10
彼女は、どろどろとした怒りを感じながら爪を噛んだ。
どうして、どうして、どうして。
てっきり、彼は幸せになっていないと思っていたのに。
どうして、自分以外の人と一緒にいたのだろうか。
自分は幸せじゃないのに。
自分が悪いことはわかっている。
それでも赦せなかった。
彼らのせいで、自分がこんなにも苦労しているのに。
不意に彼女は思いついた。
彼と自分は、本当は愛し合っていたのだと。
何も知らない自分は、あの男に騙されたのだと。
きっと、彼は自分と別れたくなかったに違いない。
でも、家のこともあるから、泣く泣くあの女といるのだと。
自分が戻れば、きっと彼は、真実の愛に目覚めるはずだ。
だって、自分がそうなのだから。
本当に愛しているのは、彼だけだと、気づいたのだ。
きっと今までの間違いは、神からの試練。
その試練を乗り越えれば、二人は真実の愛の元、結ばれるはずだ。
「―――そうよね、ノア様」
ジェシカは、狂気に満ちた瞳を爛々とさせながら、うっとりと呟いた。
*****
「きゃあああっ、ヘレン様、お綺麗ですわ!!」
「待って、アイリス! これならこちらの髪飾りのほうが似合うわ!」
「シャーリー、それは、少し、重いわぁ?」
「でもでも! あ! こっちは!?」
「そうねぇ、ん、いいわぁ」
「ヘレン様! こちらに取り換えましょ!」
「は……は、い」
ノアとヘレンが町に出るという話が出た翌日、ヘレンはまだ朝だというにも拘らず既にぐったりとしていた。反対に、侍女であるイリーヌ、アイリス、シャーリーのテンションの上がり具合は留まることを知らなかった。
ヘレンの着ているドレスは、少しいいところのお嬢さん、といった装いだ。それでも、生地はとてもいいもので、所々に繊細な刺繍が施されている。真っ白なレースがふんだんに使用された紺色のドレスには、はちみつを固めたような釦がいいアクセントになっている。……誰かを彷彿させる色合いだ。
「……あの、イリーヌさん、この配色…」
「とても、お綺麗ですわぁ、ね? 二人とも」
「はい!! 本当にお似合いです!!」
「これでイチコロですね!」
「い、いちころ…?」
「駄目よぉ、ノーサツ、じゃなきゃ」
のーさつ? ヘレンはどういう意味だろう、あれ、前にも聞いたことが…と考えながらも行きましょうと三人に急かされる。イリーヌから予定を聞いたところ、午前中から出かけて昼食を摂り、夕方前には屋敷に戻るのだと伝えられた。
「ターニャ様とエメリオ様が、お勉強中に行かれませんと、拗ねて、しまわれます、からねぇ」
ころころと笑いながら言うイリーヌに、二人も連れていけばと言おうとしたヘレンだが、そのあとに続いた言葉に頭を真っ白にさせた。
「だって、初デート、ですもの、ねぇ?」
「……で…!?!?」
「これならノア様も見惚れちゃいますよ、ヘレン様!」
「そうですそうです! ヘレン様は常日頃からもっと着飾って頂いて…!」
「ヘレン、用意はできたか」
そうこうしているうちに、ノアが扉の向こうに迎えに来たらしい。本来自分から行くべきなのにと慌てたヘレンは、勢いよく立ち上がる。
「ヘレン様、こちらを」
「ありがとう、マリ…っ、イリーヌさん!」
慌てていたヘレンは、つい、それを口にしていた。イリーヌは一瞬きょとんとしたものの、すぐさま笑みを浮かべる。
「ご、ごめんなさい」
「いいえ、お気になさらず。楽しんできてくださいね」
「……ありがとうございます」
完全に気を抜いてしまったとヘレンは後悔した。そして同時に、置いてきてしまった彼女のことを思い出した。元気で、いるだろうか。
考え込みそうになり、ふるふると頭を振る。今は、折角連れ出してもらえるのだから、楽しまなくては。イリーヌたちが頑張ってくれたのだから。
「お待たせしました、ノア様」
「いいや……似合っているな」
「い、イリーヌさんたちが、頑張ってくださいましたので…」
ノアはヘレンのドレスを上から下まで見ると、流れるように賛辞を口にした。そしてその色合いを見て、くすりと笑う。
ヘレンは、ノアの装いを見て、顔を火照らせる。自分がノアの色彩を。そして、まさか、ノアはヘレンの色彩の服を着ていた。
黒いコートに、白いシャツ。そして釦は銀の淵を使用した真っ青なものだ。
「……そ、の、ノア様、も、とても、お似合い、です……」
「ありがとう、さぁ、行こうか」
「はい」
差し出された手に、ヘレンはそっと手を乗せる。ノアは、ヘレンの手を、軽く握った。
「今日はどちらに行かれるのですか?」
「決まってない、な。とりあえず町歩きをしようか」
「わかりました」
馬車に揺られた二人は、演劇を見た町へとやってきていた。
「では、また後程こちらにお迎えに上がりますね」
「ありがとうございます、イクスさん」
「何かあれば呼んでくれ」
「かしこまりました。ですがノア様、たまにはゆっくりと羽を伸ばしてくださいね」
「あぁ」
そうしてイクスは馬車を走らせる。その後姿をある程度の時間見送った二人は、顔を見合わせる。
「では行こうか」
「…はい、ノア様」
ヘレンは、自分の手を差し出された腕に添えるように置く。それに対してノアはヘレンの指先を軽く引き、しっかりと掴まらせた。
「はぐれないようにな」
「っ…はい」
