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「マリ、マリ、どこにいるの?」
「ここです、夫人」
ヘレンを探し、そしてオルト夫人の元に身を寄せるようになってどれくらいが経ったのだろうか。寒さが肌身に染みるのをマリは感じていた。思えば、ヘレンを探している時は季節なんて感じている余裕がなかったと思い出す。それくらい、マリはヘレンのことだけを考えていた。
「あぁ、ここにいたのね。そろそろお茶にしましょう」
「はい」
ボロボロになりながらもヘレンを求めるマリを保護してくれたサブリナ・オルト夫人。かつてのヘレンの家庭教師の一人だ。
そしてマリが知る中で唯一、ヘレンの行方を知っている人。しかし、オルト夫人は今なおマリにその行方を知らせようとはしなかった。
「もうそろそろで本格的な冬になるわね」
「そうですね。暖炉にくべる薪の量を確認しておきます」
「助かるわ。今夜はシチューにしましょう」
「かしこまりました」
オルト夫人の夫は日中仕事をしており、夜も遅いためマリはあまり顔を合わせたことがない。しかしとても柔和な人で、マリのこともすぐに受け入れてくれた。
穏やかな、日々だった。
最初の頃、マリは毎日のようにサブリナにヘレンの行方を聞いていた。しかし、そんなマリにサブリナは厳しい言葉を投げかけた。それは、マリの朦朧とした意識を覚醒させるには十分だった。
きっと、今のマリがヘレンの元に行ったとしても、迷惑にしかならない。それは、マリの望むことではなかった。
少しずつ落ち着きを見せ始めたマリを、サブリナは冷静な目で見ていた。そしてその晩、サブリナは夕食を共にし、その後のお茶を口にしながらその言葉を口にした。
「ヘレン様は、元気にしていて、今はご自分の道を模索されています」
「―――っ!!」
今まで、元気にしているだろうとしか言わなかったサブリナは、それを明確にした。
「お、お嬢様が…!! 連絡を取られたのですか!?」
「落ち着きなさい、マリ。席について」
「っ……もうし、わけありません……」
少し前のマリであれば、サブリナの言葉を聞かなかっただろう。しかし、マリはサブリナの言葉を聞き、ちゃんと席に座った。それを見たサブリナは、紅茶の香りを一度嗅ぐ。
「……ヘレン様は、私が最も信頼する御方に預けました。先日その御方から連絡が来て、ヘレン様が元気にされていると知らせてくださいました」
「お、お嬢様はどちらに、どちらにいらっしゃるのですか…!?」
「その前に、貴女には辛いお話となります。それでもまだ聞きたいと、そう思いますか」
「そんなの…! 私にとってヘレンお嬢様は唯一の主です…! たとえどんなことがあろうとも、私だけはお嬢様をお見捨てしたりしません!!」
「……」
サブリナは、そういったところが危ういのだと思いながらも、それを口にはしなかった。
「…ヘレン様は、この国にはいません。そして、行った先の国でご自分の立場を確立されようとしてなさっています」
「ど、どの国に…!」
「…ヘレン様は、私たちの名を口にしていないそうです」
「…?」
マリには少し理解できなかったのだろう。サブリナの言葉を理解できないでいる。人によれば、絶望してしまいそうなその言葉を、サブリナは丁寧に説明した。
「ヘレン様は、お独りになられた今、寂しいと感じていないということです」
「? それは、とても喜ばしいことでは…?」
「…つまり、貴女は今のヘレン様にとって寂しいと思うほどの感情を抱かれていないということです」
「…え?」
サブリナは自分に一度力を籠めるように目を閉じ、そしてマリを見た。彼女は、茫然とサブリナを見ている。
「ヘレン様は、貴女のことを忘れて生きている可能性がある、ということです」
「…そんな! だって、私だけがお嬢様の味方でした!! お優しいお嬢様が、私のことを忘れるなんてこと―――!!」
「マリ。貴女、ヘレン様の何を見ていたの?」
「―――?」
今のままのマリでは、ヘレンを支えるどころが重荷にしかならない。もし、本気で傍に行きたいと願うのであれば、マリは変わらなければならない。それが、サブリナに出来ることだと思っていた。
「忘れていることはないでしょう。でもね、マリ。ヘレン様にはヘレン様の人生があるのよ。ヘレン様が貴族でもなく、ただの一市民となったら、貴女はどうするつもりなの?」
「お、お嬢様の身の回りのことをします…!」
「貴族でもないのに? もしヘレン様がご自分で出来る、不要だと言われたらどうするつもり?」
「そ…れは…」
「…マリ、悪いことは言わないわ。もし、あなたが主を求めているのであれば、ヘレン様は止めなさい。あの方は、今、ご自分の足で立とうとしているわ。もし貴女が傍に行けば、それを邪魔する行為になるのよ」
「っ……でも、お嬢様には、私がいないと……」
「いないと? 泣いているとでも言いたいの? 元気にしていると連絡が来ているのに?」
「だって、私は、お嬢様のお傍にずっといました…!!」
「確かに、マイヤー伯爵家で貴女の存在は支えになったことでしょう。でも、ヘレン様はもうマイヤー伯爵家にはいらっしゃらないのよ? きっと、戻られるつもりもないでしょう」
