15
ヘレンは、ノアと話し合った数日後の夜、エルサに呼ばれて執務室へと足を運んでいた。
「エルサ様、ヘレンです。失礼してもよろしいでしょうか?」
「ヘレン、入りなさい」
「失礼いたします」
執務室に入ると、書類を見ているエルサと、トンクスがいた。
「お仕事中でしたら、出直しますが?」
「いや、ちょうど切りが良いところなんだ。座って座って」
「そうですか…? では失礼いたします」
ヘレンは緊張しながらも言われた通りにソファーに腰かけた。
「いやー、疲れた疲れた。トンクス、お茶」
「はい、かしこまりました」
トンクスが席を外し、ヘレンの緊張感は更に高まった。そんなヘレンの様子を感じ取ったのか、エルサはからからと笑う。
「ヘレン、そんなに緊張しなくてもいいよ。とりあえず、最近はどうかな? 不自由はしていないかい?」
「はい、皆さまとても良くしてくださいます」
「良かった。ジェシカの一件は悪かったね。ノアのおバカさんがやらかしてしまって」
「い、いいえ。今のところ問題はありませんので」
「うん、でも問題が起こってからじゃ遅いからね。完全にノアの落ち度だ。すまない」
「そんな、エルサ様が謝られることでは…!」
「ふふ…親だからね。ちゃんとノアも叱っておいてある」
ノアを叱ったというエルサの言葉に、ヘレンは居心地が悪い思いがした。確かにノアの行ったことは本人も言っていた通り悪手だ。しかしその後ゼニアを付けてくれたりとフォローはしてもらっている。
「その他で何か困っていることはあるかい?」
「いえ、ございません」
「そう。なら今後の話をしようと思う」
「っ、はい」
ヘレンは居住まいを正した。
「ヘレンは、今後どうしたい?」
「あの……」
ノアに言われてから、ヘレンも考えに考えた。ただ、バーゲンムートに帰るつもりはなかった。あの国に、いや、あの家にヘレンの居場所はない。戻ったとしても、自分が駄目になるだけだろうと思っている。
口ごもるヘレンに、エルサは苦笑を浮かべながら話し始める。
「あくまでも私個人の意見だ。聞くか聞かないかではなく、案の一つだとしてほしい。まず、バーゲンムートには戻らないほうが良いだろう。君の才能はあの国には勿体ない」
「はい」
「一つ、このままこの家で雇われて働いてくれてもいい。私は見ての通り忙しいからね。ノアの補佐がいるに越したことはない。メリットとしては、私たちは君の事情を知っているから、融通が利く。デメリットとしては、君の世界はこの家だけになる」
「…はい」
「一つ、私の伝手を使ってカロリアンの国家試験を受け、国の文官補佐になることだ。その場合、君に能力さえあれば上へ行くことも可能だろう。世界は広がる。だが、君は身一つで生き抜くことになる」
「……はい」
ヘレンは、すぐに答えを出すことは出来なかった。確かに、文官補佐になり、能力が認められれば自分の居場所をこの国に作ることは出来るだろう。だが、大したことないとされたら、どうなるのだろうか。
ヴィノーチェ家にいれば、その不安はないのかもしれないが、今のヘレンは世界が広いことを知っている。自分が培ってきた知識が役に立つことを知っているのだ。
「そ、の……」
「ん? いいんだよ、ヘレン。不安があるのなら口にしなさい。飲み込んだままでは、誰も理解してはくれないからね」
「っ……」
今まで、誰もそのようなことを言ってくれなかったと、ヘレンは思った。ずっとずっと、自分が頑張らなくてはならないと思っていた。誰に頼ることなく、自分の足で立っていないといけないと思っていた。
……でも、弱音を吐いても、いいのだろうか。不安を口にしても、いいのだろうか。
「……本音を申し上げれば、自分がどこまで出来るのか、知りたいという気持ちはあります…。でも、もしそれで失敗したことを考えると怖い、です…。それに、ここに居たいという気持ちもあります。ターニャ様やエメリオ様、それにエルサ様やノア様と一緒に居たいという気持ちはあるんです。でも、それは、私が甘えているのではないかと……」
「甘えることの何が悪いんだい? それに君はしっかりと仕事をしている。ただ飯食らいではないことくらい、自分でわかるだろう?」
「そう仰っていただけると、嬉しいです……」
ヘレンは、自分が何に対して不安に思っているのか、よくわからなくなっていた。ここに居たい、自分の力を試したい。何を選べばいいのかわからない。
そして選べるということに恐怖を覚えすらした。
ずっと、自分の道は決められてばかりだった。それはある意味、考える必要がないということだ。決められた道を進む。ある意味楽だったのだと気付かされる。
そんなヘレンの悩みを見抜いたのか、見抜いていないのか、エルサは柔らかな笑みを浮かべた。
「……選べるというのは、苦しいだろう?」
「っ……はい」
「まぁ、今までのヘレンは選ぶ立場になかったからね。それがどれほど楽だったか、今ならわかるね?」
「はい……こんなに、怖いことだと思いませんでした……」
「それに気付けるようになっただけでも成長だ」
「エルサ様……」
ちょうどその時、扉がノックされる。空気を読んでいたトンクスが戻ってきたようだ。
「失礼いたします。……エルサ様、ヘレン様をあまり苛められませんように」
