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「ヘレン! 今日は私と一緒にお茶をしましょう!」
「駄目だよ姉さま! 今日は僕と一緒にお庭でかくれんぼをするんだ!」
「なんでよ! エメリオは昨日も遊んだじゃない!」
「姉さまだって! 夜ご本を読んでもらっていた!!」
「あ、あの、御二人とも……」
「「ヘレンはどっちと一緒にいたいの!?」」
ヘレンは二人の子供に詰め寄られて、たじたじになっていた。嬉しい悲鳴だろう。そんなヘレンに救いの手を差し伸べたのは、母であるエルサだった。
「おやおや、ヘレンはモテモテだね。ママと遊んでくれないのかい?」
「「ママ!」」
三日ぶりに見るエルサに、ヘレンは慌てて居住まいを正してお辞儀をしようとした。
「いいよ、ヘレン、そのままで。にしても、二人はヘレンが相当気に入ったんだね」
「うん!! だってお兄様も優しくされているし!」
「それにヘレン、僕たちといっぱい遊んでくれるから!」
「ほう…ノアが」
「あ、あの、エルサ様…」
エルサがにやにやしながらヘレンを見る。その視線に耐えられなかったヘレンは、すぐに弁明しようとした。
「その、ノア様がお優しいのは誰にでもそうですから、他意はないと思います…!」
「おや、そうなのかい、ターニャ」
「いいえ! ヘレンはお優しいお兄様しか知らないからよ? お兄様、冷たい時はとっても冷たいんだから! ね、エメリオ!」
「うん!」
弟妹である二人がそう言うのであればそうかもしれないが、ヘレンはノアは根本的に優しい人だと思っていた。
「今日は久々に時間がとれたんだ! 折角だし、観劇でも行かないかい?」
「で、ですが、私はこの後ノア様の仕事の手伝いが…」
「あー。急ぎのものじゃないから大丈夫大丈夫! それにノアも誘って行こう! 家族水入らずだ!」
「え!? で、でしたら私は…」
すると、会話を外から聞いていたらしいノアが部屋へと入ってくる。
「ヘレン、諦めよう。母上は有言実行の人だ。それに急ぎのものがないのも本当だしな」
「で、ですがノア様……」
「いいじゃないか、ヘレン! カロリアンに来てからほとんど外を出歩いていないだろう? 観光がてら行こう! そうだな…夕食もそのまま外で摂りたいから…トンクス、観劇のチケットと合わせて頼めるかい?」
「……はぁ、かしこまりました。二時間ほどお時間を頂ければご用意できるようにいたします」
「さっすが、トンクス!」
「トンクスすごいー!」
「よし! 決まったね! 二人はヴィヴィアンヌに服を用立ててもらって、ヘレンはイリーヌに任せよう」
そうしてあれよあれよという間に、ヘレンはヴィノーチェ一家と共に演劇を観るべく町へ繰り出すことになった。
「―――っ!!」
ヘレンは初めて見る人の多さに、言葉を失った。誰もが楽しそうな表情を浮かべ、これからの観劇を楽しみしているのが窺い知れる。
「今日の観劇の演目はっと……」
「……初めて、こんなにたくさんの人が密集しているのを見ました」
ヘレンが唯一人が密集しているのを見たのは、ヴィーゴでの祭りだけだ。しかし、その時の比にならない人の密集具合に、言葉を無くす。
「ターニャ、エメリオ、はぐれないようにママと手を繋ごう?」
「「わぁい!!」」
「ノア、ヘレンがはぐれないように頼むぞ?」
「わかりました。……ヘレン、しっかりと握るんだぞ?」
「え…あ、はい…」
ヘレンは、戸惑いながらもノアの袖口を握った。手を握るのははしたないかと勝手に思ったからだ。しかし、ノアはそれでは足りないと言わんばかりにヘレンの手を握る。いや、それどころか絡めるように。
「の、ノァ様っ…」
「何だ? はぐれないようにするためにはこれくらいしないとな。もっと強く握っておけ」
「は、はぃ……」
顔に熱が籠るのを感じながらも、ヘレンはノアの手を握った。自分の手も女性にしては硬いと思っていたが、それよりもノアの手は硬いように感じた。節くれだった指、自分よりも大きな掌。時折感じる硬い部分は、剣ダコか何かだろうか。自分も結構頑張っていたと思っていたが、それ以上に硬いように感じた。
「……ヘレンは、剣も扱っていたのか?」
「…はぃ!? …あ、そう、ですね…師はいます」
「そうか…。頑張った人の手だな」
「―――っ!!」
ヘレンはノアの言葉に顔を真っ赤にした。そして見られないように俯いた。ノアは、ヘレンという個人を認めての言葉を言ってくれているだけだ。前のように、誰かの身代わりではないが恋愛感情からそれを言っているわけではないと必死に言い聞かせる。
「の、ノア様も」
「?」
ヘレンはノアの目を見られないまま、それでも言葉を必死に紡いだ。
「ノア様のお手も、とても鍛えられた方の硬さを感じます…。とても、素敵です……」
「―――、ありがとう」
何と言っていいかわからないヘレンは、感想をそのまま伝えた。ノアはヘレンの言葉を聞いても、一瞬ヘレンを見ただけであとは真っすぐ前を見ていたから、言われ慣れているのだろう。
そう思ったヘレンは、繋がれていない手を胸元に当てて、固く握りしめた。
結果から言えば、喜劇はとても楽しかった。誰もが笑い、涙し、そして感動する作品だったとヘレンは思う。考えてみれば、マイヤー家ではそういった娯楽をする暇などなかった。読書一つでも、世間の流行りや指南本ばかり。今日見た喜劇も本になっていると聞いて、ヘレンは素直に驚いた。
