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感謝を!
「先生、ここなんですけれど」
「どれどれ……」
グリンデルはいつもと同じように、ヘレンのわからないところを教えてくれた。その瞳に憐憫は混じっていないことに、ヘレンは本人も知らぬうちに安堵した。
復習していてわからないところを聞き、それが解消されると今度は先に進む。
―――恐ろしいほどに、通常と同じだ。
しかし、最後に談笑をしているときに、それはやってきた。
「……ヘレンお嬢様、これから、どうなさるので?」
「…こ、れから、ですか…?」
グリンデルが頷く。その瞳には、強い感情が浮かんでいるように見えた。
「…ご子息様が生まれた以上、バーゲンムートの法律上においてお嬢様が伯爵家を継ぐことはありません」
「……そう、ですね」
「お嬢様の行われている勉強、及び鍛錬に関してですが、全てお嬢様が伯爵家の跡取りとなるべく行われたもの。しかし跡取りになられぬ以上、これ以上の勉学や鍛錬はお止めになられたほうがよいでしょう」
「!? ど、どうしてですか…!?」
ヘレンはグリンデルの口から出たそれを、信じられない思いで聞く。どうして、先生がそれを言うのだろうか。しかし、返ってきた言葉は貴族の令嬢として当然で、ヘレンには縁のなかったものだった。
「お嬢様はどこかの貴族へと嫁ぐことになられるでしょう…。しかし、男というものは厄介で、自分より能力のある女性を認めようとはしないものが多い」
「で、でも、女性当主様は…」
「あの方々は、当主となられたから、誰も表だって言わないだけです。彼女たちの元に来るのは、家を継げない次男や三男坊。恋愛婚などで長男が来ることはほぼありません」
それは、ヘレンにもぼんやりとだが理解していたことだった。きっと、自分には恋愛婚は難しいだろうと。
「お嬢様はまだ、デビューをされておりませんから、知らぬのも仕方ありません…。しかし、女性だてらに剣を握り、弁が立つというのは、矜持の高い男性貴族にはやっかまれやすいのです」
「で、でも…そうしたら、私は…」
いったい今まで何のために頑張ってきたというのだろうか。
そんなヘレンの心情を呼んだのか、グリンデルは痛ましそうな目でヘレンを見る。
「…少なくとも、ご子息様が勉強をするには早すぎますから、時間はありましょう…。それに伯爵様からはお嬢様の講師を辞めるようにという言葉も頂いておりません。ですがヘレンお嬢様…、貴女は貴女のこれからを考えねばなりません」
「……」
ヘレンは言葉を失った。いつだって優しく自分にものを教えてくれた先生が、こんなに厳しいことを言うなんて。
そして、正しい言葉が、こんなにも痛いなんて。
「…傷つけたことは理解しています…。ですがヘレンお嬢様、貴女は賢い。それにとても努力家だ。私は貴女を幼子だとは思っていません。矜持のある、とても素晴らしい女性になるだろうとも思っております。だからこそ、厳しいことのようですがお伝えしました」
「……あ、りがとう、ござい、ます…、先生。先生に、そのように…仰っていただけて、とても…嬉しいです…」
いっそのこと、泣いてしまいたい。でも、それをヘレンの矜持が許さない。
「…今日はここまでにしましょう。また、来週伺います」
「…あ、お見送り、を」
「いいえ、大丈夫です。マリさん、頼めますかな」
「…はい、グリンデル様」
マリがグリンデルを連れ立って部屋を出ていく。本来ならば招いている身として、やってはならないことだが、ヘレンはどうしても立ち上がれなかった。
グリンデルから放たれた言葉が、ヘレンの頭の中をぐるぐるとまわる。
あまりにも正しいことを言われて…いや、自分でも心のどこかで考えていたことを言われて、怒ることも泣くこともできそうになかった。
