11
その瞬間、大衆食堂の空気が変わったのを、誰もが感じた。
ゆっくりと開かれた扉から、一人の女性がゆったりと歩いてくる。
「ノア様―――」
女の目は、うっとりとしていて、愛しい男に会った蕩けるような目をしている。だが、異常だと、誰もが感じた。
「なんだぁ…?」
先ほどヘレンたちに絡んでいた男が、訝し気な視線を女―――ジェシカ―――に向ける。
「ノア様、真実の愛を、貫きましょ……?」
まっすぐに歩いているジェシカは、ぱっと見普通の女性に見えた。ただただ、愛しい男の元に向かう女性のような、そんな女に。
だが、その異常をいち早く理解したのはノア―――その視線を向けられている―――当人だった。
「ジェシカ、何をしに来た」
「何って…真実の愛を、貫きに…」
「君と私の道は、既に分かたれている。君は、あの男を選んだんだろう?」
いつになく緊迫した空気に、その食堂にいた誰もが息を呑んだ。もちろん、ヘレンも。ノアは、そのヘレンを席から立たせると、腰を抱き寄せて自分の傍に置いた。
「ノア様、その、女は、ノア様を駄目にする女よ? ねぇ、私を未だに忘れられないからって、駄目じゃない…」
「ジェシカ、近寄るな」
「その女は、ノア様を食い散らかそうとする、堕落した女ですわ…、ノア様、ねぇ、私たち、愛し合っていたでしょう?」
「来るな」
ジェシカの異常な姿に、誰もが近寄れずにいた。
「ジェシカ、彼女は私の婚約者だ。君は、もう過去の存在だ」
「嘘。ノア様は私を愛していたわ…、でも、私があの男に騙されてしまって…本当にごめんなさい…でも、今ならわかるの、ノア様こそが、私の運命の人だって…」
「……元アストン公爵令嬢、君と私との道は既に分かたれている。何度も言わせるな」
「…どうして? どうして、そんなに冷たいことを仰るの……? あぁ、わかったわ…その、女ね?」
「っ」
ジェシカの視線が、ヘレンに合う。その憎しみに満ちた視線に、ヘレンはびくりと肩を震わせた。そんなヘレンに気づいたノアが、ヘレンを守るように抱き寄せる。それがジェシカの逆鱗に更に触れた。
「げ、せんな、おんながああああああ!!! のあさまに、ふれて、ただで、すむと、おもわないことね!!!!」
その場にいた誰もが、ジェシカが狂っていると思った。それくらい、彼女がおかしかった。
「おかしいでしょおかしいでしょ!! なんで、わたしが、こんなに、つらいのに!! どうして、のあが、しあわせに、なろうとしているのおおおお!? のあさまは、わたしといっしょじゃなきゃ、しあわせになれないでしょおおお! わた、わたしとのあさまは、うんめいで、つながっているのにぃぃぃぃいいい!!!」
錯乱したように振り乱すジェシカに、誰もがそれ以上はやばいと感じたのか、男が三人がかりでジェシカを抑え込む。
「は、な、せええええええ!!!! のあ、のあ、ノア様!! 私と貴方は、うんめい、なのよ!? どうしてそんな女と一緒にいるの!? わたし、あの男に騙されたの!! ねぇ、聞いて!? 私、ずっと貴方を愛していたの!! でも、あの男が……!!」
髪を振り乱しながら叫ぶジェシカに、その場は異様な空気に包まれた。
あの後、ジェシカは自警団へと引き取られていった。自警団の隊長、マーカスとノアは既知なのか、事情聴取後、結果を報告にヴィノーチェ家にやって来るとの話でその場は落ち着いた。
「…変なことに巻き込んでしまった、申し訳ない」
「いえ…ですが、その…」
ヘレンはノアに婚約者と言われたことを心配していた。あの場では彼女を自制させるために言ったのかもしれないが、結果として彼女の逆鱗に触れただけだった。
そのあとに訂正していればよかったのだが、あの空気でそれが出来るわけもなく、ヘレンとノアは婚約者同士というまま、二人は馬車に乗っていた。
「あの場で弁明などをしておりませんでしたが、よろしいのでしょうか?」
「あ、あぁ…。その件に関しては後日こちらから話す。私に婚約者がいるとなれば諦めるかと思ったんだが、悪手になってしまったな…」
「そう、ですね…」
ヘレンにはジェシカの気持ちが分からなかった。しかし、恋は人を変えるということだけは良く知っている。自分の妹がそうだったから。
…妹は、カレンは、元気にしているのだろうか。
「とりあえず一度屋敷に戻って休むといい」
「ありがとうございます、ノア様」
*****
「遅くなってしまい、申し訳ございません」
「構わない。むしろ面倒をかけてしまったな、マーカス」
「いいえ。とりあえず報告だけでも先にと思い、伺いました」
「わかった。応接室に案内しよう。ミーシャ、君にも面倒をかけたな」
「いいえ、災難にございましたね、ノア様」
その日の夕方、マーカス隊長と副隊長であるミーシャがヴィノーチェ家を訪れていた。ミーシャは女性だが、その腕を買われ、自警団に属している。
三人は話し合いながら応接室へと向かう。そんな中、マーカスは思い出しだようにノアにおめでとうと寿ぐ。
「何の話だ?」
「何って、ノア様ご婚約されたのでしょう? 水臭い、言ってくださってもいいじゃないですか」
「あぁ、その件だが」
「ノア様」
ノアが訂正しようとすると、向かい側の廊下からヘレンが歩いてきた。
「ヘレン、休んでいないのか」