ノアに聞くところによると、本ではもう少し過激な表現があるが、劇では子供も見られるように配慮されているらしい。それを聞いたヘレンは、原作を読んでみたいと思った。
「読みたいのか?」
「っ…いつかは」
「そうか。確か母上が持っていたはずだからあとで聞いておこう」
「ありがとうございます」
ヘレンは、見習いという立場ではあるものの、ヴィノーチェ家から給金が支払われている。もちろん、居候分などを引いてもらってだ。エルサは気にしなくてもいいと言ってくれたが、世話になっている身。せめてそのくらいはと思い引いてもらっている。もちろん、それが破格なのも知っていた。
ヘレンは無駄遣いをしないように節制している。いずれは、ヴィノーチェ家から出ることを想定してだ。ヘレンはあくまでも、優しいこの一家は、サブリナから頼まれているから預かってくれているに過ぎないと思っている。その優しさにいつまでも甘えるわけにはいかないのだ。
そう考えていると、いつの間にかエルサたちから少し離れてしまっていたらしい。
「ヘレン、はぐれるぞ」
「あ、は――」
「ノア、様……?」
と、不意にヘレンの背後から息を呑んだような、そんな声が聞こえてきた。ノアは、ヘレンが呼んだと思ったのだろうか、振り返り、そして驚愕の表情を浮かべる。
ノアのそんな表情を見たことがなかったヘレンは、同じように振り返った。そしてそこには、一人の女性が目を潤ませて立ち尽くしていた。
「………ジェシカ、か?」
「っ、はい、ジェシカです」
二人の並々ならぬ空気に、ヘレンは息を潜める。
ジェシカと呼ばれた女性は、着ている服こそパッとしないものの、綺麗な顔立ちをしていた。チョコレート色の髪に、同色の瞳。顔は小さく可愛らしいが、その分少しだけ荒れた唇が余計に浮いて見えた。
「あ、あの、その……」
「……すまない、連れがいるんだ」
「えっ……」
ジェシカと呼ばれた女性は、その時初めてヘレンの存在に気づいたようだった。ヘレンは戸惑いつつも、笑みを浮かべる。そんなヘレンの腰を、ノアは自身へと引き寄せた。
「その、方は……?」
「ヘレン嬢だ。まぁ、会うこともないだろう。済まないが予定が詰まっている。これで失礼する。行くよ、ヘレン」
「あ、はい」
いつになく強引なノアにヘレンは戸惑いながらも、ジェシカに向かって少しだけ頭を下げる。ノアは既に歩き始めており、変な姿勢になる。その時、ヘレンはジェシカの表情を見て固まった。
「……」
ジェシカは、ヘレンに対して憎々し気な表情を浮かべていた。どうしてそのような表情で見られるのか分からず、ヘレンはパッと顔を背ける。
「―――大丈夫か?」
「は、い…」
ヘレンの一瞬の震えを悟ったのか、ノアは小声で問うてくる。それに、ヘレンは小さな声で返答した。
「彼女のことは後で話す。とりあえず今は母上たちに追いつくぞ」
「はい」
ノアはそれだけ言うと、ヘレンの腰を掴んだまま歩き続けた。
「―――彼女は、ジェシカ。ジェシカ・アストン元公爵令嬢だ」
「元?」
「あぁ。彼女は私のかつての婚約者でもある」
「こん、やくしゃ…」
帰りの馬車、ノアはエルサに小声で何かを話したかと思うと、エルサはターニャとエメリオを連れて先に屋敷へと戻っているとヘレンに声をかけた。
馬車は、もとより人数が多かったのと、道の細さの関係上で二台に分かれていたが、結婚前の男女ということもあってヘレンはターニャとエメリオと乗ってきた。しかし帰りはノアはと二人きりだ。
「あぁ。まぁ、彼女が下男と駆け落ちをしてな。それ以来一度も会っていないが」
「駆け落ち……!?」
ノアは淡々と当時の話をした。
ジェシカとノアは、ノアが二十でジェシカが十七の時に婚約をしたそうだ。四年ほどの婚約期間だったという。その間、ノアは忙しくとも出来るだけ彼女に会っていた。そしてそれはジェシカも同じであった。燃え盛るような愛情はなくとも、いい関係だと思っていたとノアは言う。
しかし、それが少しずつおかしくなった。会いに行っても上の空のことが多く、以前は楽しそうにしてくれた茶会もつまらなさそうにし始めたらしい。それでもノアは、きっと一時のものだろうと思い、責めたりも何もしなかったそうだ。
そしていざ、結婚式をいつにするかという話になった途端、ジェシカは逃げた。アストン家に仕えていた下男と共に。
「あの時の母上の怒りは凄まじかった…。私としては、正直に話してくれていればと思ったんだが、母上は許さなくてな。結果、彼女をアストン家から勘当し、一切の援助をするな、そして下男は二度と貴族の家に仕えられないようにしろと言った」
「それは…」
ヘレンは何と言っていいのかわからなかった。そんなヘレンに気づいたのだろう、ノアは苦笑を浮かべながら続けた。
「結果として、良かったと思っている。結婚してから逃げられるくらいならば、さっさと破棄したほうが互いの為だ。だが、私は私なりに大切にしていたつもりだ。まぁ…彼女はそう思わなかったようだが…」
ノアは、話は終わったと言わんばかりに窓の外に流れる風景を眺めはじめる。結局、ヘレンは何も言えなかった。何を言っても、薄っぺらいものでしかないような気がして。
「―――どうして」