「何だい、トンクス。私がそういうことをする人間に見えるのかい?」
「私への数々の行い、忘れたとは言わせません」
「あ~……それはほら、愛情!」
「愛情と引き換えに、私の大切なものがどんどん抜けているのをご存知ですか」
「トンクス~~怒らないでくれよ~~」
トンクスは淡々と冷たい言葉を吐きながらも紅茶を用意してくれる。ヘレンとエルサの前に置かれた紅茶からは、とてもいい香りがした。
「温かいうちにどうぞ」
「ありがとうござます」
ヘレンはこくりと紅茶を口に含む。温かい液体が喉を通り、思ったよりも自分の体が冷えていたことを知る。
「……ヘレン、これは戯言だと思ってくれて構わないし、聞き流してくれてもいいんだがね」
「? はい」
「私個人としては、このままこの家にいてくれたらいいなと思っているんだ」
「エルサ様……」
「ターニャもエメリオもヘレンのことが大好きだし、ノアも君に対しては心を許しているように見える。…将来的に、ノアと一緒にこの家を支えてくれたらなとも勝手に思っているんだよ」
「っ、それは」
「まぁまぁ、私の勝手な希望だ。感情の伴わない婚約をさせるつもりもないよ。でもね、ヘレン。私が言うのもなんだが、ノアはいい男だと思うんだ」
「それはもちろん」
「まぁ、まだ甘いところやおバカなことをすることはあるがね。まぁ、親の欲目もあるんだろうが」
ヘレンは何と返していいか分からずに曖昧に微笑む。
「まぁ、ヘレンの人生だ。他に考えがあるのであれば、それを言ってくれても構わないよ。とりあえず私が提案するのはこれだ。そうだな……一か月ほど時間をあげよう。その間に考えてみるといいよ」
「はい」
「相談ならいつでも受け付けるよ? ミーシャでもゼニアでも、相談できる相手はたくさんいる。一人で考え込むのだけはよしておきなさい」
「はい、ありがとうございます」
「とりあえず今日はここまでだ。すまないね、時間があまりとれなくて」
「いいえ、こちらこそ、お時間をとって頂きありがとうございます」
ヘレンはソファーから立ち、一礼する。エルサはソファーに座ったまま、ひらひらと手を振った。
「ゆっくりとお休み、ヘレン」
「ありがとうございます、失礼いたします」
パタリ、と扉が閉じられ、執務室にはエルサとトンクスだけが残った。
「エルサ様、ヘレン様をどうなさりたいので?」
「ん?」
「ノア様のご婚約者にしたいのかと思っておりましたが」
「ん~それはね。でも、感情が伴わない結婚生活なんて地獄だろう?」
「そうであれば、どうしてあのようにお話に?」
「ノアもだけど、ヘレンもそういった感情に対して疎そう…というか、忌避しているように見えたからね」
「そうですか? 私にはそのようには見えませんでしたが」
「まぁ、うまく隠しているみたいだねぇ」
エルサは深く腰掛けながら片膝を立てる。
「はしたないですよ」
「トンクスしかいないんだからいいじゃないか」
「はぁ……」
「若いっていうのはいいね、トンクス」
「一理ありますが、エルサ様はもう少し私に気を遣ってくださってもいいんですよ」
「十分遣っているつもりだよ?」
「………それ、私の頭を凝視して言えますか?」
「……すまん」
エルサはトンクスから顔を反らした。無理を言っているつもりはない。あくまでも、だが。
「でもね、トンクス、私はあの二人はいい関係になると思うんだ」
「それはヴィノーチェ家を栄えさせた貴女の勘ですか?」
「そうかもね」
エルサはにこりと笑った。その顔には自信が満ち溢れている。可愛い息子のノアに、甘え方を知らない可愛いヘレン。あの二人であれば、互いに寄り掛かりすぎることもなくいい関係性を築けるだろうと思う。
あくまでも勘でしかないが。
「ノアもいい加減、あの女のことなんか忘れてしまえばいいのに。それで早く孫を見せてほしいんだよね」
「それが本音ですか」
「うん」
トンクスがため息をつく。
「トンクスだって、可愛い子供を抱っこしたいだろう?」
「私が結婚できないのは九割貴女の所為ですが」
「えええ?」
「貴女が私を酷使しすぎて、何度振られたと思っているんですか」
「……ごめん」
「まぁ、貴女にお仕えするのが私の喜びですから構いませんけれど」
エルサは少しだけ気まずく思ったが、トンクスの返答に少しだけ照れをみせながら笑った。亡くなった夫が健在の頃からずっと仕えてくれている執事。この家で誰よりもエルサのことを理解してくれている戦友とも呼ぶべき人。
「ですが、ノア様とヘレン様のことはあまり茶化さないようにしてくださいね。面倒事はごめんです」
「本当に容赦ないね、トンクス」
「今までのご自分を振り返ってから仰ってください」
そして二人はくすくすと笑った。二人きりだからこそできる軽い掛け合いだった。
「でもね本当に思っているんだよ、トンクス。ヘレンがノアのお嫁さんになってくれたらなって」
「でしたらご子息に発破をかけるほうがよろしいかと思いますね」
「それもそうだね」
エルサは笑った。これからの明るい未来を想像して。
誰もが幸せになれるとは思っていない。でもせめて、自分の両手が届く範囲の人が幸せになってくれたらと願った。




