18
―――「……ただ、助けになりたいと思うのは駄目か?」
―――「――――――え?」
ヘレンはノアから予想外の言葉にぽかんとした。彼がそのようなことを言うとは夢にも思わなかった。
「……あの、ノア様…? 何かあったのですか?」
「ん? 私は何もない。あったとしたら君だろう、ヘレン」
「私、ですか?」
「あぁ」
ノアの言葉に、ヘレンは考え込むように視線を下に向けた。何か、あったのだろうか。自分に。確かに、ここに来た当初に比べれば精神的に余裕が出来たのは、ある。そのおかげで、色々と考えることが出来るようになった。ノアは、そのことを示しているのだろうか。
「その、あるとすれば、余裕が出来たのだと思うのですが」
「あぁ…来た当初の君は今にも倒れそうだったな」
「そこまで…ですが、ノア様が仰る何かというのはそのことでしょうか」
「そうかもしれないな…。私が、君に何かあったのかと問うたのは、君が私たちを羨ましいと言ったからだ」
「?」
確かに、そういった。本当にそう感じたから。嫉む気持ちで言ったわけではないが、言ってはならない言葉だったのだろうか。ヘレンが不安に思い、謝罪の言葉を口にしようとすると、ノアがそれを留めた。
「悪いことではない。君が嫉妬から言っているわけではないことくらい、理解している。だが、今まで君は、自分の家族と私たちを比べたりなどしてこなかっただろう? それが、自分の家族を思い出させるくらいの何かがあったのではないかと思ったんだ」
「…そう、でしたか」
ノアの言葉も尤もだった。初めの頃のヘレンは、マイヤー家のことなど頭の片隅に追いやって考えないようにしていた。唯一、その心情を吐露したのは、ノアの晩酌に付き合った時くらいだ。しかしその時のこととて、ヘレンは考えないようにしていた。
しかしここ最近では、置いてきた家族のことを考えるようになっていた。いや、考えられるようになった、だろうか。
両親は、変わらないのだろうか。アンドレアスは、少しは我慢を覚えられたのだろうか。カレンは、幸せにやっているのだろうか。時折、ふと考えるのだ。
だからと言って、戻る気は一切ないが。しかしノアにはそうは見えなかったようで。
「……戻りたいと、思うのか?」
「え?」
「君がそうやって家族のことを思い出せるようになり、私たちを羨ましいと思うということは、本当は家族とそう過ごしたかったのではないのか?」
「それは…」
それは、そうだ。この家のように、過ごしたかった。叶うならば。
「今の君は、来た当初よりも成長しているだろう。かつて踏んだ過ちをそう簡単にするとは思わない。ヘレン、君は戻ってやり直したいと考えているのではないのか」
「そんなこと!」
ヘレンはノアの言葉に身を乗り出しそうな勢いで反論した。
「そんなこと、あり得ません! だって、戻っても、きっと変わらない…! きっと両親はアンドレアスに甘いまま…それに、きっと両親は戻ってきた私を持て余します」
「彼らがずっと君を探していると知ってもか?」
「そんなの! きっと体裁が悪いだけです。戻っても、私の嫁ぎ先を考えたりしてくれる保証もありません…、それなら、私は自分の足で立って生活する未来を……」
その時、ヘレンは改めて自分はマイヤー家に戻る意思がないことを自覚した。今まではなんとなしに戻らないと考えていたが、口にして更に思う。
自分は、戻りたくないのだ、あの家に。
「私、は、マイヤー家に、戻りたく、ありません…。だって、あの家に戻っても、きっと、私は嫌な思いばかりするんだわ……」
「…どうしてそう思うんだ? もしかしたら変わっている可能性だって」
「絶対にありえません。だって、私が療養している間も変わることはなかったんですもの……。ここでは、私がかつて教わったことが少しでも役に立つのに、バーゲンムートでは何の役にも立ちません…だって、私はどう頑張ったって、当主にはなれませんから…」
そう、かつては、教えてもらったことを当主になって役立てようと思っていた。それが出来るのは、自分だけだと。そう、期待されているのは、私なのだから、と。
でも、実際は違った。もう、あの家にヘレンという唯一の長女は必要ない。今のあの家に必要なのは、長男であるアンドレアスだけだ。
……必要とされていないとわかる家に、どうして戻りたいと思うのだろうか。ロドリゲスや他の使用人には悪いことをしているという自覚はある。でも、どうしても戻りたくないのだ。
「……私は、カロリアンで…ヴィノーチェ家で、自分の力を認めてもらえる喜びを知りました。今更、知らなかった時に戻れませんし、戻りたくもない」
今のヘレンは、世界が広いことを知った。女性という立場でも、社会に出ることを選べるという自由を知った。
