25
――――時は少し遡る。
ノアは、母に言われてヘレンよりも少し早く、その部屋にいた。
「どうしたんですか、母上」
「いや、事前に少し話しておきたくてね」
「?」
夕食の席は普段よりも少しだけ賑やかに終わっている。やはり母の存在は大きく、ターニャとエメリオが色々話を聞いてもらっていた。ノアはそんな光景にヘレンが溶け込んでいるのを安心しながら食事を終えたのだが、何かあったのだろうか。
「ノア、城での条件はどうだった?」
「あぁ……正直、ヘレンが惹かれてもおかしくない内容でしたね」
「だろうね。ヘレンは能力的に言って次席などは難しいかもしれんが、それでもその補佐であれば問題なく出来るだろうしね」
「はい」
エルサはノアの頷きを見てから、椅子に腰かけてにまりと笑った。
「―――あそこにいれば、ヘレンを見初める男も出るだろうねぇ」
「……そうですね」
「実際、ヘレンは美人の部類に入るしね。それに性格もいい。あそこの男たちはヘレンのような女性に一瞬で骨抜きになるかもしれないなぁ」
「………可能性は、ありますね」
「器量よし、見た目よし、さらに文官ともなれば一定の収入がある。暮らしに困ることもないだろうしね。そうなると…うちにいる必要性もないかもしれないねぇ」
「………何が言いたいのですか、母上」
エルサの重ねた物言いに、ノアはじとりとエルサを睨んだ。しかしそこは母親。ノアの視線をものともせずにエルサはにこりと笑みを浮かべる。
「いやね? ターニャとエメリオがヘレンにはうちにいて欲しいって言ってきてね」
「……いるじゃないですか」
「ははは、ノア、そういうことじゃないことくらいわかっているだろう?」
ノアの苦虫を嚙み潰したような表情に、エルサは楽しそうに話を続けた。
「あの子たちはノアが結婚しないんじゃないかと心配しているんだよ? 兄弟仲がよくてとても良いことだね」
「…まぁ、それは確かですけどね」
「それに、ノアが女性に気を遣って色々やるなんて、久々じゃないか」
「それは、ヘレンだからです。彼女がとても真摯にいるからこそ、私も同じように対応しているだけです」
かつての婚約者、ジェシカに対してもノアは気を遣っていた。しかし、エルサの目からすればあの時よりももっと丁寧だと思う。…本人が気付いているかは分からないが。
「それなら、ノアはヘレンが城で勤めるようになり、誰かと恋愛関係になっても構わない、ということ?」
「それは、彼女の意志を尊重しますが」
エルサは内心で苦笑を零した。ノアは気づいているのだろうか。彼女の意志を尊重すると言いながら、その表情が歪んでいることを。
「ふぅううん? そっかぁ? ならノアはいいんだね?」
「何がですか」
「ヘレンが、自分以外の男とキスしたり、それ以上に深い仲になったりすることさ」
「……」
「ヘレンが苦しくて泣いたとしても、慰めるのはノアじゃない男になるだろうね。ヘレンのことだ、付き合う男が出来れば彼に遠慮してノアとの距離も置くだろうね」
「何が言いたいんですか」
「いや?」
表情が歪んでいることを、ノアは気づいていないのだろう。しかし、その顔を見たエルサはにまにまと笑いを堪えれなかった。
誠実で真面目、常に冷静沈着で公正な判断ができる次期ヴィノーチェ家当主に相応しい人間。それが他者からのノアに対する評価だ。
しかし母から見たノアは違っていた。息子ながら、情に深くあまりにも優しい子。基本的に人を疑うことのなかった彼は、裏切られたあの日から家族以外の人に深入りすることを止めた。誰にも立ち入らず、立ち入らせず。そんな彼を幼い弟妹たちは本能的に心配していたのだろう。
そんな家族だけの世界に入り込んできたヘレンは、光明に見えた。
「……ノア、私はお前ほど優しい子を知らない。いや、ターニャたちも優しい子だがね。だが、ザクセンが亡くなって茫然とした私を必死に支えてくれた。お前には苦労ばかり掛けたね…」
「母上…」
エルサは口にはしなかったが、可哀相なことをしたと思っている。自分があの時、もっとしっかりしていれば。もっと見る目があれば、ノアが不必要に傷つくこともなかったのに、と。
「私は、大した苦労などしていません。尊敬できる母に、可愛い弟妹がいましたから」
「…そうだね。でもね、ノア。自分の半身を預けることのできる人というのは、とても貴重なんだよ」
「半身?」
「そう。私とザクセンのように、健やかな時も、病める時も、苦しくても、悲しくても、一人では耐え切れないそれは、誰かと分かち合えれば乗り越えられるものなんだよ」
「……母上は、それがヘレンであって欲しいと思っているのですか?」
「ん? まぁ、当人同士の問題もあるがね。だが、そういう風に彼女を見るのは一つ前進したんじゃないかと勝手に思っているよ」
「……」