ヘレンが頭を真っ白にしている間に、マリはグリンデルを見送ってきたらしく、いつの間にか部屋に戻っていた。紅茶すら、用意されている。
「…あ、ありがとう、マリ…」
「お嬢様…、グリンデル様から言付けを預かっておりますわ」
「先生、から…?」
「はい。『お嬢様の才能を無駄にしない道を、探してみます』とのことです」
ヘレンはぼんやりと私の才能?と考えた。自分の才能とは、何だろうか。もっと幼いころに願った天才ではないことは、知っている。同年代に比べて知識があるのは確かだが、それも何度も復習してようやく覚えたものばかり。
そこまで考えて、ヘレンは自分の才能がなんなのかわからなくなった。自分に、そんなものがあるのだろうか。
ひたひたと、冷たい何かが足元から這い上がってくる気がする。
でも、とヘレンは考えた。今はアンドレアスが生まれたばかりだから、両親はそちらにつきっきりなだけだ。いずれ、もう少し落ち着けば、ヘレンやカレンのことも考えてくれるはずだ。その時に相談しようと思った。それまでは、今まで通りに頑張ろうと。
頑張れば、褒めてくれるはずだから。
ヘレンは少しだけ冷めた紅茶を口にした。
****
「グリンデル様、なぜ、あのようなことを…」
マリはグリンデルの少し前を歩きながら小声で問うた。
「あのようなこと、とは、先ほどのことですかな」
「…それ以外に何があるというのですか。どうして、お嬢様にあのようなことを話されたのですか? あれではまるで、お嬢様のされていることが無駄になると仰っているも同然ではありませんか」
マリは、怒っていた。自分の大好きな、可愛い主。いつも丁寧で、優しい女の子。ここに来る前に奉公していた屋敷でのお嬢様は、使用人は何をしてもいいと思っていたようで、若かったマリは本当に嫌な思いをし、涙した。
一時、貴族なんて、と嫌悪感を持っていたが、マイヤー家に来てそれは一新された。
旦那様は奥様だけを見て愛し、侍女に手を出そうなんて欠片も考えておらず、奥様も高飛車なところはない。たまに細かすぎるところはあるけれど、ちゃんと自分たちを人として見てくれる。カレンお嬢様も普通の貴族のお嬢様だけれど、以前のお嬢様よりは全然人としてよかった。
そして何より、主となったヘレンお嬢様は優しく気高く、幼いころに夢見た貴族そのものだった。
「……いずれ、わかることです。それにヘレンお嬢様はとても敏いお方だ。言われればより早くご自身の進退を考えられるはずです」
「それでも、今まで行ってきたこと全ては無駄になると言われて、傷つかないお方ではありませんわ」
ご子息が生まれたことは、純粋に嬉しいし喜ばしい。でも、だからといってヘレンお嬢様の頑張りがなかったことになるのだけは、許せなかった。
毎日毎日、インクで手を真っ黒にしながら復習し、手に血豆が出来ても、素振りをやめることはなかった。落馬で危ない目に遭った時なんて、もうお止め下さいと何度進言しようとしたことか。
それでも、ヘレンお嬢様がひとつ何かが出来るたびに嬉しそうに微笑むから、止められなかった。
だから、マリはヘレンお嬢様のサポートを全力で行うことを決意したのに。
「……だが、ご子息がお生まれになった以上、ヘレンお嬢様が跡継ぎになることはありません。…それこそ、何かが起きない限り」
「っ」
しかし、いくらマリがヘレンお嬢様を敬愛していたとしても、旦那様であるマイヤー伯爵を悲しませるような真似はできるはずもない。だって、マイヤー家の人々は優しいのだ。
奥様や旦那様が、お二人がお生まれになったときにどれほどお喜びだったのか、侍女頭のマリリンに聞いている。…同じく、どれほど男児を望んだのかも。
「っ…だからといって、いきなり止めろと言われて止められるほど、短い時間をつぎ込んだのではありませんっ…!」
「…マリさん」
