20
ヘレンは穏やかな家族団らんを過ごした後、自室へと戻ろうとした。そんなヘレンを、ノアが呼び止める。
「ヘレン、言い忘れるところだった。見学だが、問題なく申請が通りそうだ。だが、少し時間がかかりそうで、悪いがもう少し待ってほしい」
「あっ…はい、私は全く問題ありません」
先ほどの時間が楽しすぎて、つい聞くのを忘れてしまった自分を恥じる。エルサにあとで聞くようにと言われていたのに。
「そうだな……予想でしかないが、五日ほどで用意が出来るだろう。心構えだけしておいてくれ」
「わかりました」
ヘレンは、伝えられた日にちに自分の心拍数が早くなるのを感じた。正直に言って、ヘレン自身はヴィノーチェ家に居たいと考えている。でもそれではヘレンの世界はこの家だけになると言ったエルサの言葉を思い出した。
この家の人はとても誠実だ。何も知らせなければヘレンは言われるがままにしていただろう。しかし彼らは自分の将来を考えてくれている。
きっと、そろそろ自分も決めなくてはならないだろう。いつまでも甘えているわけにはいかない。自分の両足でしっかりと立つのだとヘレンは心に誓った。
*****
「……それは、本当、ですの?」
「あらぁ、ファフニール夫人はご存じなかったの?」
「結構有名なお話よね?」
カレンは、同じ階級くらいの夫人たちの集まりに参加し、そして信じられない言葉を聞いて目を丸くしていた。手がカタカタと震え、自分の顔色が悪くなるのを感じる。
「だって、アレックス様は私だけを愛してくださって……」
「ま、初々しいこと。ね、皆さん?」
「若いっていいわねぇ、私も昔はそう考えていたわ」
おほほ、と上品な笑い声があちらこちらから響く。しかしその声には嘲りが含まれていることは、カレンにでもわかった。
「ほら、先代のファフニール伯爵は人が良すぎたせいで色々とお金にお困りだったでしょう? 今代のアレックス様はお独りになられた女性をお慰めする代わりに支援をしてもらっていたのよ」
「そうそう、それに見目も悪くないから、転がってしまうご令嬢も多かったわね」
「カレン様とご結婚されたとき、少し不思議に思っていたのよ、あたくし」
あら、私もよと声が上がる。
「てっきり真実の愛とやらに目覚めたのかしらと思っていたけれど、違ったみたいね。だって、ほら、あの方は例の御方の元に通っていらっしゃるじゃない?」
「ま! 本当なのね」
ころころと囀るような声が、カレンの頭をぐるぐると回る。冷や汗が出た。
「そ、その、御方とは……」
「あら、そうよね、ご存じないのよね」
「私は他の方にも通われていると聞きましたわ」
ガン、と頭が殴られたような気がした。アレックスは数人の元へ通っている? 更にそれは皆が知っていること? 信じたくなかった。
「まぁ、恋多き殿方というのは仕方のないことよ。妻としてそれを容認し、寛大な心で受け止めて差し上げなくてはね」
「そうそう、それに私たちも、ね?」
「あぁ、そう言えば、最近吟遊詩人の方をお招きしたのだけれど、とても素敵な方だったのよ」
「まぁ、本当?」
「今度皆さんで観賞会をしませんこと?」
「素敵ね!」
カレンは吐き気を必死で我慢した。どうしてみんな、そんなにも普通でいられるのだろうか。そして話が真実だとすれば、アレックスは自分以外の女性と関係を今でも持っていることになる。
…出来ることなら、それを真っ向から否定したい。でも、カレンにも心当たりがあった。何日も夜を空けるアレックス。時折自分のもの以外の香水をまとわりつかせるアレックス。
「……も、うしわけ、ありません……気分が優れないので、失礼してもよろしいでしょうか……?」
「あらまぁ大丈夫?」
「顔色が悪いわ…」
「慣れないことばかりで疲れてしまわれたのね…ゆっくり休んで」
「……ありがとうございます。今度埋め合わせをさせてください」
「お気になさらないで?」
「そうよ、何かあればいつでも相談に乗るわ」
カレンはふらりと立ち上がって、一礼する。気を抜けば涙が零れそうだった。誰もが心配そうに見ているが、本気で心配してくれているわけではないのだろう。相談に乗ると言うのも、ただ単純な好奇心からだけだろうことも理解した。
とにかく、屋敷に戻らなくては。そしてアレックスと話をしなければならない。
「アレックス様、今日は一緒にいてくださる?」
「カレン、すまないね。今夜も予定があるんだ」
カレンは屋敷に戻るなり、書斎にいたアレックスにそう声をかけた。そして聞き慣れたその言葉に、手を握りしめる。
「……アレックス様、未亡人の方のところに通っているって、本当ですか」
「……それがどうかしたのかい」
「っ……」
否定してほしかったカレンの願いは、一瞬にして打ち砕かれた。それどころか、アレックスは不思議そうにカレンを見てくる。
「もう、やめてください! 私に至らないところがあれば直しますからっ!!」
「? どうしたんだい、カレン。伯爵夫人ともあろう君が大声を出すなんて。はしたないよ?」
「今それどころじゃないわ!!」
感情が高ぶったカレンの瞳から、ぼろぼろと涙が零れ始める。それを見たアレックスは、少しだけ面倒くさそうにため息をつくと、立ち上がってカレンに手を伸ばした。
「っ! 触らないで!!」
「痛っ……どうしたんだい、カレン。君らしくもない」