ヘレンの脳裏に、初デートですわねと言ったイリーヌが思い出された。
二人は、のんびりとした足取りで町を歩いた。宝石店や衣類店、雑貨店を見ながら、談笑する。
「この宝石のカットの仕方は珍しいな、店主」
「えぇ、えぇ! ダンデリオン特有のカットの仕方でして―――」
「とても珍しいのですか?」
「そうですともお嬢様、これは―――」
「ノア様の御髪に、こちらの帽子の色はお似合いですね」
「そうか? それならばヘレンにはこれが似合うな」
「まぁまぁまぁ! 仲睦まじいですわ! 折角ですから、お試しに―――」
「…ノア様、このインクの色、素敵ですね」
「ん? あぁ、手紙などに使用するのにいいかもしれないな」
「旦那様、そちらの系列ですとこういったお色もありますよ」
「あぁ、見せてもらえるか?」
始めは緊張していたヘレンも、だんだんと慣れてきたのか、ノアと腕を組んでいることを自然体のように感じながら楽しんでいた。
ノアは、そんなヘレンを優しい目で見ている。
「そろそろ昼食の時間だな…。ヘレン、私の行きつけで構わないか?」
「はい、勿論です」
そう言って二人は、大衆食堂へと足を踏み入れる。貴族向けの店ではないことが外観から想定出来たが、ノアは良く通っているようで、女将らしき女性から快く受け入れられていた。
「あらあらあら! ノア坊ちゃん! 久しぶりだねぇ!」
「久しぶりだな、女将。二人、いけるか?」
「あいよ! お連れさんは……女の子!? 坊ちゃん、女の子連れてくるような場所じゃないよ、ここは…」
「駄目なのか…?」
「いいや、ウチとしては嬉しいがね…。でもデートだろう? もっといい場所に連れて行っておやりよ」
「おいお前、そこまでいうことないだろう」
「しょうがないだろう、アンタ」
ぽんぽんと交わされる会話に、ヘレンはぽかんとしながらもノアに勧められて椅子に座った。
「ここは私が長年通っていてな。夫婦でやっているんだ」
「そうですか、よろしくお願いいたします、女将さん」
「あらやだぁ、そんなかしこまらないでおくれよ。にしてもお嬢様はいいのかい、ウチで?」
「ノア様のお勧めですので、とても楽しみにしております」
ヘレンがにこりと微笑むと、女将は嬉しそうに笑いながら腕によりをかけさせてもらうよ、と返す。
「女将、今日のおすすめを」
「別々のものにするかい?」
「そうだな…そのほうが楽しめる」
「あいよ! アンタ! おすすめランチ肉と魚一つずつ! 腕によりをかけて!」
「あいよー」
女将がその場を離れ、そしてヘレンは周りをこそりとしながら伺う。席はほぼ満席状態で、ざわざわとした空気だ。しかし、不思議と気に障るような騒がしさではない。
「大丈夫か、ヘレン」
「はい、とても、いいお店ですね」
「そう言ってもらえて、良かった」
ヘレンの回答にノアは嬉しそうに笑った。自分のお勧めの場所を気に入られて悪い気がする人などいないだろう。
二人の席の向こう側では、がははと大きな声で笑う男たちが楽しそうに酒を飲んでいる。するとそのうちの一人がノアを見つけたらしく、声をかけてきた。
「お、ノア坊ちゃんじゃねーか! 久しぶりだなぁ! お? おお? 坊ちゃんついに嫁さんか!?」
「何ぃ!?」
「まじかよ!」
「やっとかーー!」
「落ち着け、それに違」
「おああああ!! 美人さんじゃねーか!! くっそー美男美女かよ!」
「え、あの」
「お嬢さん、お名前は?」
「坊ちゃんなんかより、俺なんかどーよ?」
一瞬でその場がさらに騒がしくなる。男たちは祝いだー!と笑いながら酒を交わし合っている。
「済まない、ヘレン、騒がしくて」
「い、いいえ、大丈夫です…」
ヘレンは初めて感じる騒がしさに驚きながらも、陽気な空気に恥ずかしそうに笑った。
「お、笑うと更に美人だなー!」
一人の男が顔を赤くさせながらヘレンの顔を覗き込む。それにびっくりしたヘレンが仰け反ると、にゅ、と出てきた手が男の顔を掴んだ。
「はい、そこまでだ」
そこには、にこりと微笑みを浮かべているが、そこはかとなく怖い空気のノアがいる。そのノアの様子を見た男は、へへ、ごめんなさい、と素直に謝りながら引き下がった。
「ほらほらアンタたち! お嬢様が怖がっちまうだろ!? 席に戻んな!」
するとタイミングよく女将が料理を片手にやってくる。女将の言葉に、男たちは次々にやりすぎた、すまんと謝りながらも席へと戻っていった。
「済まないねぇ、お嬢様。悪い奴らじゃないんだけどね」
「い、いいえ! 少し驚いただけです…。でも、皆さんノア様のことがお好きなんですね…」
「あら、分かるのかい? ノア様、このお嬢様は逃がしちゃいけないね」
ばちりと片眼を瞑りながら茶目っ気たっぷりに言う女将に、ノアは笑みを浮かべた。
「そうだな」
「っ…!」
きっと他意はない。そのはずだ。しかし、ノアのその優しく溶けるようなはちみつ色の瞳を見たヘレンは、動悸が早まるのを感じながら視線を下に向けた。
そんな二人を、食堂の窓を覗き込んでいる女が、見ていた。手入れをしていれば美しいだろう彼女は、ノアの姿を見つけると、うっとりと微笑む。そして対面に座っているヘレンを、憎悪も露わに睨みつけた。
「ノア様、今、貴方のジェシカが、行きますわ」
そうしてジェシカは、大衆食堂へと足を踏み入れた。