厳しい言葉を放っている自覚はある。でも、それでも言わなければならない。それが、マリの為なのだ。
果たしてマリは気づいているのだろうか。自分が、ただヘレンに依存しているだけなのだということを。それでは、いけないのだ。
「マリ。貴女のしていることに未来はないわ」
「っお、オルト夫人に何が分かるんですか!! あの家で、ヘレンお嬢様の味方は私だけでしたのに!! 誰も、お嬢様のことを考えてくださらなかった!! だから、お嬢様はあんなことになって、出てしまわれた!! 私を置いて!!」
「じゃあ、聞くけれど。貴女は、何をしたの?」
「…は?」
「味方味方とマリは言うわね。でも、貴女はヘレン様の為に何をしたというの? 話を聞いていた? それなら私でも出来るわ」
「し、使用人が当主様に意見できるわけないじゃありませんか!!」
「なら、貴女は中途半端にヘレン様の味方をしていたのね」
その瞬間、マリの顔から表情が抜け落ちた。酷いことをしている。そんなの、分かっている。
「本当に味方であれば、唯一の主というのであれば、貴女はドナルド様にも意見できたはずよ。でも、貴女はそれをしなかった。結局、貴女は自己満足でヘレン様の味方をしていたのよ。あの家で、長く共にいて、そしてヘレン様が不遇に見舞われていたから」
「な、ん…」
はっきりといえば、マリの行動力は目を見張るものがある。彼女が、あるいは他者がいたとすれば、サブリナの言葉は確実に反論されたであろう。しかし、マリは反論できなかった。
「マリ、貴女のことは調べているわ。かつて勤めた貴族の家で酷い目に遭ったことも。その貴族に比べれば、マイヤー伯爵家はとても優しく良い職場に感じたでしょうね。ただ、自分が面倒を見ることになったヘレンお嬢様の境遇を除いて。確かに、貴女の行動力は評価に値するわ。ヘレン様だけを追いかけるその気概は素晴らしいものよ。でも、唯一の主というのであれば、放っておいてあげないの?」
「……」
「貴女も知っているはずよ。ヘレン様が、マイヤー家に対して逃げ出したいと思うほどに思い詰められていたことに。ご自分の未来を見つけられないほどに追い詰められていたことに。私はヘレン様が何を理由として家を出られたのかは知らないわ。でも、切欠となる何かはあったのでしょう。貴女の話を聞く限り、貴女がヘレン様の傍を離れたあの時に」
「……あれ、っくす、さま……?」
マリにはそれしか思いつかなかったのだろう。しかし、サブリナもそうではないだろうかと考えている。
「……貴女には話していなかったけれど、私は私なりにマイヤー家のことを独自に調べていました」
「っ」
「そしてあの家が今どうなっているのか、貴女に想像できる?」
「……いいえ」
サブリナはそうだろうと言わんばかりに息を吐いた。マリは、ヘレンのこと以外何も考えていなかったのだから。
「…正確ではないかもしれないけれど、アンドレアス様の教育係が何人も変わっています。つまり、誰一人として彼に教え続けることが出来ないでいるということ。そしてカレンお嬢様はファフニール伯爵家に嫁がれました」
「カレンお嬢様が……」
「ええ。そして、幸せそうにはなさっていらっしゃらないようよ」
その瞬間、マリの顔が歪んだ。まるで、自業自得だとでも言うように。マリの気持ちは分からなくもない。だが、サブリナにとってカレンとて可愛い教え子だった。
「アレックス・ファフニール伯爵には、懇意にされている女性が複数名いるというのが最近になって噂になっているの。でも、それもきっと以前からでしょう。どうやってうまく隠したのかは知らないけれど、結果としてカレンお嬢様は幸せでいっぱいではないということね」
「……ずっとヘレンお嬢様を蔑ろにしていたからです。アンドレアス様の件だってそうです。お嬢様があれほど頑張られておいでだったのに、旦那様も奥様もお嬢様の仰られることを軽く見られていました…。天罰です」
言い切るマリに、サブリナはため息を吐いた。まるで話にならないとでも言うように。
「…マリ、今の貴女にヘレン様のお傍にいる資格はないわ」
「っどうしてっ!!」
「ヘレン様は、ご家族を愛していたのを忘れたの?」
「―――っ」
そう、ヘレンは家族を愛していた。だから、自分が壊れるまで頑張ってしまった。どうしてそのことを、一番近くにいた彼女が忘れてしまったのだろうか。
「確かに、人によっては自業自得と言う人もいるかもしれないわ。でも、ヘレン様の一番近くにいた貴女が言っていい言葉ではなかった。分かる?」
「でも、でも、ヘレンお嬢様はずっと蔑ろにされて…」
「そうかもしれないわね。でも、旦那様方がヘレン様を愛していなかったわけではないわ。だから、ヘレン様は逃げた」
「わ、からない、わかりませんっ!! どうして、どうして…!」
泣き崩れるマリを見ながら、サブリナはまだ時間がかかると判断する。マリは、まだ自分の物差しだけでしか物事を判断できない。それでは駄目なのだ。
マリにとって、ヘレンの傍にいることは自分の幸せであり、ヘレンの幸せだと思い込んでしまっている。それはヘレンに依存し続けるということ。そんな関係は、長くは続かない。
「―――マリ、時間はあるわ。ゆっくり考えましょう」
「サブリナ、さま…」
涙に濡れたその頬に、サブリナは手巾をあてた。