「ヘレンお嬢様は、確かに一般的な天才というものではないでしょう…、でも、努力をされる天才ですわ」
「それは我々講師陣もよく知っています」
「ならどうして、あのようなことを…」
マリの問いに、グリンデルは低い声で答えた。
「そうでもしないと、お嬢様が、目的を失ってしまう」
「目的、ですか?」
重々しく頷くグリンデルに、マリは鸚鵡返しに問うた。
「そうです。今、ヘレンお嬢様は伯爵様方の希望で、一生懸命頑張っておられます。その目的、あるいは目標はマイヤー伯爵家の跡継ぎになるという一点のみです」
それはずっと前からだが、それの何がおかしいのか、マリにはわからない。
「そのためだけに、お嬢様は普通の貴族のご令嬢がされなくてもいいことをし、学ばれました。…逆を言えば、普通のご令嬢には不要なのです」
「……それは、先ほど話されていた男性の矜持、というものですか」
「そうです。もしお嬢様が嫁いだとしましょう、そして夫である人の行うものに、異議を申し立てる。それだけの知識を、お嬢様はお持ちですから」
ありえなくはないと、マリは思った。貴族の当主になるための教育を受けているヘレンお嬢様ならば、きっと意見することもあるだろうと。
「しかし、意見されたほうは、侮辱されたと思うのです」
「!? どうしてですか!?」
「…結局のところ、お嬢様が試験を受けることはないでしょう。ですから、公的にお嬢様がその才能があるということは証明されていないのです」
「―――!」
そうだ、とマリはようやく気付いた。いくら過去の問題を解いたからといって、それは合格にもならないし公的な効力などない。そして、嫡男の生まれたマイヤー伯爵家の令嬢は、その試験を受ける資格すらない。
「それじゃあ…お嬢様は…」
呆然とした声のマリに、グリンデルは重々しく頷いた。
「知識がありすぎても、やっかまれるのです。ですがまだお嬢様は十三歳。今から勉強を止めて、マナーや教養の身を学べば何とかなるかもしれないのです。ですが、今までの唯一の目標であった跡継ぎ、という名目をなくしたお嬢様の心が、もつかどうか…だからその前に、別の目標を作っていただきたいのです」
マリは絶句した。どうして、そのことに思い当たらなかったのだろうかと、自分を殴りたい気持ちにすら駆られた。
ヘレンお嬢様は良くも悪くも真面目だ。幼いころに言われた言葉を、忠実に守ろうとするくらいには。もう少し休み休みすればいいのにと何度思ったことか。でも。お嬢様は常に全力だった。
そのお嬢様が、いきなり人生の目標をなくしたら?当たり前のことが当たり前ではないと言われたら?
それは、きっといきなり真っ暗闇に放り出されるような、そんな、恐ろしいことではないだろうか。
マリが顔色を蒼白にしていることに気づいたグリンデルは、マリの腕からコートを抜き取ると自分で着た。そして少しだけ考え込むと、マリにヘレンお嬢様の言付けを頼みたいと言った。
「出来るかどうかはわかりません…、ですが、お嬢様の才能を無駄にしない道がないか、探してみます」
「無駄にしない、道…?」
「…本当に狭き門です、正直、女性でいるという話は聞いたこともない。ですが、もしかすれば…」
「な、なんですか、それは…!?」
「…政に関わる仕事です」
「政…つまり、国にお仕えするということですか?」
「えぇ…しかし残念ながら、バーゲンムートでは女性が仕官したという話は一度も聞いたことがありません。なので、可能性はほぼないに等しいでしょう…。ですが、調べる価値はあるかと」
「!! お、お願いいたします、グリンデル様…!」
「頭を上げてください、マリさん。出来ない可能性のほうが圧倒的に高いのです…」
「それでも、それでも…!!」
私の愛するお嬢様の努力が、報われる可能性が少しでもあるのであれば。
マリは、グリンデルの話がうまくいくようにと、神に祈った。