選べないということと、選べるということは、どちらにも利点はあるだろう。選べないということは、考えずに済むということ。失敗しても、それを他人の所為に出来てしまう。選べるということは、自分の未来を選び、やりたいことが選べる。しかし失敗しても、誰の所為にも出来ない。
かつてのヘレンは、選べない立場だった。言われるがままに勉強をし、言われるがままに生きていた。それはそれで良かったのかもしれない。世界が広いということさえ知らなければ。
「私は、この国に居たいです。こちらに残るのか、出るのかはまだ、決められませんが…それでも、今はノア様のお手伝いをしていたいです」
「……そうか」
ヘレンはこくりと頷いた。一生かどうかは、分からない。でも、今のヘレンにはバーゲンムートに…あの家に戻る意思は欠片もなかった。
自分の意志の籠った言葉を吐いた後、ヘレンはちらりとノアを見る。
「っ…」
そしてすぐさま視線を下げた。頬に熱が上がっているような気がする。
―――どうして、あんな、優しい顔で……
ノアは、ヘレンが驚くくらい優しい表情をしていた。いつもと何が違うと聞かれても、うまく説明は出来ない。だが、はちみつ色の瞳がとても柔らかく感じたのだ。
「どうかしたのか」
「っいいえ!」
ヘレンは慌てて顔を上げる。やはり自分の気のせいではなく、ノアの表情は柔らかかった。どうしてだろうと見つめ、そしてその瞳が美味しそうだ、と感じた。
―――舐めたら、甘そう
そしてそんなことを考えた自分に、ヘレンは更に赤面した。
赤面するヘレンを見ながら、ノアは彼女に対する見方を修正していた。
正直に言って、ヘレンは自分を憐れむ悲劇の主人公型だと思っていたのだ。確かに、ヘレンは自分のことを憐れんだりなどしていないし、くよくよと迷っている様子はなかった。しかし、彼女は過去に対して向き合う…考えることを恐れていたかのようにノアには感じられた。
それ自体は悪いことではない。むしろ無理矢理考えて壊れるほうが面倒だ。
……それと同時に、壊れてほしくないとも思った。そしてそう思った自分に驚いた。自分は、ヘレンに対して庇護欲を持っているのだろうか、と。
ノアは、真正面に座り未だに赤面してるヘレンを見た。一瞬視線が絡み合ったかと思えば、彼女はまたも視線を下に向ける。
真っ青な瞳は、オレンジ色の照明に照らされて、その鮮やかな色は分かりづらい。だが、少し潤んだ瞳は、相も変わらず美味しそうだ。
似たようなことを互いに考えているとは露も知らないノアは、ソファーに深く腰掛けながらヘレンを見ながら、母エルサの言葉を思い出していた。
―――正直に言えば、ジェシカより好ましい
ヘレンの意志が一番大事だが、少なくともノアはヘレンと共にするのも悪くないと勝手に思っていた。弟妹達も懐き、母も気に入る人物など正直に言えば手放したくないほどだ。
そこまで考えて、少しだけ息をゆっくりと吐く。
どうやら自分も母に影響されているらしい。相手の意思の確認もせずにそう思ってしまうとは。
「とりあえず、この国に留まるつもりなのだとしたらこの上なく喜ばしい。更に、私の手伝いを率先して行ってくれるなんてな。イクスやベンに言ってやりたいくらいだ」
ノアがそう言うと、ヘレンは少しきょとんとした後に小さく笑った。
「そんな、あのお二人もノア様のお手伝いが出来てとても楽しそうに見えます」
「そうか?」
「はい」
顔を見合わせた二人は、くすくすと笑みを零す。
「母の意向も聞いているだろうが、私としても母と似たような意見だ。しかしそれでは君に対して公平ではない。今度城に行く際に君を連れて行こうと思っている」
「私も、ですか?」
「あぁ。今君はこの家のことしか知らないだろう? 母の言う城の文官のことだって聞いている限りのはずだ。それでは選びようがない。色々と知ったうえで、選んだ方がいいだろう」
「お気遣いいただきありがとうございます」
もちろん、ノアたちには見せないで選ばせるという手もあった。しかしエルサも、ノアも、それは選ぶべき手段ではないと判断したのだ。
もしそれをしてしまえば、彼女の国と何ら変わらない。選ばせると言いながら選ばせないなど、詐欺にもほどがあるだろう。それにきっとヘレンはいつか気づくだろう。自分たちが彼女に対して誠実でなかったことを。そうなるくらいであれば、最初から提示したほうがましだ。全てのカードを出すわけではないが。
「そうだな……すぐにとはいかないが、四日後くらいでどうだ?」
「私は全く問題ありません」
「ならそう手配しておこう」
「ありがとうございます」
母も、弟妹も気に入る女性。ノア自身、ヘレンを気に入っている。それが恋愛感情とは言い辛くとも、彼女とであれば問題の少ない人生を歩めそうな気がする。
ジェシカの問題もあるし、もし本気で彼女を受け入れるとなればやらなければならないことはたくさんある。しかし、それを入れてもいいくらいには気に入っていた。