「いいえ、少し休ませていただきました…御来客でしたか、申し訳ございません」
「いや、構わない。ヘレン、これからジェシカの件の報告を受けるが、君も同席するか?」
「よろしいのですか?」
「巻き込んだからな。君にも事の顛末を知る権利はあるだろう。構わないな、マーカス」
「もちろんです」
ヘレンは少しだけ戸惑っていたようだが、マーカスとミーシャが頷いたことで同席を決意したらしい。小さく頷くとノアの傍へとやって来た。
「ヘレン、こちらはカロリアン自警団の隊長のマーカスと副隊長のミーシャだ」
「お初にお目にかかります。ヘレンと申します」
「ご丁寧にありがとうございます、ヘレン嬢」
そうして四人は応接室へと入っていった。
「―――それで、あの女は?」
「拘留したままです。女の旦那に連絡はしているので、そのうち迎えに来て出ることになるでしょう。
事情聴取に手間取ってしまいましたが、要約するとノア様と自分は愛し合っている、しかし現旦那に騙されてしまった。ノア様がヘレン様と一緒にいるところをみて、ノア様が騙されていると思ったと言っています」
「支離滅裂にもほどがあるな」
ノアはため息をつきながら素直に感想を零した。それに同意するようにマーカスも頷く。
「現実、罪を犯しているわけではないため、牢に入れることは出来ません。旦那が迎えに来れば、彼女は釈放されます」
「だろうな」
ノアはマーカスの言葉を聞きながら、屋敷の警備を厚くするかと考える。
「それにしても、とても落ち着いた様子のご令嬢ですね。ノア様のご婚約者はとても度胸がおありのようだ」
「はい…?」
「本当に。それにお人形さんのように可愛らしい方ですね。羨ましいです」
「あの、その…」
ヘレンが戸惑いながら訂正しようとするのを、ノアが留める。
「可愛いというのは確かだが、婚約者ではないんだ」
「え!? そうなんですか!?」
「あぁ。あの場ではそう言えば彼女が落ち着くと思ったんだが、悪手だったようでな。訂正する間もなく戻ってきてしまったんだ。それとなく話しておいてくれないか」
「それは構いませんが…お似合いだと思うんですけどね。そう思わないか、ミーシャ」
「えぇ……本当に」
「……?」
ミーシャの熱の籠った視線に、ヘレンは不思議そうに首を傾げる。ノアはそんなミーシャを見て、マーカスにそろそろと声をかける。
「では、我々はここで。また何かあれば呼んでください」
「あぁ、助かる」
ヘレンは頭を下げ、ノアは軽く手を上げ二人を見送った。
「ヘレン、少しいいか」
「? はい」
戻ろうとするヘレンを、ノアは呼び止めた。
「さっきの応接室でいいな。少し話しておきたいことがある」
「わかりました」
二人はそうして、きた道を戻った。
「……彼女との関係は、以前にも話したな? 多分だが、その生活がうまくいっていないのだろう。当たり前だ、彼女は元貴族令嬢。そんな彼女が平民の生活に耐えられるはずもない。だが、アストン公爵も母の怒りを買うわけにはいかない。だから彼女への支援は一切行っていないはずだ」
「そんなことが…」
「正直、どうして彼女が私と思い合っていると豪語出来るのか理解できない。だが、彼女が君に対して敵意を持っているのは確かだ。たとえ本当は婚約していないと言っても、あの様子では聞かないだろう」
「そうですか…」
正直に言って、ノアはもうジェシカとは関わりたくない。一度は一生を共にする相手だと信じ、それなりに愛情を持っていたが裏切られたあの日、その感情は完全に消えた。今となっては、全く恨んでいないというわけではないが、それ以上に顔を合わせたくない。苦しめと思っているわけでもない。ただ、互いの道は分かたれたとだけ思っている。
「とりあえず、君には外出の際に警護をつける。マーカスに頼むが、少し時間がかかる」
「……ミーシャさんでは駄目なのですか?」
「あぁ…彼女は…君の身が危険になる可能性が高い」
「?」
ヘレンにはノアの言うことが理解できないのだろう。それも致し方のないことだが。
「…ミーシャは、女性が大好きなんだ」
「? 悪いことなのですか?」
「いや、君が思っているようなものじゃない。さっき見ていていて思ったが、君はミーシャの好みのタイプのようだ」
「??」
「……ミーシャは君のことを恋愛の対象として見ている、ということだ」
「……? えっと、ミーシャさんは、男性、なのですか?」
「違う。ただ、あいつは素直に女性が恋愛対象なんだ。ミーシャが君の護衛につけば、あいつはここぞとばかりにアプローチするだろう」
「で、でも、わからないんじゃ…」
「……自警団の中で一つだけ、決まりがある」
ノアが厳かに言うと、ヘレンの喉がこくりと小さく鳴る。
「出来た彼女をミーシャと会わせるな、だ。ミーシャは自警団でも副隊長になるくらいの実力を持っている。そんな彼女に心奪われる団員の彼女がいるんだ」
「そ、そんな…」
「振られる理由が、ミーシャに心奪われた。嫌いになったわけではないが、ミーシャと知り合ってしまった以上、付き合えない、だ」
ノアの空気に飲まれたのか、ヘレンは両手で口元を抑え、驚愕している。
「だから、ミーシャは護衛にはしない。いいな?」
「はい」
ヘレンの神妙な態度に、ノアは心の中でほっとした。真面目な子で良かった、突っ込まれずに済んだ、と思いながら。




