、激怒した父。それまでは可愛がってくれていたというのに、人でなしの父。その父は、ジェシカを家から追い出す際に二度と面倒事を起こすなと言い捨てた。あの時の冷たい目を思い出すだけで、ジェシカは無意識に震えあがった。
「ちょ、やめ、止めてよ…! お父さまに知られたら……!」
「おや? ようやくそのことに気付いたのかい?」
「―――帰るぞ」
「痛っ!! 何よ!? 何なのよ!!」
――――あれから、自分を愛してくれていた夫は変わってしまった。ジェシカに対して酷く不愛想になり、まるで監視するようにジェシカを見た。
愛してくれているのではないの、どうしてそんな酷いことをするのと問えば、自分の今までを振り返ってから言えと。ジェシカが変わらなければ、ずっとこのままだと。ただ、自分たちのかつての行いが他所様に迷惑をかけたのは確かだから、僕もその償いをすると。だから、ジェシカとは離婚しないとまで言ってきた。
なんて酷い夫だろうか。まるで、自分と離婚したいみたいではないか。彼のような男がジェシカと結婚できたのだって、彼の想いがあったからなのに。想いはもうない、とでもいうような冷たい声音。
どうして、こんなことに。
「あぁ、あぁ、かつてはとても美しいと言われていた貴女様ほどの御方が、なんと悲しいことでしょう」
「……」
狐目の男の言葉は、まるで甘露のようにジェシカに染みた。そうだ。どうして、自分がこんな目に。
「貴女様をそんな目に遭わせた方は、きっと天罰が下るでしょうね」
「……当り前よ」
「確か…ノア・ヴィノーチェ様、でしたね」
「そうよ……ノアが、全部悪いわ」
「そういえば、かの御方に婚約者が出来たとか?」
「っ…! そう、あの、女…!」
「名前はご存じで?」
ジェシカは燃えるような怒りを思い出す。絶対に不幸になると思ったノアにできた婚約者。確か。
「―――ヘレン、そう、ヘレンと言っていたわね」
「…黒い髪に青い瞳の?」
「そう、あの陰気臭い髪色…」
「ジェシカ様は彼女のことをご存じなかったのですね」
「?」
「貴女がご存じないということは、カロリアンの貴族ではないのだろう、という意味ですよ」
「あぁ…そうね。あんな女見たことないわね」
男はジェシカからその言葉を聞くと、にんまりと笑った。気持ち悪い。
「そうですか、そうですか。―――いい報告が出来そうですね」
「? 何か言った?」
「いいえ、何も」
ジェシカは爪を噛んだ。イライラする。どうして、自分が、こんな目に遭わなくてはならないのだ。全部全部、ノアが、父が、夫が、あの女が悪いのに。
狐目の男、クリストファーは目の前の浅はかな考えしかできない女に侮蔑の笑みを向けた。
ここに来るまでに、クリストファーは彼女のことを調べさせていた。婚約者を裏切り下男の男と逃げたこと。その後の生活なども。そしてそれらは全て、自業自得というものだというのに、そのことを女は理解しようとしない。
愛するサーシャの爪の垢を煎じて飲ませたいと思ったが、それすら勿体ないとすら思うほどの見下げた女。
(さっさと帰って、サーシャと一緒に居たいのに…。それにしてもあの男…アレックス…くそが。こんなことにサーシャを巻き込むなんて。サーシャもなんであんな野郎に)
苛々としながらも決して表情には見せなかった。それがクリストファーがサーシャに重宝されている理由の一つだということを、彼は理解していた。
(だが、これはいい機会だ)
クリストファーはサーシャに頼まれて"ヘレン・マイヤー"なる令嬢を探してほしいと頼まれた。それはアレックスからの依頼だが、あの男が女を探すということは。既に結婚している身の奴だが、そのヘレンを見つけてアレックスに引き渡せば、サーシャから離れるかもしれない。
そうすれば、サーシャを独り占めできる。
クリストファーは、サーシャに拾われ、育てられた。しかし、母ではなかった。そんな彼女の柔らかい肢体を思い出すと、クリストファーは滾りそうになってしまう。愛しい人。結婚はできなくとも、ずっと傍にいると決めた。そんな彼女を食い物にしようとするアレックスなどを、何度殺そうと思ったことか。そのことを進言しても、サーシャはころころと笑うだけだったが。