「焚きつけるような真似をして悪いね。でも、母として息子に幸せになって欲しいのは本当だ」
今までジェシカ以外の女性を寄せ付けようとしなかったノア。かつては婚約者の為に。今はその元婚約者の所為で。でも、そのノアが珍しくヘレンという女性の傍に立っている。まるで雛を守る親鳥のようにも見えるが、今までを考えれば大分進歩したのだろうと考えている。
「私個人としては、ノアが好ましく思った女性を迎えてくれればいいと思っている。それがヘレンでなくとも構わないというのが本音だ。だが、彼女であればいいとも思っているよ」
ある意味、ヘレンも哀れな子だ。悲しい思いをたくさんしたことも知っている。だからといって、彼女の面倒を全て見ることは出来ない。冷たいかもしれないが、所詮ヘレンは他人だ。彼女には彼女の家族がある。ヘレンに苦労してほしいわけでも、苦しんでほしいわけでもない。むしろ、幸せになって欲しいとすら願っている。とても、良い子なのだ。
そんな二人であれば、きっとうまくいくのではないかとエルサは勝手に思っている。それにノアとヘレンが一緒になれば、ヘレンはエルサにとって娘にもなる。そうすれば彼女の幸せの為に力を尽くすことも出来るのだ。
「母上……」
「まぁ、ノアにその気がないのであれば仕方のないことだけれどね。ただ、だとするとうちに残ってもらうメリットを考え直さなければな……」
「……当面、婚約という形では駄目ですか」
「へ? いいのかい、家のことは気にしなくてもいいんだよ?」
「いえ、ヘレンを好ましく思っていることは事実なので。それに、彼女がいるとこの家は明るくなりますから。彼女の意志の問題もありますから、結婚ではなく婚約のほうがいいでしょう。何かあれば、破棄できますから」
冷静な表情で話しているが、エルサにはピンときた。これで気づいていないのだとすれば、我が息子ながら鈍いにもほどがある。
「……そうか。なら、そう話をしよう」
すると丁度良く、ヘレンが部屋を訪ねてくる。
全くもって、二人には幸せになって欲しいものだとエルサは内心で思った。
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一瞬、自分の血が沸騰したかのように熱を持った気がした。
ヘレンが、あの娘が、自分以外の人間を頼るようになる?
そう考えただけで、言葉に出来ない苛立ちをノアは覚えた。
傷つく彼女を支えたのは自分だ。心の内に溜めこんだものを吐き出させたのも、自分だ。何より、彼女の才能を一番に見出したのは自分だというのに。それを、他の誰かに奪われるだと。
いつか自分の知らないところで彼女は涙を流し、そしてそれを拭うのは自分ではない他の誰か。そしてそれが起こりうる未来であることに気づいたノアは、愕然とした。彼女…ヘレンは、ずっとここにいるのだと、勝手に思っていた自分に。
城の文官たちの仕事を見せたのも、彼女であればヴィノーチェ家を選ぶと勝手に思っていたからだ。
―――あの、白く柔らかい頬。その上をすべる涙を拭う手は、自分以外のものになるのだろうか。
宝石のようにきらめく青い瞳に、自分以外の誰かが映り込むのか。
あの指通りのよさそうな黒髪に、自分が指を通すことのないまま、他の誰かが触れるのだろうか。
……あの、ほんのりと色づいた唇に、見知らぬ男が触れる…そう考えただけで、ノアの胸中は荒れた。……表情に出ないようにしたが、母にはバレてしまっているのだろう。
そして、ノアは認めた。
自分が、彼女に想いを寄せていることを。
だからこそ、彼女には自分からノアを求めてほしいと身勝手にも思ってしまった。
ヘレンがノアのことを憎からず思っているのは分かっている。そうでなければ、弱みを見せようなどと思わないだろう。
そこからであれば、いくらでも付け入ることはできる。
ノア・ヴィノーチェ。
周りからの評価は正しい。王太子からの覚えもめでたい彼は、正しく能力のある人間だ。もし、彼がヴィノーチェ家の跡取りでなければ王太子の側近としてまず召し上げられるほどには。
その彼が本気になれば、たいていのことはうまくいってしまう。それで彼が天狗にならなかったのは、ある意味ジェシカという女性の存在のおかげだろう。
いつか裏切られるかもという考えが先立っていたノアは、それすら考えられないほどにヘレンという存在を欲した。
悲しさを、辛さを知りながらも前を向くヘレン。そんな彼女が、ノアは欲しいと。傍にいて欲しいと思った。
母の言う半身がいるのであれば、それはヘレンがいい。彼女であれば、どんなことでも乗り越えていけるような気がする。
ヘレンが母の部屋に入ってくる。
にこやかに迎え入れる母に、ノアはこれからの算段を付ける。母の前ではしないが、これからは積極的にしていこうと決めて。