「君らしくもない? アレックス様は私の何を知っていると言うの!? 他の女性を抱いた手で私に触れようとするなんて……! 私だけを愛してくれていると思っていたのに…!」
キッとカレンが睨みつけると、アレックスはきょとんとした。
「愛しているじゃないか。だから結婚したんだよ?」
「それならっ! もう他の女性のところになんて行かないで!!」
「それは無理だよ」
「……は?」
「だって、かのご婦人方は寂しい思いをされているんだ。それを慰めるのは紳士の役目だろう? それに支援していただいているおかげで、カレンも不自由なく暮らせているんだよ?」
カレンはアレックスが何を言っているのか理解したくなかった。
「わ、私の実家からも支援を受けているでしょう!?」
「あぁ…思ったより少ないよね。やっぱりヘレンも引き受けていれば、もう少し貰えたと思ったんだけど」
「え、お姉さま? 何のこと?」
「あ、彼女は君にそのことは言ってなかったんだ。ほら、君のお姉さん、色々と問題があるだろう? だから僕のところにおいでって言ったんだ。姉妹でどう違うのかも気になったし」
「姉妹で違う…?」
「ヘレンも君とは違うタイプで美人だったしね。惜しいことをしたよ」
「……あ、アレックス様は、私を好きで結婚してくれたんじゃ、ないの…?」
カレンは震える声で尋ねた。それに対してアレックスは。
「うん? もちろん好きだよ。でも僕は恋多き男だから。それにたまには違うのも味わっておかないと、君とは一生一緒にいるんだからね」
カレンは初めて、自分の姉が言っていたことが正しかったのだと気付いてしまった。
「っ!! わ、私、実家に帰ります…! お父さまにこのことをお話して、離縁します…!」
「え? それは困るんじゃないかな」
「何を…」
「だって、君が僕と結婚したいと言い出したんじゃないか。ご両親が悲しまれるよ? それにこれくらいのこと、目を瞑れないと貴族階級の妻として失格だよ?」
「そんなはずないわ!! だって、お父さまとお母さまはお互いしか見ていなかったもの!!」
「あー…マイヤー夫妻は特殊だよね。でもね、カレン。お茶会に行ったんだろう?」
「……そ、れは」
「その時話を聞いたんじゃないの? それに、君も少しくらい遊んでもいいよ? あ、でも妊娠だけはやめてね」
「ひ、酷い…!!」
カレンはどうしてこんな人と結婚してしまったのだろうと後悔した。ただただ、両親のような家庭を作りたかっただけなのに。
「酷いって…みんなしていることだよ、カレン。君も少しは大人になってくれなきゃ」
「アレックス様は私が他の殿方に抱かれてもいいと、そう仰るの!?」
「ん? まぁ…カレンもしたら僕のこと言えなくなるっていうのもあるしね。それに互いに刺激は必要だよ。円満な家庭の秘訣、ってやつさ」
「~~~っ!!」
カレンはそれ以上アレックスの話を聞くことが出来ず、部屋を飛び出した。背後からアレックスが自分の名前を呼ぶのが聞こえる。それでも立ち止まりたくなかった。
―同時刻 マイヤー家
「あなた、どうしてアンドレに冷たく当たるの?」
「ジャクリーヌ……前にも話したじゃないか。このままではアンドレは当主として相応しくない」
「なんて酷いことを…! 待望の長男なのよ!?」
「ジャクリーヌ、それは分かっている。君がとても頑張ってくれたことも。だが、今のアンドレではいつか民から見捨てられてしまう」
「そんなの! だってあの子はマイヤー伯爵家の長男なのよ!? あの子以上に相応しい子がいると言いたいの!?」
ドナルドは連日の言い争いに辟易していた。我儘放題のアンドレアスに危機感を覚えたドナルドは、アンドレアスに対して以前のように甘やかすことを止めた。ロドリゲスに遅すぎると言われたが、それでも一縷の希望を持っていた。
自分たちの子なのだから、理解してくれる、と。ヘレンやカレンのように。しかしことはそう簡単にうまくいくわけがなかった。
「あの子が毎日あなたに怒られたと泣いているのよ…! どうしてそんな酷いことが出来るの…!?」
「ジャクリーヌ、君は誤解をしている。アンドレに言っていることはヘレンやカレンにも言ってきたことだ」
「だからって…! 母としてあの子が泣いているのを黙って見過ごすことなんてできないわ…!」
そして一番の難関がジャクリーヌだった。
甘えん坊で我儘なアンドレアスは、注意を怒られていると思っている。その為、ドナルドが注意のつもりで言ったことは怒られたと変換され、母ジャクリーヌに泣きつくのだ。
そしてそのジャクリーヌはアンドレアスを溺愛しているため、我が子に怒る夫を信じられない気持ちで詰る。悪循環だった。
「……ジャクリーヌ、このままではアンドレアスが当主になったとしても、誰からも好かれない暴君になってしまうんだよ。それを止めることが出来るのは私たちだけなんだ」
「だからって…言い方って言うのもあるでしょう?」
「普通に言っても優しく言っても駄目なんだぞ? 逆にどう言えばいいんだ…!」
「あなたが勝手にそう思っているだけなのかもしれないじゃない! とりあえず、もう少しアンドレに優しく接してあげて…あの子、あなたに嫌われているって思って泣いているのよ」
ジャクリーヌはそう言い捨てると部屋を出ていった。きっとアンドレアスの元に向かうのだろう。
残されたドナルドは深いため息を吐いた。