「しかし、こんなところまで逃げていたとはね…」
正直に言って、ヘレンを探すのは骨が折れた。サーシャの伝手がなければ見つけられなかっただろう。だから、マイヤー家の面々も見つけ出せていないのだろうと思う。まぁ、それ以前に彼らにそんな伝手も能力もないだろうが。そうでなければ、アレックスの裏の顔など最初に気づいただろう。
「さてさて、どうしようかな……」
クリストファーは、自分とサーシャだけが幸せであればいいと思っている。そしてそれを壊そうとする者は徹底的に壊してしまいたいとも。その筆頭がアレックスだ。
「とりあえず、ヘレン嬢のことをもっと調べてみるかな」
さっさと終わらせて、彼女の元に帰ろう。彼女の傍こそが、クリストファーの在るべき場所なのだから。
******
「……はぁ」
サイラスは隠しきれないため息を漏らした。おかしくなってしまった兄をどうするべきか、と考えて。兄の部屋に向かうが、その足取りは重い。どうして兄は理解してくれないのだろうか。
「……兄さん」
扉の前から呼びかけるも、返事はない。そろそろ、父が本気で兄を後継から外そうとしていることに、兄は気づいているのだろうか。
「見つけた…!!」
サイラスが諦めようと扉に背を向けた瞬間、扉が勢いよく開かれ、中からイライアスが目を爛々とさせて出てきた。
「兄さん…?」
サイラスが怪訝そうに兄に声をかけるが、聞こえていないのか。イライアスは目の下に隈を作りながらも笑みを浮かべていた。その様子に、サイラスは不安が湧くのがわかった。
「ヘレン、やっと、見つけた…!」
「!」
兄の口から出たその名前に、嫌悪感が沸き上がる。兄をおかしくさせた人。彼女が全て悪いわけではないことくらい、サイラスにもわかっている。だが、どうしてもその気持ちは拭えない。彼女とさえ知り合わなければ、兄はこんなことにならなかったかもしれないというのに。
「兄さん!! もういい加減にしてよ!! 父さんが兄さんを後継者から外そうとしているんだよ!?」
「…ヘレン、やっと、見つけた…絶対に、次こそ守る…」
ぶつぶつと譫言のように繰り返す兄に、サイラスは泣きそうになった。かつて、かっこよくて仕事ができた兄。どうして、こんなことになってしまったのだろうか。
「アレックスを監視していて良かった…私は、間違えていなかった…」
「……」
「ヘレン、カロリアンなんて、遠い場所に逃げて…どれほど寂しい思いをしているだろうか…」
「……」
「あぁ…私が、迎えに行って、守らないと…」
「……」
サイラスはふらふらと歩き出した兄の背を見送った。そして齎された情報を頭に叩き込む。彼女には悪いが、兄とはしっかりと決別してもらわないと。そうすれば、兄が元に戻るかもしれない。
分かりづらいかもしれないが、サイラスは兄のことを心の底から尊敬している。兄以外にリンデンベルグを継げる人はいないと今でも本気で思っている。父が兄のことを切ろうとしていることを、何とかして阻止したい。自分では、リンデンベルグを継げるはずないのだ。
「―――サイラス、あいつはどうなっている」
「父さん…」
サイラスが自室に戻ろうとしていると、背後から父に声をかけられた。その冷たい声音に、サイラスは背筋に冷や汗が伝うのがわかる。
父は、悪い人ではない。だが、あまりにも厳しい人だった。そんな家は、いつも息がつまるようで。兄だけが、サイラスの心の支えだった。
「……もう少し時間をください」
「いつまでだ?」
「…」
「このままの奴ではこの家を任せることなんぞ出来ん。分かっているな?」
「……はい」
「お前もいい加減心構えをしておけ」
父はそれだけ言うと、顔を険しくさせたままサイラスの脇を通り抜ける。彼の顔が見えなくなった瞬間、サイラスは細くため息を吐いた。
「…絶対に、兄さんのことは僕が守ってみせる」
そのためには。
サイラスは決意を固くし、やるべきことを頭にリスト化させながら部屋へと戻っていった。




